吟詠旅譚

風の謡 第二章 // 導きの炎、風の刹那

031 : Come What May

 待っていた。もう何年も。
 彼の人はじっと息を潜め、来るべきその時を待っていた。
「   」
 潤った、薄桃色の唇が短く言葉をつむぐ。それは誰に届くでもなく、すっと冷ややかな空気の中へと溶けていく。
 形の良い口の端が、ほんの少し、微笑みを見せた。しかしすぐにその隣を、一筋の涙が駆け下りる。
 この苦しみに、悲しみに、終わりが来るとするならば。
 この苛立ちに、虚しさに、救いがあるとするならば。
「   」
 それは叫び。そして魂の愛撫である。いつか再び巡り会う、彼に向けての唄だった。
 待っていた。もう何年も。
 彼の人はじっと息を潜め、来るべきその時を待っていた――。

「――お血筋なのですね」
 しんがりを務めたナファンが、最後にはそう言って苦笑した。今すぐ避難するようにと再三勧められたのを、アルトが頑として受け入れずにいたからだ。
 血筋というのは、父王アドラティオ四世のことだろうか。それとも、――母、モノディアのことなのだろうか。そんな考えが脳裏をかすめたが、その答えを聞くよりもはやく、彼らは地下へと去って行った。
 地下通路の入り口は、闘技場の城壁側にあった。そこには昔から生えていたのだろう沢山の木々が生い茂っており、恐らく初めから、工事の跡を隠すつもりでそこに入り口を作ったのだろうと見て取れる。
 ソーリヌイ侯やその一族の姿は、ついにここまで見ることもなく来てしまっていた。もしかすると既にこの道を見つけて逃げたのかも知れなかったが、それにしてはクロトゥラが戻らない。どうも妙だとアルトが指摘すると、シロフォノは何でもないかのように、「とりあえずクロちゃんがついてるなら、大丈夫じゃない?」と一蹴した。
 人々の先導役はリフラと、その父であるアグロが。宮殿内を見回ると共に城壁に残った人々を集める役は、デュオが買って出た。
 ソーリヌイ侯の一族を捜すなら、その城壁までの往復が最後のチャンスになるだろう。本当はアルトも共に城壁まで戻るつもりでいたのだが、しかし、そう申し出た時のデュオの反応を思い出して、アルトは浅く俯いた。アルトの言葉を聞いた彼が、首を横へ振っただけで、何も言わずに馬を駆って行ってしまったからだ。
 戦争の経験もないくせに、アルトが出しゃばった真似をしたことに怒っているのだろうか。いくら頭で考えてみたところで、その真偽はわからない。
 軍は時折思い出したかのように、投石機で脅しをかけている。まさか地下を通って脱出を試みているとまでは思わないだろうが、いつ攻め込んできてもおかしくない状況だ。それでもアルトは今、地下通路の手前で待っていた。全員が無事にマラキアを出たと確認しなければ、この入り口をくぐるわけにはいかないと思ったのだ。
「ごめん。わがままに、付き合わせちゃって」
 隣に立つシロフォノに、頬を掻きながらアルトは言った。アルトがここに残るといくら頑張ったところで、ナファンが彼を一人で残すはずもなく、結局シロフォノが護衛をするということで話がついたのだ。
 とはいえシロフォノが利き腕を負傷していることは確かで、左腕一本でどこまで剣を振れるかはわからない。しかしナファンはシロフォノに対して、何やら信頼をおいているようだった。
「何に対して、謝ってるの?」
 アルトの謝罪を聞いて、シロフォノはまずそう言った。想像していなかった強い口調にアルトは少し驚いたが、首を傾げながらももう一度「だから、わがままに……」と言いかけて、やめた。シロフォノが表情を崩さずに、ずいっとアルトに歩み寄ってきたからだ。
「僕は結構、怒ってるよ」
 アルトは思わず口をつぐむ。何に怒らせてしまったのだろうと唾を呑んだが、シロフォノはただ黙ってアルトを睨んでいるだけだ。しかしそうしてしばらくすると、言い出したシロフォノの方からぷっと小さく吹き出した。
「な、なんだよ?」
「でもアルトらしいなあと思って、怒る気が失せちゃった」
「大体、なんで怒ってたんだ」
「ほら、わかってないんだもんな」
 そう言ってまた、一人で小さく笑い出す。
 全く意味がわからない。ただでさえ先程から気分が落ち着かないのに、とふてくされたアルトがそっぽを向いて歩いて行くと、シロフォノも笑いながらそれを追いかけた。
「うん、でも大丈夫だよ。バッチリだった」
「だから、何が」
「僕もアルトのこと、信じられた」
 唐突に言われて、アルトははっと振り返る。シロフォノは何でもないかのように「さっきの演説の事ね」と続けて、軽く笑った。屈託のないその様子を見て、アルトは所在無く溜息をつく。
 ――今だけでも良い。信じて、ついてきてくれ。
 闘技場の人々に向けて、アルト自身が言った言葉だ。思い出すとなんだかやるせないような、照れくさいような、妙な気分がして、アルトは再び顔を背けた。
 人々を動かすためには、ああ言うしかないと思った。
 今のアルトには、次期皇王という強みがある。マラキアの人々を助けたい。助けるためにはその肩書きが必要だ。しかしそれでも、地位しか持たないただの器になどなりたくはない。
(だからこそ俺は、マラキアの人を助けたいんだ。――それが、俺自身の意志だから)
