吟詠旅譚

風の謡 第三章 // 闇は密かに

040 : The thistle -1-

 高台の広場を後にし、大通り沿いの小路を進む。広場と違ってこちらはいまだ賑わっており、小路にも泥酔して横たわる者、物売りなど、様々の人間が顔を見せていた。
 脇道からひょいと大通りを覗き見ると、丁度、夜の町を慌ただしく進んでいく集団の姿が視界に入った。古鉄色の詰襟に、双頭の鷲が刺繍された肩章。些かくたびれてはいるものの、それが皇王直属の軍隊の制服であることに、気づかぬ者など一人もいない。
 多くの町人は道を譲り、恐る恐るその背中を見送っている。この町で一体何が起こるのか、皆不安に思っているのだろう。
 そんな様子を横目に見ながら、デュオが小さく毒づいた。
「随分はやかったな。くそっ。軍の奴ら、真面目に仕事しやがって」
「いいさ。一人でも多くこっちを追って来てくれれば、その分ナファン達が逃げ易くなる。あとは俺達が、見つからないうちにここを出たらいいだけだ」
 口早にそう言ってから、アルトは一度、大きく溜息をした。
 緊張のための溜息だ。十分に想定していた事態であるとはいえ、実際にこうして町を練り歩く軍人の姿を見ると、胸の辺りが音を立てて萎縮していくような気がした。
 向こうで男が、手配書らしき紙束を手に聞き込みをしている。アルトのいる位置からではよく見ることが出来なかったが、一瞬、その紙束の中にソーリヌイ侯トルヴェールの顔を垣間見たように思った。
(第三王子の失踪については公にされていないみたいだから、俺のことは良いとして……。デュオの手配書は確実にあるはずだ。でも、他のみんなは? どこまで手配をされているんだ? どうにかして人相書きを手に入れられたら、これからの逃亡が楽なんだけど――)
 何か策はないだろうかと、隣に立つ友人を振り返る。しかしそうしてみて、アルトは思わずぽかんとした。つい先程までそこにいたはずのデュオの姿が、忽然と消えていたのだ。
 驚いて、きょろきょろと辺りを見回してみる。大通りとは反対方向の脇道へ首を伸ばしてみても、どうにも姿が見当たらない。そうこうしていると、不意に背後から声をかけられた。
「君――」
 素直に声へ振り返って、ぎょっとする。そこに立っていたのは他でもない、大通りを闊歩していた軍人の一人だったのだ。
 思わず身を翻し、立ち去ろうとしたアルトの腕を、大きな手ががっしりと掴む。相手はやんわりとした笑みを無理に作って、事務的にこんな事を言った。
「ああ、すまない。驚かせてしまったようだが、逃げなくていい。この手配書の人間に心当たりがないか、聞き込みをしているだけなんだ」
 まだ若い、碧い目をした兵士だった。背はひょろ長く、腰には剣を帯びている。それ程腕が立つようには見えないが、大通りから差している灯りの逆光で、何やら得体の知れない相手のように思われた。
 そうしてまじまじと観察していると、男が無遠慮に手配書を突きつけてくる。相手の真意を計りかね、アルトはひとまず押し黙った。どうやら本当に、アルトの正体を知らずに問うているらしい。だとすれば、少しでも怪しまれてはいけない。何か適当なことを言って、この場を逃れなくては。
 しかし次々にめくられる手配書に見知った顔を見つける度、出かけた言葉は、喉の奥へと押しやられていく。アルトは息を飲み込んだ。
 その時だ。
「知ってる! 知ってますよ、兵士さん!」
 今にも兵士に掴みかからん勢いで叫ぶ男の声を聞いて、兵士とアルトは同時にそちらへ目を向けた。声の主は、アルトがいる小路を出てすぐの、大通り沿いに座り込んでいた髭面の男である。ぼろぼろの布切れを身にまとっただけといった風体に、もう長いこと伸びっぱなしになっているのであろう、煤に汚れた灰色の頭髪。彼が無造作に髪を掻きむしったので、アルトと兵士は同時に、男から一歩距離をとる。
 すると男がにやりと笑って、足が立たないかのような素振りをしながら、アルトのことをちらりと見上げた。
「知っているというのは、本当か?」
 兵士の問いに、男が頷く。震える指で手配書のデュオを指さして、言った。
「確かにこの男です、兵士さん。男を見た時あっしは酒を飲んでいたんですがね、この男、なかなか口達者な奴ですよ。言葉巧みに周りの奴らから酒やら金品やらを巻き上げて、そう、近くに座っていた幼い子供からも酒を奪っておりやしたなぁ。なんとも食い意地の張った、いや、飲み意地と言うべきか。そういう奴でした。……それで、兵士さん。そいつが何かしでかしたんで? 食い逃げかなんかですかなぁ」
 ぺらぺらと良く回る舌で一気にまくし立て、男が好奇の目を向ける。兵士はその勢いに気後れしたのか一瞬言葉を詰まらせて、しかしすぐさま、己の任務に立ち返ったようだった。
「ざ、罪状は皇王陛下への反逆罪だ。それより、そいつを一体どこで見た?」
