吟詠旅譚

風の謡 第三章 // 闇は密かに

042 : Rusty rustle

「ねえ、いつまで寝ているつもり?」
 呼びかけられて、アルトは寝ぼけ眼を手でこする。目を開けると、そこに見知らぬ天井が見えた。
 ここは一体どこなのだろう。体を起こして、ふと、気づく。ああ、これは夢なのだ――と。
 ふわふわとした、いかにも夢らしい夢だった。ぼんやりとした頭を振ると、石造りの部屋の中を慌ただしく歩く、女の姿が目に入る。白金の豊かな髪を肩に垂らした、若い女のようだった。部屋に置かれた家具の割に、着ているものは質素だから、使用人か何かだろうか。アルトがその様子をぼうっと眺めていると、彼女はベッドへ歩み寄り、そこに横たわる人間へ声をかけた。
「もう起きなさいよ。公務が始まる時間でしょう。あなたってば、そんなにナファン様を困らせたいの?」
(――ナファン?)
 ベッドから、低い唸りが聞こえてきた。それから弱々しく、「頭が痛い」と声がする。女は溜息交じりに水差しを持つと、「また、飲んだのね」と咎めるような口調で言った。
「どうして男の人って、翌日に響くような飲み方をするのかしら」
 再び、唸り声。しかしそれが唐突に止んだかと思うと、ベッドの人物が飛び起きた。
「あら、やっとお目覚め……」
「どうして、おまえがここにいる!」
 呑気な声を遮るように、男が慌ててそう叫ぶ。アルトは短く溜息すると、居場所を求めて視線を泳がせた。
(一体、どんな夢だ)
 自分自身に問いかける。目の前で顔をしかめ、二日酔いに頭をおさえる男に見覚えがあったのだ。
「あら、聞いていなかった? 私、今日からこのお城で――バラム城で働かせていただくことになったのよ」
「まさか!」
 男がいったん、閉口する。それから恐る恐る、しかし祈るように、続けた。
「悪い冗談はやめてくれ。おまえみたいなじゃじゃ馬は、もうこりごりなんだ」
「残念ね。皆さん私のような『じゃじゃ馬』が、あなたのお守にはぴったりだっておっしゃっていたわ。さあ、はやく着替えて。仕事に障りが出るわよ」
 そう言って彼女はクローゼットを開け、ハンガーにかけてあったシャツやら、上着やらを勝手に見繕っていく。男は肌着のまま起きてそれらを引ったくると、女の腕をとり、ぐいぐいと部屋の外へ追いやった。アルトの視界は彼女と共に追い出され、憤慨する声に振り返る。
「何よ、――もう! バラムの城主様は、レディーの扱いがなっていないようね。聞いてるの、デュオ!」
 扉が閉じる直前に、男――デュオが顔をしかめ、おちょくるように舌を出した。茶の髪は寝癖で乱れ、顔色は二日酔いのためだろうか、いくらか青白い。しかし。
(まだ、若い――?)
 アルトが首を傾げる目の前で、扉は音をたてて閉じられる。成すすべもなく佇んでいると、今度は例の女性がくるりと体の向きを変えた。
 目が、あった。深い藍色の瞳が、食い入るようにアルトを見ている。
 だがそれだけだ。彼女はアルトになど気づかなかったように溜息をつき、さっさと廊下を進んで行く。その胸元に、きらりと一瞬光るものがあった。
「あっ……ま、待って!」
 声をかける。女性は振り返らない。
 突然、視界が暗転した。
 
「アザミはね、雨が降る前に自然と包葉を閉じるの。まるで、あなた達の進軍を祝福しているみたいね」
 別の場所に出た。どうやらどこかの町外れのようだ。辺りには兜をかぶせられた馬が何騎も用意されており、その周囲を歩く男達も皆、武装してクラヴィーアの国旗を掲げている。
(――戦争の、準備か?)
 その中に、一人威厳ある佇まいで苦笑する男があった。身につけた鎧から、それがこのバラム城の城主であることは一目で知れる。アルトはその見知った顔に歩み寄ろうとして、やはり側に、先程の女が付き従っている事に気づいた。
「雨さえ降れば、作戦は必ず成功する。勿論、あなたがしくじらなければの話だけれど」
 鎧を着込んだ男達の中で、彼女だけは変わらず、ふんわりとしたスカートを身にまとっていた。通りかかる兵士の誰にもにこやかに笑いかけ、しかし兵士達に負けぬ強かな瞳で、隣に立つデュオへ挑みかかるようなことを言う。しかしその挑戦的な言葉にこそ、城主の苦笑は朗らかな笑みに変わるのだ。
「馬鹿言え、誰に向かって物を言ってる。――それにしても、そんなことで天気がわかるなんて、まるで占い師だな」
「都会の人が、物を知らなすぎるだけだわ。だけど、まあ、自然の流れや前兆を読み取って語るという意味では、占い師と変わらないけれど。……この才能を生かさないのは勿体ないし、私、首都で資格を取って本物の占い師になっちゃおうかしら」
 なんでもないかのようにそう言っておいて、デュオが言葉を詰まらせたのを見ると笑い出す。それから彼女は、悪戯めかせて「冗談よ」と言った。
 先程見た光景から、少し時間が経ったのだろうか。どうやら二人の関係も、随分違っているようだ。
 アルトは気を抜くとすぐにぼんやりしてくる目をこすり、泳ぐように地に足をつけた。ツキやサイメイと出会った場所とは、随分違う。ただの夢だ。だが、何か違和感がある。
 そうして辺りを見回すうち、アルトにはふと気づくことがあった。
 先程のあの女性の首から、一つのペンダントがさがっている。それはアルトに見慣れた、あの金のペンダントだ。傷はなく、鎖も今のものと違って光沢のない安い銀のようではあったが、トップだけは間違いない。
 段々と曇る空の下、彼女は笑ってこう言った。
「大丈夫よ。私はね、あなたの為なら勝利の女神にだってなれるもの」
 踵を上げて肩に両手を回し、デュオの唇にキスをする。
(この夢、もしかして――)
 まぶたが勝手に落ちるように、再び視界が、暗転した。
 