 矛盾する思いが、しかしそんな矛盾など端から存在しないかのように、脳裏で見事に一巡する。何度も何度も考えたジレンマに再び行き当たって、気持ちが上手く、まとまらない。
 そんなアルトの心情を知ってか知らずか、シロフォノは相変わらずの口調でこう続けた。
「大丈夫。みんな、不安がってなかったでしょ? アルトのことを、信じてるって証拠だよ」
「じゃあ、どうしてお前は怒ってたんだ」
 苦虫を噛み殺したような顔でアルトは言ったが、シロフォノはといえば一向にお構いなしで、「だって」とさも当たり前かのように続けてみせる。
「『次期皇王がついてるから、大丈夫』って聞こえてくる度に、この世が終わるみたいな顔してたのにさ。何も相談してくれないから」
 アルトが閉口してシロフォノのことをじっと見ていると、彼はにこりと笑って、「ちょっとムカってしたね。僕は」と続けた。その表情は笑顔だが、言葉にはいささか刺がある。どうやらまだ、少し怒っているようだ。
(――敵わない)
 アルトは遠慮がちに視線をそらしたが、シロフォノがそれについて指摘をすることはなかった。
 長閑なマラキアの日差しの下に、不釣り合いな低い音が轟く。恐らくは、また城壁に向かって投石機が使われたのだろう。がらがらと、堅牢な城壁の表面が崩れていく音がした。まるで遠い世界で起こっている事のようだと、アルトは思う。強い風が吹き、陽の光が淡く辺りを照らし出しているこのマラキアは、それほどまでにいつもと変わらぬ春を迎えていた。
 アルトはしばらく黙っていた。シロフォノも、アルトに会話を促すことはしなかった。ただ城壁の方を見て、「デュオ殿、はやく戻ってくると良いね」と呟くように言っただけだ。
「俺がやったことは、――詐欺かな」
 ぽつりと、アルトはそう呟いた。
 消え入るような情けない声だと、自分でも十分にわかっていた。アルトはズボンの上から足に爪を立てて、ぐっとシロフォノへ視線を向ける。シロフォノは相変わらずの笑顔を浮かべて、きょとんとした声で尋ね返してきた。
「詐欺? どうして」
「だって……」
 まっすぐな問に、言いよどむ。言ってしまって、良いのだろうか。声に出して、それらしいことを言って、自分は逃げてしまいはしないだろうか。
 しかしそんなアルトの心情すらお見通しだとでも言うように、シロフォノはまっすぐにアルトの目を見ている。
 アルトはいつの間にか握り締めていた拳をほどいて、それから言った。
「マラキアの人間は、俺が次期皇王だと思っているからこそ、みんな素直にここを出た。だけど俺には……兄上たちと争ってまで、皇王になるような気概が無いんだ。父上に彼らの無罪をかけあって、それで済むなら一番良いって、今でも思ってる。でも本当にマラキアの人達を助けたいなら、そんな一時しのぎに意味はないんじゃないかって、そうも思うんだ。また父上の気が変わるかもしれない。もしかしたら、兄上達もマラキアのことをよく思っていないかもしれない。けど……」
「けど、アルトは王様になんてなりたくないんでしょ?」
 シロフォノがそう続けたので、アルトは素直に頷いた。以前は『王権を狙っているなどと思われないように』周囲の目を気にしていたはずなのに、今はそうして頷くことが、地下通路をくぐって行った人々に向けての裏切りに思えてならなかった。
 シロフォノは「そっか」と呟いて、微笑んだ。機嫌はすっかり治ったのか、先程までのような刺は見受けられない。アルトがそれを見て苦笑していると、彼ははっとしたように目を細め、しかし変わらない穏やかな声で「いいんじゃないかな」と続けた。
 シロフォノの視線の先を目で追って、アルトも思わず息を呑む。シロフォノは近くに残してあった馬の手綱を手早く取りながら、言った。
「良いと思うよ、僕は。マラキアを守りたいっていう、アルトの気持ちもわかる。でもさ、もしアルトが王様になったところで、彼らの一生を保証できるわけでもない。それに――」
 風に乗ってわずかに届く、喉を灼くような異臭。アルトはその臭いの元を目で探りながら、ぽつりとこぼす。
「離れの方だ」
 シロフォノの手が、アルトに手綱を握らせる。アルトは問うようにシロフォノを振り返ったが、彼も首を横へと振っただけだ。確かに彼に問うたところで、答えの出る問ではなかったろう。
 それでも戸惑いを隠せない。馬へと飛び乗る間も、アルトの脳裏を「なぜ」という言葉だけが支配する。
 その一方でシロフォノはもう一頭の馬の手綱を握り、その鼻面を撫でつけながら、しっかりとアルトを見上げてこう続けた。
「それに少なくともデュオ殿やナファン殿は、いつまでもアルトに守ってもらおうなんて事、考えてないように見えたけど?」
 いささか緊張感のある微笑みに、アルトもやや遅れて思わず微笑み返した。
「確かにそうかもしれない。二人とも、守られるよりも守ろうとする性格だから」
「そう。――アルト、君と僕もね」
 二人は同時に、異臭の元へと視線を移す。
 黒々とした煙が今、炎を以て諸手を挙げ、マラキアの一部を包み始めていた。

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