吟詠旅譚

風の謡 第二章 // 導きの炎、風の刹那

032 : The Hinge

 馬を駆り、くすぶる炎へ近づくにつれて精霊達がざわついた。そのざわめきが風となり、アルトの耳元をかすめていく。そんな中、アルトは離れに向かって駆けていた。
 マラキア宮の離れは、本棟を挟んで闘技場とは反対の方角にある建物だ。中には天井の高い礼拝室、てっぺんには鐘撞き部屋があるが、建物の大きさはどちらかと言えばこぢんまりとしているほうである。
 今のところ、離れ以外に炎の被害はないようだ。しかしそれでも、相手の意図がわからない限り気を抜くことはできなかった。今にもアルトのすぐ隣から、火の手があがるかもしれないのだ。アルトが馬上から注意深く辺りを見回すと、不意にどこかから声がした。
――急ぎなさい。
 例の、不思議な声だ。音は高いが、男女の別もわからない。辺りを見回しても先を駆けるシロフォノ以外に人影はないし、その声は何か、耳に直接聞こえてくるかのような響きを持っている。
――急ぎなさい。
――間に合わなくなってしまう。
 焦りを含んだ透明な声が、アルトの耳にそう囁いた。人ではない、何か特殊な者達の声。それが一体何であるのかはアルトの知るところでないにしろ、不思議と十分理解には足る。それどころか静まりかえった無人のマラキア宮で彼らの声を聞くことは、随分自然なことのようにさえ思われた。
(俺は、何をしたら良い?)
 そう尋ねることに、疑問はない。彼らならば問の答えを持っている。必ずアルトに答えてくれる。その確信があったからだ。そうして彼らは想像通り、アルトの期待を裏切らなかった。
――離れへ。
――進みなさい。まっすぐに。おまえを煩わすものは、ここには無いから。
――急いで。シルシを守らなくては。
(シルシ?)
 答えはない。だがアルトは馬の腹を蹴って、駆ける速度を一層上げる。途端に追い抜かされたシロフォノが不満そうな声をあげるのを聞いて、アルトはにやりと笑ってみせた。
「この辺りは大丈夫だ。離れまで競争しよう!」
 ちらりと一瞬振り返る。始めはきょとんとしたシロフォノも、すぐににやりと笑い返すのが見えた。
 「いいよー」というのんきな声と同時に背後から手加減なしの猛攻をかけてきたシロフォノに、アルトも鐙を強く踏みしめる。そんな二人の周りを漂う精霊たちも、影ながらそれらの進撃に力を貸していた。
――この世が終わるみたいな顔してたのにさ。
 思い出して、アルトはそれを笑い飛ばすことに決めた。
(そんな救いのない顔じゃ、随分幸先不安だな)
 不安に思う、事など無い。今のアルトには、これだけの仲間がついているのだから。
 風にしたがいて呼べ。何かがアルトに、そう囁いた。鳩小屋の脇を通り抜け、本棟をぐるりと廻るようにひたすら目的地を目指して駆けていく。そのうち離れが近づいてきたのを見ると、アルトは強く手綱を引いた。起こっている事が何か全くわからない以上、無闇に近づきすぎては危険だからだ。どうやらシロフォノも同じように考えたようで、少し離れたところで手綱を引いている。二頭の馬は鼻を鳴らし、たたらを踏んで、それでもなんとか足を止めた。
 目の前にそびえ立つ、この石造りの建物は燃えにくい。しかし焼け落ちることはないにしろ、黒い煙はとぐろを巻いて空へと駆け登っていた。
 礼拝室を静謐に保つため、離れの周りには囲むように木が植えられている。その為にここから状況を確認することは出来ないが、鼻につんと来る煙の臭いだけは嫌でも漂ってくる。今のところこのカーテンのように巡らされた木々に燃え移ってはいないようだが、このままでは時間の問題だろう。