「はあ、そりゃ随分大それた事をしたもんで。そいつなら、町外れの黄色い屋根の宿屋に泊まっとるはずです」
 男が指さす方向を目で追って、兵士がすぐさま足を向ける。その時になってアルトはすかさず、さも親切げにこう言った。
「兵士さん。よかったらその手配書、僕にくれませんか。その男の他にも残党がいるんでしょう? この町では顔が広い方だから、仲間にも聞いてみます。力になれると思いますよ」
 振り返った兵士に向けて、にこりと無邪気に笑んでみせる。
 しかしそうしてまんまと手配書の束を手に入れ、兵士を見送ると、アルトは真っ先にその笑顔を崩した。
「……デュオに酒を取られた『幼い子供』って、俺のことか? 一体、どこで見てたんだ」
「ついでに聞くが、俺はおまえの恨みを買うようなことでもしたかね? 随分言ってくれるじゃないか」
 小路に面した家の窓から、ずいと顔を出して問うたのはデュオだ。いつの間にやら、勝手に人様の家へ身を隠していたらしい。心配をかけさせたことに対してアルトが憮然とした顔のまま睨みをきかせると、彼はそれこそ子供をあやすかのように、アルトの頭をぽんぽんと叩いた。
「デュオ殿。僕は結構、根に持つよ」
 足元から、聞き慣れた明るい声がする。アルトが声の方へと目を向けると、先程の男がのそのそと、自らがかぶった何かと格闘している。
 ひょいと灰色のかつらを脱いで立ち上がったのは、シロフォノだ。顔の煤を拭いながら口髭を剥がし、デュオにしっかと掴ませる。それから珍しさを覚えるほど真剣な表情になって、「ベーコンの恨みを、僕は忘れない」と付け足した。どうやらデュオにも覚えがあったようで、彼は視線を泳がせ、何とも言い難い曖昧な声を上げる。
「その髭とかつら、一体どうしたんだ?」
 アルトが問うと、シロフォノは羽織っていた薄汚いマントもデュオに手渡し、「ゾーラ女史から預かったんだよ」と答えた。どうやら一式の変装道具は、本来デュオが使うために揃えられたものらしい。そういえば町に入ったとき、何か手を考える、とゾーラが言っていたことをアルトも思い出した。
 手配書の束をめくりながら、その中にアルト自身とシロフォノ、クロトゥラ以外の四人全員の顔があることを確認する。人相書きはその正確さにばらつきがあるものの、マラキアで見た顔を何枚にも渡って描き出していた。
「ナファンの人相書きは似てないな。これなら、向こうは上手くやっているかも」
「確かに。これじゃ厳つすぎる」
 シロフォノがそう答えて、二人で忍び笑いをする。その隣でデュオが辺りを見回し、独り言かのようにこう言った。
「退路は」
「馬から全て、整えてある。東から出るぞ。南北は既に、兵がたむろしている」
 物陰からの、声がある。
 羽音がして、空を舞う者の姿が見えた。既に見慣れた鷹が舞い降りるのを目で追えば、自然と、小路の影にもう一つの人影が見つかった。建物の脇から音もなく姿を現したのは、マルカートだ。
「ヴァルスとゾーラが、既に軍人を攪乱しながら向かっている。宿からも撤収済みだ。こちらもすぐに向かおう」
「クロトゥラは?」
「見かけていない。――その事なら、そちらの片割れに尋ねられるのがよろしいかと」
 アルトの問いに、低い声で唸るかのようにマルカートがそう答えた。別段怒りは見られないが、静かに威嚇するかのような目は、凍てつくように疑り深い。
 薄ら寒いものを感じて、アルトは尋ねるようにシロフォノを向いた。見ると彼自身も驚いたように目を瞬かせて、いつものにへらとした表情をいくらか正している。
「先に休むと言っていたな。ではわざわざ宿から忍び出て、二人でどこへ行っていた? それも、宿へ戻ってきたのはおまえだけ。随分変装が上手いようだが、同じ頃に軍が町へ進入してきた事、全くの無関係だと弁明できるか」
 マルカートの固い声が、シロフォノに向かって真っすぐ突き出される。デュオが無感動な溜息をつく隣で、アルトはいささか狼狽した。
 マルカートの言葉には、いつだって無駄がない。それは旅に出てはっきりと確信した事実だったが、少し席を外していたというだけで、まるで二人が裏切りでも起こしたかのように詰問するのには納得がいかなかった。そう口を挟もうとして、しかしアルトは押し黙る。シロフォノが何気ない仕草で、アルトのことを押しとどめたのだ。
「マルカート殿は、何か勘違いしておられる」
 言葉は騎士然としているものの、口調はいつもの、笑みを湛えたそれである。アルトはその声に安堵してシロフォノを見たが、しかし、目をあわせることはできなかった。シロフォノが、あえてそれを避けたのだ。
(退屈になって遊びに出かけたとか、そんな程度のことなんだろ?)
 心の中で、そう尋ねる。
 しかし期待した返答は、ついぞシロフォノの口から語られることはなかった。
「あなたがたが思っているよりずっと強く、僕達も、この旅を成功させたいと思っていますよ」
 彼はただ笑顔で、そうとだけ答えたのだ。
 
