吟詠旅譚

風の謡 第三章 // 闇は密かに

039 : 5664's

「どこから話し始めようか、ずっと考えてた。事の起こりが一体いつだったのか、情けねえ事に、俺にもよくはわかってなくてね」
 デュオがまず、そう言った。
「だが始めに思い浮かぶのは、十八年前のある日のことだ。あの時ジルウェットが口にした、たった一言が、その後の全てを暗示していたんじゃないかって――今となっては、思えてならない」
 
 五六六四年のその日も、クラヴィーアはやはり春を迎えていた。
 もっとも、この頃のクラヴィーアに春を愉しむ余裕があったかと問われれば、誰もが首を横へ振っただろう。それほど事態は逼迫していたのだ。北のサンダルマを討ち取ったことで国民の士気は上がっていたが、その更に北にはかねてよりサンダルマ侵略を目論んでいたオーンシェルトが、東にはセンディリアが控えていたし、何より南東の農耕地帯を狙っていた凰楼国には藍天梁国の息がかかっていた。尚、クラヴィーアが南の大国、レシスタルビアと正式に相互扶助条約を結んだのは、この二年後のことである。
 そんな中、クラヴィーア王族の権力の象徴とも言うべき大宮殿の廊下を、鼻歌交じりに歩く一人の男がいた。男は身振りこそ粗忽だが、下ろし立ての上等な上着を羽織っており、胸には金の勲章を輝かせている。
 ふと、何か目につくものがあったのだろう。男は廊下を逸れると躊躇なく庭へ回り込み、そこで物静かに読書をする人影に声をかけた。
「相変わらず勉強熱心でいらっしゃいますね、ジルウェット殿下」
「――やめろ、似合わん」
 言い返してくっくと笑ったのは、線の細い一人の男だった。当時の皇王の一人息子にして、次期皇王にと多くの支持を集めていた、王子ジルウェットである。天蓋つきのテラスには羽毛のクッションが置かれており、そこへ半ば寝そべるように、姿勢を崩して座している。彼はちらりと紙面から視線を上げると、面白がってこう言った。
「今日は随分、大層なものを着ているじゃないか」
「陛下に聞いていないのか?」
「聞いてはいたが、どうせすぐに脱ぎ捨てるのだろうと思っていた。勲章はともかく、その上着はおまえには惜しいな、デュオ」
 デュオはそれを鼻で笑い飛ばすと、相手に伺いもせずにテラスの反対側へと座り込んだ。
 耳を済ますとがちゃがちゃと、鎧を着た兵士の歩く音が聞こえてくる。戦争が激化してきたことで、この内庭にも見回りの兵士が来るようになったのだ。唯一の救いは、ここが草花に覆われた極彩色の庭園だということであろう。手入れされた庭は隅々まで春の色に覆われ、花々は物騒な音など歯牙にもかけず、咲き乱れている。
 本を閉じ、庭の春色に視線を移して、ジルウェットがぽつりと呟いた。
「バラム、か」
 デュオは返答せずに、足を組んでテラスの壁へ背を預ける。あまりの陽気に葉巻が欲しいとぼやいたが、「この庭にそんなものは要らぬ」と一蹴されてしまった。
「ちょいと手柄を立て過ぎた」
「勲章と引き替えに、良い厄介払というわけか。ああまで徹底的に自分の家を敵に回したのだ。当然だな」
「まるで他人事だな」
「まるでも何も、他人事だ」
 そう言ってまた、ジルウェットは手元の本を繰り始めた。デュオはそれを見、当てつけに、盛大な溜息をついてみせる。
「そんな調子で、奥方に愛想を尽かされやしないか」
「サライにこんな態度は取っていない。サンバールとの親子仲も良好だ」
「――さようで」
 サライとはこの若きアドラティオ四世の正妃である。アドラティオ四世はこの後更に三人の妻を娶ることになるが、彼女はその中でも最も嫉妬深く、宮殿内でいくつもの争いを起こす火種となった。とはいえ当時の彼らにそのようなことを知る術はなく、若くして息子サンバールを無事出産した彼女は、誰からも愛され慈しまれていた。
「妬けるねぇ。こりゃ、二人目の御子とも遠からずお目見えできそうだ」
 デュオがにまりと笑んだが、この年上の友人は毛の先程も気にかけた様子を見せはしない。だがデュオの方とて手慣れたものだった。仕立てられたばかりの服へ皺がつくのも構わず、その場にあぐらをかくと、春の風を吸い込みながら息をつく。
「姫。次は姫がいいなぁ。サライ殿との子だ。さぞ美しいことだろうよ。その時はぜひ、お目どおり願いたいもんだ」
「少なくとも、おまえにだけはやらんがな」
「バカヤロウ。俺だって、親子程も離れた娘を囲うか」
「だが年の差すら霞む美姫かもしれん」
 そう言ってジルウェットは、本に視線を落としたまま乾いた笑みを浮かべた。事あるごとにふと、こういった色のない笑みを見せるのがこの男の常なのである。何かを確信したような、何かを囁くかのような、そんな笑みの理由をデュオは知らない。だがごく稀に、その断片を垣間見ることはあった。
 五六六四年のこの日も、その断片を目にする珍しい日の内の一つであった。
「だが私は、生涯姫には恵まれないだろう」
 唐突に、ジルウェットがそう断言した。デュオは首を傾げて、「何故?」とだけ短く問い返す。答えるジルウェットの声は例の乾いた笑いを含んで、ただ若葉を揺らすかのようにそっと、言った。
「私が授かる子供は三人。それ以上でも以下でもいけない。全てが息子。それも、皆違う母を持つ」
「なんだ、そりゃ」
「随分前から決まっている。そろそろ側室を捜さなくては」
 感情の無いその声に、デュオは小さく身震いした。平常から感情を見せることの少ない友人が、その言葉の中に、こんなにも冷たい刃をちらつかせたのを見たのは初めてだったのだ。
 デュオは言葉を選びながら、うかがうようにこう言った。
「は、は……。お堅いジルウェットの口から、側室の話が出るとは思わなかったぜ。まあ、サンバールもそろそろ四つになるしな。そういう話が今までに全くなかったのも、不思議なことだと言われちゃいたが」
「サンバールがそれなりに育つまで、しばらく間は置くべきだと思っていた。サライも生まれながらの皇女だ。私が側室を娶ることに反対はしないだろうが、一人でいることを極端に嫌う質だからな。いつかのおまえのように、女性を激昂させてビンタを食らうのだけは避けたかった」
 そう言ってくっくと笑うクラヴィーアの王子は、先程とは打って変わった様子でそこに居た。冷たい刃は今既に、どことも知れぬ虚構の鞘に収まっている。
 春の風が吹いていた。ジルウェットが指示をし、作らせたこの庭は広く、どんな時にも涼やかな風がそばを過ぎ去って行く。それが髪を揺らす。淡い春の匂いをかき立てる。デュオは目の前の友人から目をそらし、溜息交じりにこう答える。
 溜息の理由は、デュオ自身にもわからなかった。安堵か、それとも気休めか、ともかくデュオは、密かに胸を撫で下ろしていた。
「都の気の強い女は、もうこりごりさ。せっかくバラムへ行くんだ。次は田舎ののんびりとした町で、気立ての良い淑やかな女を捜すよ」
「それが良い」
 ジルウェットが、軽く笑ってそう言った。
 サンダルマを攻め落とした功績で、デュオが皇王から勲章を賜った日のことである。この一月後に彼は当時の激戦区、バラムへと旅立ち、更にその一年半後には、継承権争いに勝利したジルウェットが、アドラティオ四世と名を変え即位した。
 
