吟詠旅譚

風の謡 第二章 // 導きの炎、風の刹那

030 : Vulnerability

 見張り台を離れたアルト達は、闘技場へと直行した。勿論、闘技場に集まっている人々をマラキアの外へと誘導するためである。
 こうなった以上、闘技会の時のように適当なことを口実にすることは出来ない。素直に事態を説明し、一刻もはやく動き出さなくては。闘技場へと向かう道すがら、そんなことを話し合いながらアルトはそっと俯いた。
 今回の件に関して言えば、偽りなどを口にしなくとも彼らを動かせる方法がある。そのことを思うと、アルトの肩は自然とこわばるのだ。
(大丈夫。何も、変わらないさ)
 言い聞かせる。
 人々を逃がすために、重要なこと。その為にアルトは一つ、覚悟をしなくてはならなかった。
「――良いの? アルト」
 唐突に背後から聞こえた声に、アルトは首だけで浅く振り返る。視線の先にいたのは、先程からそばを歩いていたシロフォノだ。周りに気を使っているようで、アルトだけにやっと聞こえる程度の小さな声で、彼はそっとそう尋ねた。
 質問の意味は、すぐに知れた。だからアルトは苦笑して、いくらかかすれた声でこう答える。
「権力っていうのは、こういう時に利用するものだろ?」
 シロフォノが短く息を呑んで、それから寂しそうに俯くのがわかった。