 アルトが馬を降りる頃には、シロフォノはとっくに剣を抜き、離れの方を窺っていた。アルトもそれに倣って剣を抜いたが、しかし背後から聞こえた蹄の音を聞いて振り返る。
 騎手のいない馬が一頭、そこにいた。繋がれてはおらず、手持ち無沙汰といった感じで辺りをつまらなそうに歩いている。見覚えのある馬だ。老馬だが、デュオが随分可愛がっていた――
「シロフォノ、あれ……」
 その瞬間、離れの方から低い叫び声が響いた。城壁を守っていた兵士の声だ。撤退途中で火を見つけ、彼らもこちらへ来ていたということだろうか。
 アルトが剣を構えて駆けだすと、シロフォノもすぐにそれへ続く。正規の入り口まで回る時間を惜しんで、アルトは繁みをかき分け走っていった。
 炎の音が、近くに聞こえる。パチパチとはぜるその音は、野営の焚き火とは違って随分と傲慢な音のように思えた。もう一度、叫び声。続いて何かが地面に叩きつけられる音がする。アルトは剣を握り直すと、すぐさま繁みを飛び出した。
「――何があった!」
 言ってから、思わず愕然とする。ゆっくりと炎に飲み込まれてゆく離れの目の前に、血を流し負傷した人間が幾人も倒れていたからだ。――息があるかどうか、アルトの位置からでは判断がつかない。今わかることはただ一つ。マラキアの人間の他にもう一人、彼らに嫌みな笑顔を向け、離れに背を向けて立っている人間がいるということだけだ。
 そう、その場でアルト達以外に立っている人間は、その一人だけだった。黒い長い外套に黒いズボン、顔の半分は隠れる黒いマスクをした男が一人、笑顔を浮かべて立っている。
 中肉中背、目は吊り上がってもおらず垂れてもいない。短く刈り込んだ髪の色は金だと知れるが、他にはおよそ、特徴というものも見あたらなかった。とてもではないが、ここにいる全員を一人で倒すような屈強な人間には見えない。
「新手か」
 そう言って、男は嬉しそうににやりと笑う。ぴったりとした黒いマスクの上からでも、その口元が狂喜に歪む様子が見て取れた。
 ぞっとする。相手の表情は確かに笑っているのに、その瞳には何の感情も見いだせなかったからだ。
 男の腕が、ゆらりと動く。
 シロフォノの舌打ちが聞こえたのとほぼ同時に、アルトは剣を構えて相手の攻撃を受けとめた。男が一瞬のうちに間合いを詰め、隠し持っていたナイフを突き付けて来たのだ。
(違う、ナイフじゃない――!)
 アルトは気づくがはやいか、本能的に体を反らせて左へ避けた。耳に障る金属同士が引っ掻きあう音の直後に、何か楔形をしたものが地面へと突き刺さる。それはどうやら男が持っていたナイフのような何かのようだったが、その半分以上は地面にめりこんでしまっていた。
(あの至近距離から投げたはずなのに)
 一体、どうすればあれだけの威力を持たせることができるというのだろう。そう考えながら一歩後ろへまた下がって、アルトはふと、ウラガーノからの道中で遭遇した刺客のことを思い出す。
 あの時も、始めに何か投げられた。もしもクロトゥラが防いでくれていなかったら、アルトが今、ここにいなかったことは確かだろう。
「わあ。あの時に会った一派かもしれないっていうの、本当だったんだね」
 静かな声で、緊張感のない台詞を吐いたのはシロフォノだ。しかし声は、アルトの背後からではなくその正反対、刺客がいる更に向こう側から聞こえてきている。
 一体、いつの間に移動したのだろう。アルトがそれを問う間もなく、キン、と金属のぶつかり合う音が聞こえた。猛攻をかけたシロフォノの剣を、黒マスクの男が籠手を擦らせて受け止めたのだ。続けざまに楔型の武器を投げたマスクの男の攻撃をかわし、シロフォノは一旦低く下げた態勢から、跳ね上げるように次の攻撃を繰り出していく。
