吟詠旅譚

風の謡 第二章 // 導きの炎、風の刹那

034 : SIGN -2-

――おまえが今、やるべきことは……母上をお守りすることだ。違うか?
 デュオに言われたその言葉が、アルトの脳裏に響いていた。

 壊れたノブを力ずくで引き、勢い込んで扉をくぐる。
 石造りの壁と分厚い扉に隔たれた廊下側では、それだけでも幾分煙が和らいでいる。そんな中でアルトの目にうつったのは、相変わらずの静かで飾り気のない廊下だった。しかしいつもと違うのは、その傍らへひっそりと掛けられているその絵の前に、二人の男が立っていることだ。
 廊下へ出てきたアルトを見て、片方の男が「ひっ」と高い悲鳴を上げる。フェイサルだ。彼はアルトの母、モノディアの肖像画に片手を掛け、憤慨したようにもう一人の男を睨みつけた。フェイサルの隣に立つその男は、そんなことなど全くおかまいなしといった感じでにこやかに笑い、こう話す。
「大丈夫ですよ。アーエール殿下しかこちらにいらっしゃらないということは、後の方々はまだ、向こうで私達の仲間と遊んでらっしゃるってことですから」
「それにしたって話が違う! この絵を見れば、すぐにわかるんじゃなかったのか! ただでさえ皇王の軍が辺りを囲んでいるのに、早々に火までつけて! ――これでもし、うまく逃げられなかったりしたら……!」
「おや、信じていただけないのですか」
 噛みつくような剣幕で言ったフェイサルを、男がただの一睨みで黙らせる。その声に聞き覚えがあるように感じて、アルトは懸命に自分の記憶を探った。
 他の刺客達のように黒い衣服に身を包み、顔を半ばまで隠した男。やはり体格は中肉中背で、両の目がつり上がっていること以外にこれといった特徴はない。ただ、男は戦意なげに両手を垂らしているものの、その身に何を仕込んでいるかはわからない。下手に動くと命取りになる可能性が高いだろう事は、アルトにも十分理解のあるところであった。
「いやしかし、お見事だ」
 その言葉に、はっとなる。アルトが一瞬肩を震わせたのを見て、男は額に片手を当てると、さも可笑しそうに笑い始めた。
 低い、気怠そうな声。何もかもを馬鹿にしたようなその笑い声に、アルトは鳥肌が立つのを感じていた。
(やっぱり、この声)
――お見事だよ。こんなにはやく、帰ってくるとはねえ……
 炎に燃えるマラキアの幻影を見た、あの時に聞いたのと同じ声。覚えているのは声だけだ。あの時は恐怖で振り返ることが出来なかった。
(だけど)
 アルトには確信があった。あの幻の中に存在した男が、今、こうして目の前にいるのだということに。
「どうやって事を察知したのか知らないが、マラキアの炎上を未然に防いだ上、その様子だと他の住民も避難させたみたいですねえ? 正直、そこまでの方とは思いませんでしたよ、アーエール殿下」
 そう言ってぱちぱちと、男がやる気なく手を叩いて表情を歪ませた。アルトが一歩前へ踏み出そうとすると、彼は「おっと」と短くこぼし、手振りでアルトの動作を制す。
 アルトのくぐってきた入り口から、黒い煙が流れ込んできていた。半開きになった扉は、動くことが罪だとでも思っているかのようにぴくりともしない。それはアルトをいつ襲ってくるとも知れない飛び道具から守り、またその一方で、彼を他の仲間達から完全に孤立させていた。
「しかしまあ、困ったもんだ。時間がないのも確かだし……。じゃあ坊ちゃん、この絵画ごともらって逃げましょうか」
 男がにこりと笑ってそう言うと、フェイサルは多少面食らったようだった。それでもすぐに「それなら始めからそうしろ!」と毒づいて、モノディアの肖像画を取り外そうと動き出す。アルトはそれを見て息を呑むと、威嚇するように大声で言った。
「やめろ! 母上の肖像画に触れるな!」
 即座に駆け出すが、アルトが肖像画まで辿りつくことはなかった。そうする間もなくいつの間にやら近づいていた黒服の男に肩を掴まれ、もう片方の手で強かに腹を殴られたからだ。
 廊下の壁に打ちつけられて、息を強く詰まらせる。一瞬呼吸の仕方を忘れてしまったかのように頭の中が真っ白になって、アルトはそれから、激しく咳き込んだ。あまりに唐突で、何が起きたのだか判断することが出来なかった。くらくらとする頭を振って視線をやると、黒服の男は幅だけでも自身の身長と同じ程の大きさがあるだろう肖像画をいとも簡単にとりはずし、片手で担ぐように持っている。