 場に湧く、歓声。闘技場の舞台へと続くアーケードをくぐり抜けたアルトを迎えたのは、熱気を持ったそれだった。
 石造りの堅牢な闘技場は人で埋め尽くされ、いつにも増して騒がしい。アルトは「静かにのんびり過ごせるから」という理由でこの場に足繁く通っていた最近までの自分を思い出し、思わず苦笑する。
 観客席にずらりと座る、人、人。陽光と興奮に顔を上気させた彼らは、自らが置かれた立場のことなど何も知ることなく、純粋にその催しを楽しんでいた。
(たとえ全員を、無事に逃がせたとして)
 舞台と観客席とを隔てるようにとられた芝生のスペースで足を止め、アルトは一人、考える。
 もしもここにいる人々全てを逃がすことが出来たとしても、マラキア宮の人間の立場に変わりはない。逃亡中の犯罪者として、勿論軍は彼らを追うだろう。そんな状態で宮殿の外へ放り出されたところで、一体どれだけの人間が逃げ延びられるかと考えれば、答えは簡単だ。
「皆様、ご静粛に! 闘技会を中断いたします! 一度、お静まり下さい!」
 柄にあわない大声を必死に絞り出しながら、ナファンが舞台に上がり、説明を始める。その様子を、アルトは傍で黙って聞いていた。
 闘技場の人間に説明をする役目は、使用人達には勿論、貴族達にもそれなりに顔の通るナファンが受け持つ事になった。アルトもそれほど遠くはない位置に立っていたのだが、給仕が大急ぎで持ってきてくれた長い外套にぼさぼさの髪、そして何より外套の下は使用人の服という出で立ちであったから、それが誰であるのかに気づいた人間はいないようだ。
 事前に「自分から説明をする」と名乗り出たアルトを、ナファンはやんわりと押しとどめた。恐らく彼は、アルトに決断のための猶予をくれたのだろう。アルトはふと顔を上げ、場内にいる顔ぶれを改めて見回してみる。
 ここにいる全員を救う方法は、たった一つ。それは、アルトが王位に就くことだった。
 皇王アドラティオ四世の勅命に対抗し得るのは、次期皇王とされているアルトだけである。アルトさえ王位に就くことを了承し、そして彼らに恩赦を与えれば、彼らを一時しのぎではなく本当の意味で助けることができる。
 兄達と、王権を巡って対立するくらいなら。
――そんなことになるくらいなら、王権なんていくらでも譲ってやるさ。
 その思いは、今でもある。アドラティオ四世に進言し、皇王自身がマラキアの人間に恩赦を与えてくれるなら、それに勝ることは無いと思っている。しかし、それでも――
(いざ、継承権争いと彼らの処刑、どちらかを選ばなくちゃならなくなったら)
 アルトに、マラキアの住人を見捨てることは不可能だ。
 誰もアルトに、意見を強要することはしなかった。けれども誰もが、どうするべきかを知っていた。だからこそ、シロフォノはこう聞いたのだ。「そんな成り行きで皇王になることを決めて、本当に良いの?」と。
(俺が兄上達に継承権を譲るつもりだったことなんて、とっくにお見通しって事か)
 「嘘をつくのは下手そうだけど」と、今朝方クロトゥラに言われた言葉が自然と思い出された。
 そんなことを考えている間に、ナファンはいつの間にやら説明を終えたようだ。先程まで興奮の渦にあった場内はすっかり静まり返っていて、どうにも心許ない空気が辺りを包んでいる。
 人々は始め、ナファンの話も何かの余興なのではと勘違いをしたようだった。警鐘に首を傾げてはいたが、そう易々と事態を信じることなどできなかったのだろう。しかしそれが、どうやら冗談でもなんでもないとわかった瞬間、唐突に静寂が走ったのだ。
「何、馬鹿なことを!」
 誰かが叫ぶような声を上げて、闘技場の中心に立ったナファンへ石を投げ付ける。それを皮切りに悲鳴のような声が上がり、人々が一斉に出口へと殺到した。ひとまず逃げなくてはという意識からのことだろうが、城壁を取り囲まれているという事実は既に失念しているようだ。
 信じられないのも確かだっただろう。いや、信じたくもないはずだ。王都軍が自分たちを討つために闘技場を囲んでいる。それだけでもショックだろうに、その上、生きるためには全てを捨てて逃げろと言うのだ。
 地位も、私財も、全て。簡単にはいかないことだろうと、アルトにはわかっていた。どんな人脈があるか、どれだけの宝石を持っているか、どんなに素晴らしいドレスを着ているか。それが多くの貴族にとって人生の中心であり、何にも変えられないものであることを、アルトは十分すぎるほど学んできていたからだ。
 その時、ドン、と低い音がした。
 それに続いて、がらがら、ばらばらと何かの散らかる音。誰もが顔を引きつらせたその音を聞いて、アルトは一人、「良いタイミングだな」と呟いた。何故そんなふうに冷静でいられるのかはわからなかったが、アルトは音を皮切りに聞こえ始めた非難とも叫びとも判断し難い声の中をすりぬけるように、すっとナファンの隣へ並ぶ。
「聞いた通りだ。軍隊は投石機も持ってきている」
 声を張り上げることはしなかった。そんなことをせずとも、アルトの周りには寄り添うように風が漂って、力を貸していたからだ。
 数人の人間の視線が、アルトを向いた。しかし、ほんの一部の人間だけだ。それでも構わず、アルトは続ける。
「マラキアの城壁は堅牢だから、投石機で破られることはないと思う。向こうもそれは承知で、脅しをかけてるんだ。けど、正直こっちに勝ち目はない。伝令が来た時点で、ここにいる人間は全員謀反の罪をかぶせられているから……。誰も援助には来てくれないだろうし、向こうは気兼ねなく攻めてくるだろう」
 そう言って、場内をぐるりと見回す。目のあった数人、そしてまた数人が、口をとじた。そうした人間がまた隣の肩を叩き、だんだんと静寂が広がっていく。
「アーエール殿下……?」
「殿下が、何故ここに」
 ちらほらと聞こえる、驚きの声。それに含まれた期待の言葉に気づいて、アルトは一瞬目を伏せる。
 彼らの目に映る自分は、一体何者なのだろう。アルトはそう考えた。『マラキア宮の主』だろうか。それとも、『クラヴィーアの第三王子』か。しかし恐らくはそのどちらでもないのだろうと、アルトは十分に理解していた。
 ちらりとアルトは、芝生の上に立ったデュオの方へと視線をやる。
 助けを求めるような心境だった。しかしデュオはあえてアルトから視線を逸らすように、顔を背けただけだ。
「アルト様」
 舞台のすぐ下から声がして、アルトはそっと視線を向ける。呟くような声で彼を呼んだのは、リフラだった。彼女はそれ以上何も言わずに、ただ自分の手を胸の前で握りしめ、アルトに向かって頷いた。そのすぐ隣に立っていたシロフォノも、苦笑に近い笑みを浮かべてアルトの方を見つめ返す。
 アルトは唾を飲んで、二人へ静かに頷いた。それから静かにざわめく場内へと視線を上げ、一歩、力強く前へと足を踏み出してみせる。
 一度この場に顔を出してしまったら、もう後戻りは出来ない。わかっていた。わかっていて、そうしたのだ。
 アルトはアルトとしてではなく、この国の『次期皇王』として、口を開いた。
「逃げ延びたところで、それだけじゃ反逆者の汚名は拭えない。しばらくは辛い思いをするかもしれない。――だけど、ここで覚えのない罪に死ぬくらいなら」
 一人一人の顔を覗き込むようにすると、ある者は頷き、ある者は目を逸らした。先程まで闘技会に興じていたはずの貴族達。その多くは今まで、影でアルトを軽んじてきた者達だ。
(戯言を、とまた馬鹿にするなら、それでもいい)
 視線を移すと、仕事の手を止め、立ちすくむ使用人達がじっとアルトを見ている。その中にはバラム城のことも、デュオのことも、闘技会の真意も知らされていない者も勿論いたのだが、その誰もが今、アルトへ静かに目を向けていた。
(それでも必ず、全員をここから逃がすんだ)
 アルトはぐっと拳を握って、それから言った。
「今だけでも良い。信じて、ついてきてくれ」
 風が吹く。答えはなかった。
 しかしそこにいた全員の視線が、しっかりとアルトを向いていた。

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