(――速い)
 以前闘技場で稽古をしていた時と比べても、雲泥の差である。あの時はそれ程本気を出していなかったのだろうが、それにしても、一介の少年兵がこれ程までの技術を持ち得るものだろうか。アルトには、判断するに難かった。
 そうこうしている間にも、二人の剣戟は止まらない。斬り込み、弾き、すぐまた得物を振り下ろす。シロフォノの援護にまわりたいのは山々だが、下手に飛び込めばかえって邪魔になるだけだろう。アルトは注意深く辺りを見回して、あるものを見つけると、急いでそれに駆け寄った。シロフォノが一瞬態勢を崩し、地面を擦った音に一度だけ振り返ったが、彼はすぐさま立て直して再び男の方へと向かって行った。
 見るとマスクの男の口元から、いつの間にやら余裕の笑みが消えている。シロフォノの剣が掠めたのだろうか。男の頬からはわずかに血が滴っていた。
 両者はほぼ互角である。だが炎のこともあるし、何よりシロフォノは手負いなのだ。どうしても、この戦いを長引かせるわけには行かなかった。アルトは梢の影に隠れた『それ』に駆け寄ると、シロフォノ達とは反対の方を向いてこう話す。
「来てくれたか!」
 たった一言。それだけだ。
 マスクの男からは見えないはずの陰に向かってそう声をかけ、アルトは敢えて、剣を持った右腕から力を抜いた。躊躇なくマスクの男に背を向けると一瞬の後、剣戟の音が今までとテンポを変えたと知れる。
(来る!)
 アルトは静かに唾を飲み込むと、まるで味方に駆け寄るかのように、誰もいない梢の影へと踏み出した。手に提げた剣の切っ先に、柔らかく何かを掠める感触がある。そうして直後、
 にやりと笑って振り返る。
 アルトの背後にはマスクの男が。その少し後ろを、追うようにシロフォノが駆けて来る。マスクの男はナイフを構え、今にもアルトへ襲いかかろうとしていた。しかしその刃が振り下ろされることはない。代わりに爆音にも近い重たげな音をたてて、いくつもの砂袋がアルトの目の前へ降りそそいだ。
 襲い来る砂袋の群れを軽々と避け、左手で口を覆う。もうもうと立ち上がった砂ぼこりが収まると、そこには砂袋の山ができていた。
 山の向こう側には唖然とした表情のシロフォノが見えたが、マスクの男は予定通りに砂袋の下へと埋もれたようだ。ただ砂が入っただけの袋であるとは言え、一つ一つは布団並の大きさがある。それが山となるほどの量で降ってきたのでは、意識を失わずにいたとしても、這い出てくるまでにかなりの時間を要するだろう。
「……これは?」
 いまだに目の前で起きたことが理解できないといった感じで、シロフォノが躊躇いがちにそう言った。アルトは右手に剣を提げたまま、得意げに山を見て、答える。
「土嚢だよ。この辺りは燃えやすい草が多いから、火をつけられたらこれで勢いを殺ぐことになってたんだ。こういう仕掛け、結構何カ所かに作っておいたんだよ。ほら、そっちにもある」
 この辺りは水路からも遠く、万が一炎が大きくなると水での消火活動には手間がかかってしまう。だからいざという時には被害を最小限で食い止められるよう、あちこちに土嚢で壁を作ってあったのだ。木の高さまで積み上げられていたそれはどれも縄で止めてあったから、その縄さえ切ってしまえば、あっという間に崩れ落ちてくるようになっていた。
 アルトが指し示した方へと素直に視線をやって、シロフォノも何かに思い当たったようだ。恐らくは今朝方、土まみれになっていた弟のことでも思い出したのだろう。
