吟詠旅譚

風の謡 第二章 // 導きの炎、風の刹那

033 : SIGN -1-

 味方はいつでもそばにいた。アルトのことを陰でどう言う人間がいても、いつも誰かはアルトのそばに立ち、その悲しみを共有してくれていた。
 そうあることが当たり前だと錯覚してしまうくらい、アルトは実のところ恵まれていたのだ。あえて一人になることはあっても、本当の孤独を知ることは無かった。その必要もまた、無かったのだ。
 だが同じように、常に敵にも取り囲まれていたのだということを、アルトは今更思い知る。
 フェイサルの父親であるソーリヌイ侯トルヴェールは、アルトにとっても伯父にあたる存在だ。それが父王アドラティオ四世のマラキア侵攻に続いて、ソーリヌイ侯の刺客にまで遭遇することになろうとは。直接アルトに向けられた刃ではないにしろ、アルトがマラキアを守ろうとする立場を取るのであれば、彼らは明確な敵となった。
(これが、王権争い)
 ソーリヌイ侯が王権を巡った謀反を起こしたのは、アルトが生まれてすぐの頃であったはずだ。それから彼等は十年以上もいがみ合い、今なお禍根を残している――。
 この争いがいつ終わるのか、アルトにはわからなかった。アルトが王位を継承すれば、ソーリヌイ侯はアドラティオ四世という政敵を失い、矛をおさめるだろうか? 恐らくそうはならないだろう。アルトの背後には確実にアドラティオ四世がついており、ソーリヌイ侯にも、同じ年頃の息子がいるのだから。
(……馬鹿馬鹿しい)
 一度転がり始めれば、ひたすら坂を下るだけ。その坂に終わりがあるものか、知り得る者はいないのだ。
 それでも、もはや他人事ではいられない。錆び付いた扉が開く一瞬に、そう考えて苦笑する。それから真っすぐ、睨みつけるように、血塗れた礼拝室へと顔を向けた。
 鉄のぶつかり合う音に、小さく響くうめき声。木製の椅子や絨毯の端などがじわじわと燃え、薄灰色の煙が室内を満たしているため視界は悪く、状況は判断しがたかった。それでも建物の外ほどではないものの、やはり数人の人間が倒れていることはわかる。ただし倒れている者はマラキアの人間ばかりではなく、アルトに見覚えの無い黒服の男も多く混ざっているようだ。
 鼻をつまみたくなるような臭いに、軽い吐き気が込み上げる。アルトはやっとのことで剣を握り締め、強く前を見据えた。
「向こうの残りは七人。こっちは俺達三人と、デュオ殿、マルカート殿、ダルシマー殿の六人だ」
 クロトゥラが小声でそう囁いた。理解したことを示すためにアルトが頷くと、更に続ける。
「ただしフェイサルともう一人は、礼拝室を出て向こうの廊下にいる。何をするつもりなんだか知らないが、廊下へ直接繋がる扉には、ご丁寧に鍵までかけているときた」
「つまり、それは――」
 シロフォノがそう言って、にやりと笑った。真っすぐに向かってきた楔をクロトゥラが剣で払いのけると、軽い調子で口笛を吹く。彼自身もクロトゥラが取り逃した一つを剣で受けて、それから呟いた。
「あの人達を倒さないと、この煙たいパーティの主催者には会えない訳だ」
「そういうこと」
 双子がさっと左右に別れて駆け出したのと同時に、アルトも前へと走り出す。先ほどの話を聞く限り、この部屋にいる敵は五人だ。数の上ではこちらに利があるとはいえ、油断は確実に命取りになるだろう。
「くそっ」
 煙の向こう側から聞こえてきた、吐き捨てるような声に覚えがあった。アルトは迷わずその声へ駆け寄ると、たった今振り下ろされた敵の刃を、自らの剣で受け止める。威力は大きかったが、一瞬のことだった。黒服の男はすぐに剣を持つ力を緩めると、しかし退くことはせずに素早く左腕を動かした。その手にちらりと光る楔型の武器を見て、アルトははっと息をのむ。
「……っこの」
 唸りに近い声を上げ、アルトの背後にいた人物が剣で切り上げた。それは黒服の男の左腕を深く切り裂き、いやな水音と同時に赤い血を噴出させる。その赤の中に一瞬、脈打つ腱と白い骨までもを見たような気がして、アルトは思わず眉根を寄せた。自分の負った傷ではないのに、一瞬、それと同じくらいの痛みを感じたように思ったのだ。
 アルトが男と距離を取るように数歩退くと、すぐに誰かと突き当たった。先ほど、黒服の男の腕を薙いだ人物――デュオだ。彼は目の前の血だまりなど見えていないかのように、ただ短く「どうして来た」と呟くように言った。
「俺に任せておくんじゃ、不安か」
 怒気を含んだデュオの声に、アルトの鼓動ははやくなる。城壁までの同行を、無言で断られたときと同じだ。ここで黙り込んではいけない。そうは思うが、すぐには言葉が出てこなかった。
「違う」
 男は声も無く身をよじらせ、ほとんどぶら下がっていると言った方が良いような左腕を、自分の右腕でがっしと掴んでみせた。黒服の男が剣を取り落とし、しかし右手の指の間からは、楔が鈍い光を照らし出している。アルトは即座に飛んできたそれを避け、礼拝室に並ぶ長椅子の陰に身を隠した。よけ損なったものがアルトの髪留めを掠め、細い髪がまとまり無く肩にかかる。