 制止をかけようとして、為す術もなく再び咳き込む。あの一撃で体の中の何かが麻痺してしまったかのように、何もかもがおぼつかない。立ち上がろうとしても体全体に力が入らず、バランスを崩して傷を増やしただけだ。
(これくらいの怪我、デュオだってしてたじゃないか)
 それなのに彼は、痛みや辛さなどおくびにも出さずアルトに笑いかけたのに。
 アルトは自分自身を叱咤するように奥歯を噛みしめたが、それも空しく終わった。この勝ち気な少年にとって今までの人生は守られることがあまりに当たり前であり、武人であった知人と比較するには、そもそも痛みに対する耐性がなさ過ぎたのだ。
「良いじゃあないですか、アーエール殿下。ここに置きっぱなしじゃ、この絵だって燃えちゃうわけだし」
 相変わらずの気怠そうな声で、つり目の男がそう笑う。アルトは深く息を吸い、呼吸を整えると、立ち上がろうと足を踏ん張った。しかし、うまく体が動かない。
 一方でその様子をせせら笑う、二つの声が聞こえてくる。そのうちの片方は無遠慮にアルトの方へ歩み寄り、そっとアルトのそばへかがみ込んだ。肖像画を片手に持ったままの、黒服の男だ。
「綺麗な御髪だねえ」
 空いている方の手でアルトのほどけた髪を梳きながら、男が笑顔でそう言った。一点の曇りもないその笑顔が、アルトの心を逆撫でする。アルトは辛うじて持ち上げた手でそれを払いのけると、強く相手を睨み付けた。
「さわ、るな」
「おやおや。あの突きを受けたのに、威勢の良いことだ」
 男はそう言ってひょいと立ち上がると、遠巻きに眺めていたフェイサルへと視線を移す。フェイサルは一瞬笑うのをやめて肩を震わせたが、すぐ取り繕うように「なんだ」と仏頂面で言った。男は満足そうにそれを見て、そのままの笑顔でこう話す。
「フェイサル坊ちゃん。アーエール殿下ってもしかして、ここで死んでもらっておいた方が良いのかな」
「!」
 聞いて、息をのんだのはアルトだけではなかった。向こう側でフェイサルが、高い声で短く叫んだのがわかる。フェイサルもまたアルトと同じように、人生の大半をこのマラキアで過ごし、人の死には遠く生きてきた青年である。しかしもしも自分が是とすれば、この男が彼の目の前でアルトの首を刎ねるくらい、平気でするだろうことは容易に想像できたのだろう。
「ここで生かしておいても、後々ソーリヌイ一族には障害になるだけだろうし。それにさっきから、私の血が騒ぐんですよ」
 男が傍らに肖像画をおき、片手で、アルトの頭を壁へ押し付ける。アルトもようやく感覚の戻ってきた両手でその腕を掴み、なんとか引きはがそうともがくが敵わない。
 狂気を浮かべた男の視線が、まっすぐアルトを貫いている。そうして男はもう片方の手で、再びアルトの細い髪を梳いた。
「あの女も確か、こんな髪をしていたなあ。似ているとは聞いていたが、まさかこんなに生き写しだなんて。……父親にはあまり、似ていないのにねえ」
 聞いてアルトは、反抗していた腕を止めた。今までに何度も漏れ聞いたその言葉が、やけに胸を騒がせたのだ。
「だったら、何だって言うんだ」
「嫌だな、そんなに怒らないでくれよ。俺は嬉しくてしかたないのに。どうしてこんなに嬉しいか、わかるかい? ……こうして殺しそびれた女にそっくりな、あんたに今日出会えたからさ」
 アルトの髪を梳いていたその腕で、男は胸元からすっと鋭利なナイフを取り出した。
 頭を押さえ付ける腕の力が強くなって、アルトは口内で低く呻く。今すぐにでもここから避けなくてはならないのに、やけに気分が悪かった。ともすれば吐きそうだ。頭の中がぐるぐると回って、軽い目眩すら感じられる。
「殺しそびれたって……一体、どういうことだ」
 やっとのことで口にした疑問にも、男はもともと細い目を更に細めてにやにやと笑ってみせただけだ。そしてこれ以上ないほどの笑顔を浮かべ、ひやりとしたナイフをアルトの首もとに押し当てる。
 刃が触れた肌から、一本の筋を描くように温かい血が流れ落ちる。アルトはぐっと奥歯をかみしめて、震える指を握り締めた。
(死ぬのか?)