「シロフォノに苦戦してるみたいだったから、俺が味方を呼ぶふりをして、無防備に背中を向ければ、まずはこっちを倒しに来ると思ったんだ。先に頭数を減らした方が、目の前の敵に集中できるし」
「それで自分を囮に? けど、もし飛び道具を使われてたら!」
「飛び道具じゃ、新手の数や様子は確認できないだろ? 本人が来る自身があったよ」
 アルトが笑顔でそう言うと、シロフォノは呆れたように口を開けて、しかし言いかけた言葉をすぐに飲み込んだ。直後、すぐ上からガラスの割れる音がしたからだ。
 二人はすぐにその場を飛びのき、剣を構えて音を仰ぎ見る。礼拝室の上層部にある、ステンドグラスが割れたのだ。色とりどりのガラスが宙を舞い、それに続いて一つの人影が、破れた窓から飛び出して来た。アルトはそれを見て、思わず声を上げる。
「クロトゥラ!」
 ガラスまみれになった土嚢の上へバランスよく着地して、顔を上げたのはクロトゥラだった。土だらけの使用人服のまま、あちこちにかすり傷を負ってはいるようだが、目立った傷は見られない。彼もすぐ二人に気づいたようで、「どうしてここに!」と短く問うた。その様子を見ていくらなりとも安心したのか、シロフォノはいつものようにへらりと笑う。
「クロちゃんの助太刀をしに来たんだよ。ねっ、アルト」
「嘘つけ、おまえがそんなことするもんか」
「あっ、酷いな。全然信じてくれないなんて」
 さも悲しげにそうは言うが、実際ここへは火事の原因を探りに来たのだ。アルトが敢えて何も言わずにいると、戦いのためか些か苛立っているらしいクロトゥラの怒りの矛先は、自然とアルトへも向いた。
「大体、お前は何でまだこんな所に居るんだ! 全員でここを出ることになったんだろ? なら、お前が真っ先にマラキアを出るべきだったのに!」
「クロちゃん、大丈夫だよ。アルトってば案外策士だもん、肝も据わってるし。僕なんか助けてもらっちゃった」
「お前に聞いてない」
「聞かれなくても、答えるのは自由でしょ」
「――二人とも、今はそんな場合じゃ」
 仕方なしにアルトが言うと、直後に礼拝室の中から大きな音がする。何かが爆発したような、空気を含んだおかしな音だ。アルトが視線で尋ねると、クロトゥラは自分で破ったのだろうステンドグラスの残骸を見上げながら、短く言った。
「あいつら、小さいけど火薬を持ってるんだ。この炎もそれでつけたらしい。――デュオ殿達が、中でまだ戦ってる。はやく戻らないとな」
 三人は一度頷きあうと、離れの入り口へと駆けだした。クロトゥラは大部分が吹き抜けになっている礼拝室の二階部分から飛び出してきたようだが、外からではそういうわけにもいかないからだ。念のためにあえて、先程の男が埋まっているはずの土嚢の上を歩きながら、アルトはもう一つの疑問を投げかけた。
「なあ。クロトゥラがここにいるっていうことは、もしかして」
 クロトゥラが苦い顔をして、一瞬アルトを振り返る。正直なところ答えはそれだけでも十分で、アルトは緊張に鼓動の音がはやまるのを感じていた。
「……。マラキアに、あの刺客を引き入れたのは」
 言いにくそうに、クロトゥラが呟く。直接礼拝室へと繋がる裏口の前へ立つと、アルトは自ら、その続きを言い当てた。
「マラキアに刺客を引き入れたのは、……ソーリヌイの一門なんだ。そうだろう?」
 フェイサルを追っていたはずのクロトゥラ。それに、不自然なほどに侵入の気配を見せなかった刺客達。それを考えれば簡単な話だ。
 クロトゥラがそれに、無言で頷く。そうしながら裏口のドアノブをまわすと、古びた蝶つがいが、錆び付いた音を響かせた。

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