 二手に分かれて、町の東へ向かうことになった。アルトはマルカートと二人で入り組んだ裏路地を歩きながら、首から下げたペンダントを握り締める。
 ちらりとマルカートの顔を覗き込んでみるが、彼はいつもと同じ表情のままだ。心中を推し量ることは、出来なかった。
 デュオと一緒に行ったシロフォノは、どうしているだろう。先程の問答は、一体なんなのだろう。疑問は脳裏を渦のように巡ったが、答えが出る兆しはない。耐えかねたアルトが口を開こうとすると、ちょうど同時に、マルカートが言った。
「差し出がましい真似をした」
 溜息混じりの静かな声に驚いて、アルトは思わず瞬きする。しかしすぐにその意図を汲み取って、首を横へ振った。
「――俺はどうも人を疑う気持ちに欠けているみたいだから、たまにああして釘を刺してもらえるのは、助かる」
 答えはない。二人はしばらく無言で歩き、随分して、アルトが再び口を開いた。
「だけどあの二人、嘘はついても友達を売るような奴じゃないよ」
 隣を歩くマルカートが、手足は前へ前へと進めながら、首だけをアルトに向けたのがわかった。アルトはその視線を無視して、前を見据えたままで続ける。
「マルカート。数少ない味方同士で疑いあうのは得策じゃない。確かに今は、少しのミスも許されない時かもしれないけど――だからこそ、お互い無条件に信じ合うべきだと、俺は思う」
 アルトが困ったような苦笑を浮かべると、マルカートもうっすらと、その口元に笑みを浮かべたように思えた。
「無条件に、とは豪胆なことだ」
「少しばかり無防備でも、こういう事には欲張りたいんだ」
 町の外れへ向かうにつれ、段々と道の舗装が荒くなってくる。ふと見ると、脇の空き地一面にアザミの花が咲いていた。紫の花を持つそれは、薄闇の中で一見すればふわふわとした天然の絨毯のようにも見え、しかし、一度手を伸ばせばその棘に指を傷つける。
 アルトはふと、マラキアの馬番の小屋の前にも、常にアザミの花が植えられていたことを思い出した。否、植えられていたのではなく、ただいつの間にか生えてきただけであったのかもしれない。しかしその風景を思い返しながら、アルトは目を細める。
 そうしていると唐突に、誰かの声が風にのって届いた。
――ほら、便利でしょう? 都会の人って、そんなことも知らないのね。
 人間のものではない。例の、姿なき何かの声だろうか。それにしてはやけにはっきりとした、そしてどこか懐かしさを覚える声だ。
(誰だ……?)
 そこに姿はないのだろうと理解しながら、アルトは一度立ち止まり、振り返る。マルカートが怪訝そうな顔をして、同じように立ち止まった。
「追っ手か」
「いや、そうじゃ……ないけど」
 しかしそう話した瞬間、背筋に冷たいものが走った。
 慌てて剣を抜き、間一髪のところで、自分の足へ向かって飛んできたそれを弾く。意図してやった訳ではない。運よく弾けたというだけだ。
 視線をおろすとそこに、アザミの花を射止めるように黒光りする鉄の塊――マラキアで見た楔形の飛び道具が突き立てられている。
 息を飲んだ次の瞬間、マルカートの鷹が空を舞う。救援を呼びにいったのだろう。その姿を視界の端におさめながら、二人は同時に走りだした。
(わざわざ、こんな時に!)
 まずは、建物の影へと身を寄せる。舌打ちをしたい気分だった。同意を求めるかのように視線を投げかけてきたマルカートを見て、アルトは頷き、囁く声でこう叫ぶ。
「間違いない。ソーリヌイ侯と一緒にいた奴らだ!」

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