 長椅子から、焦げ臭い臭いと共に火花が飛んだ。
 同じく椅子の陰に隠れたデュオが、飛び出しざまにまた切りつける。相手はそれを右の籠手で受け流し、再び楔を投げ付けた。その一つが、デュオの脇腹を浅く裂く。
「デュオ!」
 咄嗟に逆へ回り込み、渾身の力で剣を振り上げた。黒服の男は懐から取り出した短剣でそれを受けたが、デュオはその隙を逃さない。
 一閃の後、黒服の男が膝をつき、そのままふらりと前へ倒れる。男がその場へ崩れ落ちる音。左腕と腹から流れ出る血が床を濡らし、アルトの足元へまで迫っていた。
 アルトの靴が、血に浸る。生暖かいそれがじわりじわりと、つま先を侵食していくのがわかった。退いて避けることは簡単だったが、そうはしない。できなかったのだ。
 足が竦んだわけではない。ただそうして逃れることは、倒れている、恐らくは事切れているであろう男に対しても、自分に対しても、酷い侮辱であるように思われた。
 一度だけ足元へ崩れ落ちた黒服の男を見下ろして、それからまっすぐに、デュオの方へと視線をやった。煙の中だ。視界は悪い。うっすらと見えるデュオの表情は、汗ばんで鈍く光っていた。室内の温度はどんどん上がってきているから、人が見ればアルトも、同じような状態であっただろう。
「うつったんだ」
「うつった?」
 怪訝そうに、デュオが問いかけた。その背後ではまだ金属のぶつかり合う音が聞こえ、短い叫びや掛け声が聞こえている。ここで長々と、思いを語っている時間は無かった。アルトは泣きそうに苦笑して、呟くようにこう話す。
「長いこと一緒にいるうちに、デュオ、あんたの性格がうつったんだ。……俺だって、守られてるばかりじゃいられないよ」
 ウラガーノへと旅立つあの日に、伝えたかった言葉がある。
 それは今ではけっして口に出すことを許されない、けれど長年の感謝を込めた言葉だ。しかしアルトはそれを心の中へ飲み込んで、視線を逸らすように廊下へと続く扉を向いた。フェイサルがこの先で何をしようとしているのかはわからないが、こんなに沢山の血を流してまで為そうとしていることだ。一刻もはやく追いついて、こんな馬鹿げた戦いを終わらせなければならなかった。
 扉に駆け寄り、簡単な鍵のついたドアノブを剣の柄で打ち付ける。ほどけた髪を邪険に払って、壊したノブをガチャガチャと回しているとふと、確かな手応えを感じた。
(フェイサル、――こんなところで、一体何をするつもりなんだ)
 扉を開けたらそう言うつもりで、アルトは大きく息を吸う。
 だが、その瞬間。
「――アルト!」
 焦りを含んだデュオの声に、咄嗟にその場を振り返る。しかしその動作を終える前に突き飛ばされ、アルトは強かに尻餅をついた。絨毯を焼く炎が一瞬腕に触れ、短く悲鳴をあげる。それもあって、デュオがアルトをかばうためにそうしたのだと頭で理解したのは、一瞬遅れてからのことであった。
「怪我は!」
 怒鳴るようなデュオの声に、アルトは首を横へ振った。腕には軽い火傷が出来ていたし、つう、とアルトの頬を血が伝ったが、そんなものを怪我の数に入れるのは、この状況下では随分図々しいことと思えた。
 実際、傷がひどいのはデュオの方だ。脇腹の傷に加え、あちこちから血が滴っている。大きな傷はないようだが、弾き損なった刃をいくらもその身に受けたのだろう。
「デュオの方こそ……怪我……」
「この程度、たいしたことはないさ。それよりおまえは、はやく廊下へ」
「けど……!」
 立ち上がったアルトが言いよどむのを、デュオは微笑みながら見守った。それから短く「廊下には何がある?」と、問う。
 傷のことなどおくびも見せないデュオの顔を見ながら、アルトは一瞬戸惑った。礼拝室前の廊下に何があるか、それはアルトも先程から考えていたことだった。それがわかれば、フェイサルの目的もいくらかは知れるだろうと思ったからだ。しかし。
 部屋ならまだしも、廊下である。そこにあるものは限られている。アルトは躊躇いながらも、こう答えた。まさかそれが今回のことに関わっているとは考えにくかったが、問の答えにはそれしか思い浮かばなかったからだ。
「母上の……肖像画が」
 デュオが満足そうに頷いて、飛んで来たナイフを叩き落とす。それから昔と変わらぬ顔で笑い、言った。
「おまえが今、やるべきことは……母上をお守りすることだ。違うか?」
 ばんっと小さな破裂音がして、室内に煙が散った。どうやらまた、火薬を使われたようだ。アルトは漂ってきた煙に咳き込んだが、睨みつけるように再び廊下への扉へ視線を向け、手をかける。
 どうあってもここを通したくないのだろう、今までシロフォノと切り結んでいたはずの黒服の男が駆けて来た。振り下ろした剣をデュオに受け止められ、大きく舌打ちする。
 剣戟を繰りだしながら遠ざかって行くデュオに向かって、アルトは「ありがとう」と口早に呟いた。

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