 ふとそんな疑問が頭をもたげて、アルトの脳裏を支配する。途端、頭の奥で何かがどくんと音を立てた。
 どくん、どくんと続く音。それは鼓動のようだったが、アルトが日頃思うそれよりもずっと大きく地響きして、アルトの心を満たして行く。
(まさか、こんなところで死んだりしたら)
 自分がスクートゥムへたどり着けないのなら、マラキアの人間を逃がした意味がない。そう考えてアルトは、ふと絶望交じりに溜息をついた。
 それだけではない。父王アドラティオ四世の真意も、デュオ達がマラキアに戻って来た理由も、――母モノディアの死の真相も、全てが闇の中に消えてしまう。
(そんなの、嫌だ)
 正直なところ、アルトはこの時になってもまだ、自分の『死』を理解していた訳ではなかった。死んで星になるのか、鳥に生まれ変わるのか。今までに聞いた話を思い浮かべてみても、どうにも実感が湧かなかったのだ。
 それでも、一つ確かなことがある。
「嫌だ」
 刃を押し付けられたままのアルトが唐突にそう言うと、黒服の男はにんまりと笑った。
「それは、そうだろうさ。人間、誰だって死ぬのを恐れるものだから」
 男がそう言って、右手を軽く動かした。突き付けられた切っ先が鋭く動いて、アルトのシャツを浅く薙ぐ。ボタンが弾けてとんでいき、王族であることを示す金のチョーカーが露になった。
 黒服の男はそれを見て楽しそうに笑い、それからふと、アルトの首へ掛けられたもう一つのペンダントに目を向け、首を傾げる。
「ロケットペンダント――?」
 デュオからもらった、傷のついた金のペンダント。男の右手が動き、今度は切っ先をペンダントへ向けた。撫でるように、刃が金具をなぞって行く。それを見て、アルトは低く、 自分でも驚くほどの低い声で、唸るようにこう言った。
「やめろ」
 「口だけは達者ですねえ」と言って、男が笑う。それから切っ先でペンダントを裏返し、「それよりこれ、開かないんですか」と軽く続けた。しかしその直後、男の表情がはっと曇る。男の視線が自らの左腕に沿うように、その先に押さえ込んだアルトの顔を見た。
 アルトの指は、もはや震えてはいない。
「放せ」
 短く、呟く。
 同時に、男の腕を握っていたアルトの両手に力がこもった。男の顔に苦痛の色が広がり、アルトを押さえていた手からも力が抜けていく。
 アルトは無表情のままで男の腕を鷲づかみにし、そっと放した左手で、突きつけられたナイフの切っ先を軽くつまんでみせた。パキ、と乾いた音がして、刀身に細い亀裂が入る。
「こんな所で、死ぬわけに行かないんだ」
 無感情な呟きだった。腕には奇妙なほど力を込めているのに、その言葉はどこか遠くから聞こえてくる、他人の声のように思われる。それを不思議に思うアルト自身も、さもすれば今はどこか遠い、おかしな視点から自らを見下ろしているかのような、奇妙な感覚に囚われていた。
(死ねない。何も知らないまま、こんな所でなんか――!)
 心の声が、鼓動を伴い少しずつ大きく膨らんでいく。何か熱いものが耳の内側を駆けめぐって、アルトの体を火照らせる。最早アルトの頭から離れた男の腕が、痙攣するようにぴくりと跳ねた。
――『僕』のことは、助けてくれないのにねえ!
 以前聞いた夕日の言葉と共に、さっと一瞬、アルトの中に何かが過ぎる。しかし、その瞬間のことだ。
 堅牢な鍵で閉じられていた、直接外へと続く扉から、がちゃりと重い音がする。焦げ臭い煙の中に細い光が射し、同時に一つの人影が、悠々と扉の外に立っているのが垣間見えた。
「やけに遅いと思ったら、一体何をしているんだ」
 虚を突かれたアルトがぽかんとして、扉の方へと視線を向けているうちに、黒服の男がアルトの腕から逃れ、間合いを取る。その隣でぱっと表情を輝かせたフェイサルが、「父上!」と嬉しそうに声を上げた。
 開け放たれた扉から、煙が外へと流れていく。しかしそれへ逆らうように、一人の男がそっと中へと踏み込んだ。
 金色の髪、上品に蓄えた髭のある、角張った顎。初めて見る顔ではあったが、しかしどこか、彼の娘や息子を彷彿とさせるものがある。アルトは唾を飲み込んで、心の中でこう叫んだ。
(ソーリヌイ侯、トルヴェール……!)

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