吟詠旅譚

風の謡 第三章 // 闇は密かに

041 : The thistle -2-

「例の隠密か。……厄介な」
 マルカートが低く唸る。その隣で剣を握り直しながら、アルトは辺りを見回した。大分町の外れまで来たとはいえ、広い道の脇にはまだ、家屋や家畜小屋などがちらほらと見受けられる。相手はそのどこかに潜んでいるのだろうが、夜空の下には静かな風が吹くばかりで、姿はどこにも見受けられない。
 アルトは注意深く視線を据えて、言った。
「けど、おかしい。軍が町に来ていることは、あいつらだって知ってるはずだ。向こうにとっても、良い条件ではないはず――」
 王都軍が彼らのことを認識しているかどうかはともかく、ソーリヌイ侯の一派にしてみれば、ここでアドラティオ四世の直属の人間と対面してしまっては不都合なのではないか。そんな疑問が湧いたのだ。しかしその言葉をかき消すかのように、言ったそばからまた例の飛礫が飛んでくる。
(攻撃にしては中途半端だ。足止めか、時間稼ぎのつもりか? ――なら)
 繁華街へ戻って相手を撒くか、このまま町の外へ逃げるか、取るべき手段は二つに一つである。仲間と合流しなくてはならない手間を考えれば、町へ戻る方が確実ではあった。だが、町には王都軍がいる。
 顎をしゃくって東を指すと、マルカートもまさに、同じことを考えていたようだった。小さく頷き返してきたのを見て、アルトは町の外へ視線を向けた。既にマルカートの鷹が、仲間たちを呼びに向かっている。ならば今は一刻も早く彼らと合流し、町を抜けるのが良策だ。
 しかし夜露に湿り始めた地面を蹴り、今まさに駆け出そうとした瞬間のことだ。
「おや、やっと追いついた」
 真後ろから聞こえた声へ、とっさに振り返る。しかし後ろ手に手首を捻りあげられ、即座に身動きを封じられてしまった。相手の冷たい指先が、尖った爪が、アルトの腕に食い込んだ。
「何奴――!」
 引き返そうとしたマルカートの進路を、温度のない飛礫が音もなく断つ。見ればマラキアで会ったのと同じ黒いマスクの人影が、点々とアルトらの周りを取り囲んでいた。
 首筋に、冷たいナイフの感触がある。アルトが奥歯を噛み締めると、背後の男が静かな笑い声を上げたのがわかった。
「この前みたいに、途中で消えたりしないでくださいよ? 殿下」
 マラキアで、フェイサルと共に行動していたあの男だ。逃れようと身をよじっても、相手の力が緩む様子は一向にない。アルトはあからさまな悪態をついて、それから、言った。
「母上の肖像画を奪うことで、目的は達したんじゃなかったのか」
「いやぁ、我々もそのつもりだったんですがね。大切な『あるもの』が足りなかったんですよ」
 今にも笑い出しそうなねっとりとした声で、男の声がからみつく。肌にまとわりつくような不快感に顔をしかめると、相手は尚更気を良くしたようだった。
「『あるもの』って、一体――」
「シルシ」
 アルトの言葉を遮るように、男が言った。それから耳元で、囁くようにこう告げる。
「おや、鼓動が少し早くなりましたね。殿下は何かご存じなのですか?」
 腕を握る手に、力がこもる。腕の血が止まりそうだ。
 自然と指先の力が抜けて、握り締めていた剣がするりと落ちた。背後の男が勝ち誇ったように、にたりと笑ったのがわかる。
「それを持ち帰らなければ、仕事が終わりませんのでね」
 男の声がひやりと響く。研ぎ澄まされたナイフの切っ先が、滑るように首筋を這った。仲間の気配はいまだ無い。多勢に無勢だ。正面きって反抗したところで、敵うわけがなかった。
 しかしアルトは視線を上げて、その向こうにぴかりと、一瞬何かが光ったのを見た。
 つかの間の、貫くような短い光。アルトは直感的に、それが何であるのかを悟っていた。