 言葉を切り、口を閉ざしたデュオを見て、アルトは小さく息をついた。
 いつの間にやら、喉の奥に痰が絡んでしまったようだった。音を立てぬように、小さく咳払いをする。潮風のせいだろうか。喉元に手をやると、なんだかべとべとした手触りがあった。
「授かる子供は三人。それ以上でも以下でもいけない。――全てが息子。それも、皆違う母を持つ」
 呟く。デュオが頷いた。
「確かにそう言った。どうにも奇妙だったんで、その時のことは今でもはっきり覚えてる」
 港に打ち寄せては遠ざかる、潮騒がよく耳に響く。二人はただ口を閉ざして、ほんのりと月明かりを照らし返す、海を見ていた。
「全てが息子、それも違う母を持つ」
 確かに、その通りにはなっている。アルトの兄、第一王子サンバールはサライ妃との間に生まれているし、第二王子ラフラウトはパンデレッタ妃との子供だ。考えるまでもなく、アルト自身の母は故モノディア妃である。
「人数はともかく……。息子か娘かを予知することなんて」
「そう、出来るはずがない。だが奴はそれをやった」
 デュオがそう言って、ふう、と大きく息をついた。アルトも同じように溜息して、再び海へと視線を移す。
 そうしてぽつりと、呟いた。
「父上の言葉の事はまだわからないけど、デュオの生い立ちに検討がついた」
「ほう、あれだけの情報で、か。聡明だな」
 「からかうな」と短く睨み付けてから、アルトはまたも溜息する。
 それからさらりと指摘した。
「ソーリヌイ家の人間なんだろう? デュオ」
 そう口にすることに、何故だか少しの躊躇いもない。
 恐らくは肯定の意味だろう。デュオが目を細め、したり顔でにやりと笑う。それからなんでもないかのように、「どうしてわかった?」と問うてきた。まるで謎かけの答え合わせのようなその態度に、アルトは呆れて肩をすくめる。
 諦めのような、寂寥感のような、そんな影の見え隠れする横顔がそこにあった。からかうような態度も、恐らくはその裏返しなのだろう。だからアルトは静かな声で、裏の木の林檎が美味しかったとか、風で洗濯物が飛んでいくのを見たとか、そんなことを話すときのように平然と、話を続ける。
「そう考えれば納得がいく。――元々、マラキアで軍に取り囲まれた時からおかしいとは思ってたんだ。いくら根も葉も無い冤罪だとしたって、つい最近までスクートゥムに軟禁されていたソーリヌイ侯と、随分前に位を剥奪されたバラムの城主が共謀して謀反を起こした……なんて筋書きが、突然出てくるのは不自然だ。さっきの話に出てきた父上の庭園だって、並の貴族じゃ自由に出入り出来ないはず。『家に喧嘩を売った』っていうのは、継承権争いで敵対していた父上と、仲が良かったからなんだろ? あの家から勘当された五男の事も、そういえば昔、耳に挟んだことがある」
「そんなに有名か」
「フェイサルが昔、『アーエールの与太者ぶりときたら、そいつに引けを取らない』……って陰口を叩いていたことがある。一体どんな奴だろうって、気になってはいたんだ」
 言い終えてのち、一瞬の沈黙。
 顔を見合わせるとどちらともなく、それぞれに吹き出すのがわかった。お互い相手を指さして、他人事かのように笑いあう。腹を抱える姿は、まるで妙なひきつけでも起こしたかのようだ。
「同じ穴の狢だ。しかも与太者ときたか、言い得て妙だな」
「王族らしくない王族って、人のことを言えた義理じゃなかったんじゃないか」
 誰に気兼ねすることもなく、ただ、ただ、大笑いする。
 ――昔がどうだったって、デュオが俺の友達でいてくれたこととか、ナファンが世話を焼いていてくれたこととか、……そういうのが嘘だったって事には、ならないと思うから。
 自分自身が口にしたその言葉に、確信が募っていくのがわかった。
(笑い飛ばして、それで終わり)
 それが正解なのだ、と、アルトの心が言っていた。
 