 目を覚ましたそこにあったのは、やはり見慣れぬ天井だった。
 だが全く知らないものではない。そこが今朝方辿りついたミーニャ村の宿だということを思い出し、アルトはむくりと起き上がる。
 寝付いてから、それほど時間は経っていないようだ。アルトは薄っぺらい上掛けを押しやると、きょろきょろと部屋の中を見回した。枕元に水差しでもあるだろうかと思ったのだが、よくよく考えてみれば、小さな村の安宿に、そんな気の利いた物があるはずもなかった。
(――何か、妙な夢を見た気がする)
 寝ぼけた頭で考えてみる。しかし今ひとつ、思い出すことはできなかった。
 脱ぎ捨てた靴を探してかがみ込むと、胸ポケットからするりと落ちる物がある。こつん、と小さな音をたてて床に落ちたのは、デュオからもらった金のペンダントだ。アルトはそれを拾い上げて、自分でも気づかぬうちに溜息をつく。
 初めて手にした時には、開きそうにもなかったロケットペンダント。アルトはくるりと面を返し、そこに収められた小さな絵画を見た。
 モノクロの色彩で描かれた、一人の女性の肖像画だ。長い髪を高い位置で一括りにし、丸い背もたれのついた椅子に座って微笑んでいる。しかしそのインクは水にでも浸ったのか、随分にじんでしまっていた。
 しばらく眺めて、ぎゅっと拳に握り込む。
 そうしていると、扉をノックする音が聞こえてきた。アルトの返事も待たずに顔を覗かせたのは、シロフォノだ。
「起きたんだね。丁度良かった」
「ああ。もしかして今後の会議、もう始まってるのか?」
「今からだよ。だから、呼びに来たんだ」
 シロフォノに付いて隣室へ入ると、他の面々は既に集まっていた。しかしそこに見当たらない顔があることに気づいて、アルトは重たい口を開く。
「ヴァルスはやっぱり、追いつかなかったか」
 シャリーアでの逃走劇の際、クロトゥラの張った煙幕に乗じ最後まで弓矢で相手を足止めしたために、彼は共に町を脱することが出来なかったのだ。しかしそれでもいざという時、東へ抜けるにあたってはこのミーニャの村で落ち合う手筈になっていた。ここで幾時か待てば姿を現すかも知れない、とかすかな期待を抱いていたのだが、そううまくは行かないようだ。
「大丈夫。あの程度でどうかするような人間ではありませんからね。きっと今頃は、敵をまいて酒でも呷っているはずですよ」
 表情を変えることなく言い切ったゾーラを見て、アルトは思わず苦笑する。そうする隣で、デュオがぱん、と地図を叩いた。
「それで、これからの事なんだが」
 そう言ってデュオが話したのは、大体こういうことだった。
 当初、シャリーアの町を出た一行はそのまま南に進路を取り、海岸線にほど近いルートを進む手筈になっていた。海岸線にはシャリーアほどの規模ではないにしろ、漁港や貿易港が点在している。そこを結ぶように旅する、多くの行商人に紛れ込んで進む予定だったのだ。
 しかしこうして町を東に抜けてしまった以上、取るべき進路は限られている。
「カランド山脈を越えるしかない……って事だね」
 シロフォノの言葉に、深く頷く。
 クラヴィーアの土地を二分するかのように、その中央部に位置する山岳地帯。その中心となるのが、件のカランド山脈である。標高を鑑みてもけっして越えられない山ではないが、山中の道は地元の人間が稀に利用する程度の獣道だと聞く。厳しい行程になることは、容易に想像がついた。
「シャリーアへ戻るわけにはいかねえし、更に東へ行ってウラガーノ方面から回り込んだんじゃ、時間がかかりすぎる。それに山越えをする間、少なくとも王都軍に手間取らされる事だけはないはずだ」
 その言葉の真意を汲んで、アルトは生唾を飲み込んだ。確かに王都軍が、山に踏み入ってまで追ってくる可能性は無いと言っていいだろう。むしろ、彼らにはそんなことをする必要がないのだ。デュオ達が山を越える可能性については考えているかも知れないが、ならば山脈の更に向こう側、首都の側で待ちかまえればいいだけの話なのである。
 ならば一体、何が山越えの障害たり得るか。答えは簡単だ。