 すっと、小さく息を吸う。それから短く言い捨てた。
「知るか、そんなもの」
 風を切る粗暴な音を聞くと同時に、アルトは緩まった相手の手中をすり抜けた。腰をかがめるようにして姿勢を落とすと、直後、震える金属音が辺りに響く。闇の中から投擲の要領で投げつけられた鉄の棒を、例の男が自らのナイフで逸らしたのだ。
 次の瞬間、今度は周りを囲んでいた男達を矢が襲った。矢を番える姿は見当たらないが、かなりの腕前だ。恐らくヴァルスだろう。アルトは素早く剣を拾い上げると、怯んだ男達の合間を縫って駆け、距離を取る。
「逃がすな、捕らえろ!」
 憤慨しきった、男の怒号。ふと見ると、夜空にぽっかりと空く穴のように、欠けた月が辺りを照らし出していた。風がそよぎ、草木がざわめき、静寂な夜闇を塗り替えていく。
 金のペンダントが、アルトの胸で軽くはねた。
「もし知っていたって、おまえ達には教えない」
 男が苛立たしげに、舌打ちしたのがわかった。同時にマスクの人影が剣を振り上げたのを見て、アルトは振り下ろされたそれを、自らの剣で受け流す。
 右へ退き、突きの姿勢で構えられた刃をはじき返した。しかし避けたはずの切っ先が、アルトの頬を浅く裂く。
(――速い!)
 手合わせをして改めて、マラキアの離れで見た彼らの動きを思い出した。相手を仕留める為に無駄のない、そして狙いを違わない、計算され尽くした最小限の動き。一般的な剣術の指南を護身の為に受けただけのアルトに、そう長く受け続けられるはずもなかった。
「アルト、左だ!」
 注意を呼びかける声がする。しかし咄嗟のことで、不意の飛礫に対応出来ない。
 思わず息を呑み、最悪の事態を覚悟する。飛礫はまっすぐアルトの眼前へ迫り、それから。
 耳元で金属を切り伏せる、涼やかな音がした。勢い余って地面へはじけ飛ぶ飛礫を見て、アルトは安堵の息をつく。
 剣を構え、アルトへ背を向けるように立ちふさがったのは、クロトゥラだった。頬には汗を浮かべており、ここまで走ってきたのだろうか、珍しく息を弾ませている。今までどこにいたのやら、指先が、煤のようなもので黒く汚れているのがわかった。
「怪我は?」
「まだ、無い」
 頬にうっすらと浮いた血の線を手の甲で拭い去って、答える。すると相手も安心したのか、場に似つかわしくない笑顔を浮かべた。それから聞こえるか聞こえないかというほどの小声で、口早にこう指示をする。
「合図をしたら、ともかく走れ。前に襲われたときと同じ要領だ」
 一方的に言いつけるような強い口調に、アルトは思わず顔をしかめた。『前に襲われたとき』というのは、ウラガーノからマラキアへの道中のことを言っているのだろうか。そうだとしたら、簡単に首を縦に振るわけにはいかなかった。アルトは小声で、しかし一歩も退かない強い意志を持って返した。
「――今度は、おまえが一人で敵陣に突っ込むつもりじゃないだろうな」
「しないさ。そんな事をしたって、お人好しな王子様はわざわざ引き返して来るからな」
 溜息混じりの、しかし、悪戯っぽい声。
 一瞬間をおいてアルト達へ襲いかかってきた相手へ、すぐさま矢の雨が降る。アルトはいったんクロトゥラと距離を取り、突き出された剣を避けると、ごくりと唾を飲み込んだ。
 視線を向ける。にやりとしたその笑みと、目があった。
(なんでそんなに、楽しそうなんだ)
 呆れからくる息を吐いて、アルトは小さく頷いてみせる。それを見て、クロトゥラも強く頷いた。
 それが合図のようだった。