 互いにしょうのないことを言いながら笑っていると、ふと、広場が一段と暗くなった。辛うじて残っていた灯りが、遂に消えたのだ。
「話の続きは、場所を変えるか」
 そう言って辺りを見回すデュオを倣って、アルトもひょいと、高台の下を覗き込む。
 それは何気ない行動だった。しかしふと視界の中へ飛び込んで来た銀色に、瞬きする。港に積まれた荷の影から、一つの影が飛び出して来たのだ。
 影の正体は、どうやら女性らしかった。こんな夜更けに一人で、一体何をしているのだろう。心中の問いに勿論答えはなく、その間にも人影は、舞うかのように駆けて行く。
(銀色の、髪――)
 女性にしては短く、耳の下辺りで切り揃えられた銀の髪。それが今、月明かりの下を駆けている。初めて見るその色に、アルトは二度目の瞬きをした。
 軽やかに、駆けていく。そうしてしばらく見入っていると、女性がくるりと振り返った。
 思わず、息を止める。驚いた事に彼女は、まっすぐアルトを見上げ、にこりと微笑みかけたのだ。しかしそれと時を同じくして、唐突に、頭上から大きな羽音がする。
(鷹だ)
 思わず目で確認してから、アルトは慌てて視線を降ろした。女性の姿は既にない。
 アルトがきょろきょろと辺りを探していると、デュオの低く唸る声が聞こえた。先程の鷹は、マルカートからの伝達であったらしい。
「良くない知らせか?」
 聞くと、デュオがしかめっ面で頷いた。
「マルカートからの伝達だ。――マラキアを攻め落とした王都軍のやつら、この町まで追って来やがった」

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