「ジェメンド、か」
「ジェメンド?」
 クロトゥラの呟きに、アルトが思わず問い返す。すると彼は軽く頷いて、こう続けた。
「レシスタルビア帝国の、雇われ暗殺者達のことをそう呼ぶんだよ。腕には定評があって、都じゃ結構有名なんだ。――って言っても、ごくたまに噂で聞くくらいのもんだけど。前にシロフォノも言ってただろ? ソーリヌイ侯と一緒にいたあの刺客、言葉にちょっと、クラヴィーアの人間にはない訛りがあるんだ。だから奴ら、ジェメンドの可能性が高いと思ってさ」
「レシスタルビアにしか生息しない騎獣、ムファサナ・トリアに乗っていた痕跡もあった、と言っていたわね」
 ゾーラの言葉には、シロフォノが頷く。
 一瞬、室内がしんと静まりかえった。ムファサナ・トリアはこのクラヴィーアでは滅多に見ることのない生き物だが、馬より身が軽く、どんな悪条件な足場にも順応する理想的な騎獣であるという。
 それに引き替えこちらは馬で、しかも不慣れな山越えだ。アルトはデュオから地図を受け取り、ざっと目を通すと、緊張感無くこう言った。
「でも、頑張ってみるしかないみたいだな」
「……まあ、実際そうなんだけどよ」
 デュオが苦笑して、頬を掻く。しかし誰もが同じように考えていることは、明らかだった。その証拠に、誰の目にも翳りは見えない。
「そうと決まれば、すぐにでもここを発とう。この村だとて、いつまでも安全だという保証はない」
 マルカートの言葉に、全員が頷く。
 行商人を装うための荷物はあらかた換金してしまったし、出発のために大した準備は必要なかった。水と食料は今朝方既に手配してあるから、あとはそれらを馬に括り付けるだけで、十分に事は足りる。
 アルトは馬に水を飲ませながら、ふと、クロトゥラの手に目をやった。
(また、煤が付いてる)
 アルトの視線に気づいたのだろうか。クロトゥラが手を払う仕草をして、それでも煤が落ちきらないのを見ると、馬の水飲み場までやってきた。しゃがみ込み、手を伸ばして水をかける姿を見ながら、アルトは近くにあったひしゃくを拾う。
「もしかして、その服の中、昨日みたいな火薬が入ってるのか?」
 ひしゃくで手に水をかけてやると、彼はにやりと笑ってアルトを見上げた。
「よくわかったな」
「わかるさ。じゃなきゃ、そんなに手を伸ばす必要がない。濡れると火薬が湿気るからだろ?」
「まあね。そんなに柔でもないけど、一応な。……それよりアルト。飲ませすぎると、走ってくれなくなるぜ」
 言われて、アルトは慌てて手綱を引いた。まだ水を飲み続けようともがく馬の鼻面を無理矢理背けさせて、厩の縁に手綱を結ぶ。
 振り返り、濡れた手をひらひらと振り回しているクロトゥラに向かって、言った。
「気をつけろよ、それ」
「ん、何が?」
「だから、爆薬。うっかり火が付いたりしたら、危ないだろ」
 当然とばかりにそう言うと、クロトゥラはまず、きょとんとして目を瞬かせた。それから一拍間をおいて、笑い出す。
「文字通り、『自爆』って事か! 何かと思った。いやいや、そこまで間抜けじゃないって!」
「――ああ、そう。なら良かったな」
「ふて腐れるなよ。だってほら、そんな心配をされるとは思わなかったから」
 なおも笑い続けるクロトゥラを見て、アルトは居心地悪くそっぽを向く。そんなにおかしな事を言っただろうか、とも思ったが、そう口に出したら余計に笑われるだろうと想像がついたので、やめた。
「まあ、でも、ご心配には及びません」
 笑い止まぬまま、冗談めかせてクロトゥラが言った。
「大丈夫。俺は結構、窮地にあってもどうにかなるタイプだから」
「その自信はどこから来るんだ」
「過去の実績?」
 いつかも聞いたやりとりに、アルトは呆れて肩をすくめる。ようやく笑うのをやめたクロトゥラが、慣れた手つきで鞍を置いた。
「ある人が言ってた。俺は、風の精霊に好かれてるんだってさ」

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