 突如、辺りが爆音に包まれる。アルトは剣を握っていない左手だけで耳を塞いだが、大して役には立たなかった。それもそのはず、爆発は炎こそ伴わなかったが、以前のものよりずっと強力になっていたのだ。それを見てアルトは、先程クロトゥラの手が黒く汚れていたことを思い出す。もしもあれが火薬の粉末か何かだとすると、この仕掛けはまさか、彼のお手製なのだろうか。唖然とする一方で、冷や汗が頬を伝うのがわかる。
 アルトは立ち上る土煙の中で小さく咳き込み、しかしぴかりと、また例の光が煙の合間に光ったのを見て駆けだした。
 剣は納めず、ひた走る。前を走るマルカートの姿を確認して、アルトはまた少し安堵した。この派手な爆発には、王都軍の関心を引く意図もあるのだろう。こうなった以上、ソーリヌイ侯の一派とてこの場を離れるより他にないはずだ。
 しかしまだ、気を抜くわけにはいかなかった。
 闇雲に投げつけられたらしい飛礫が、振り返ったアルトの視界を瞬間、過ぎった。アルトはそれの向かう先に気づいて、叫ぶように声をあげる。
「マルカート――!」
 呼ばれた男がその体格に似合わない機敏な動きで振り返り、剣を掲げて軌道を逸らした。しかし安心したのもつかの間、今度はアルト自身が自らの首元に違和感を覚えて、たたらを踏む。
 その身に攻撃を受けたわけではなかった。だが飛礫が首を掠めたのと同時に、何かがするりと地面に落ちる。
 デュオからもらったペンダントだ。アルトは慌てて腰をかがめると、足元にはびこるアザミの花の間へ、手を伸ばした。
――あなたは私達のこと、田舎者って笑うけどね。あなたが知らない事だって、ここには沢山あるんだから。
 場にそぐわない、穏やかな女性の声。
(まただ)
 棘を持つその花ごと、アルトの指がペンダントを握りしめる。爪の間に土が入り込み、棘によって裂かれた掌がじんわりと痛んだが、アルトは駆ける足を止めなかった。
――大丈夫よ。私はね、あなたの為なら勝利の女神にだってなれるもの。
――今日のことを、誇りに思う。私、最高に幸せ者だわ。
――傷つけた。裏切った。……だけど、それでも私には、やらなくちゃならないことがあったのよ。
「誰なんだ」
 呟いた。
 人間の声ではない。それなのに、心が懐かしさを訴える。言葉が、耳の奥へ溢れ出す。
 土煙が晴れてきた。頭上に佇む月光の下に、見知った人影が待っている。マルカートが言ったとおり、既に馬も荷物も整っているようだ。
 馬へ飛び乗り、駆けなくては。アルトは声を振り払うように首を振ったが、しかし、期待した結果は得られずに終わった。
――ねえ。それでもまだ、私のことを想ってくれるなら。
 握りしめた拳を開くと、ちぎれたアザミの花が風に舞ってふわりと落ちた。掌中には土と、緑と、にじみ出る血液に混じってほのかに輝くものがある。
 月の光をぼんやりと照り返すそれを見て、アルトは小さく息を呑んだ。隠すように慌てて拳を握り直し、誰の目にも触れていないことを確認する。
 強い力で打ち付けられたかのように、頭の中が鈍く疼いた。
(あの声、――まさか)
 唐突に、理解した。
 馬へ跨り手綱を握る。腹を蹴ると駿馬はいななき、堅い蹄で地面を蹴った。振り返ってみるが、追っ手の姿は見られない。
「向かう場所は、全員把握してるだろうな!」
 デュオの問いに、大きく頷く。しかし声は返せなかった。今、口を開いたら、止めどのない疑問が一気に溢れ出てしまう。アルトは手綱を握りしめ、奥歯をぐっと噛みしめる。
 拳の中に、金のペンダントの感触があった。だがそれに今までのような厚みはなく、代わりに壊れて飛び出した金具が、アルトの手をひっかいている。
 地面に落ちた衝撃のためだろう。刻みつけられた傷によって長いこと封じられていたロケットが、今、その秘密を平然とさらけ出していたのだ。

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