吟詠旅譚

風の謡 第二章 // 導きの炎、風の刹那

027 : The Palace in Flame -4-

「こんなところにいたのか」
 明け方の、深閑なマラキア宮。礼拝室の前の広い廊下を歩きながら、アルトが言った。相手は声に気づいていないのか、振り返ろうとする気配すらない。
 足元に敷かれた濃紺の絨毯は柔らかく、一切の足音を消し去っている。言葉の途切れたその場所は束の間、完全な静寂に支配された。
「この肖像画」
 廊下の端に立った人物が、壁にひっそりと掛けられた絵を見て、呟くように言った。
(懐かしい、絵だな)
 アルトは独りごちて、その絵を仰ぎ見る。
 金の髪をした、一人の女性の肖像画である。幼い頃はよくひっそりと、ここへこの絵を見にきていた。それが今のように足遠くなってしまったのは、一体いつのことからだったろう。
「アルトのお母さん?」
 そう言って振り返ったのは、シロフォノだ。包帯を巻き、上着にも袖を通していない右肩は痛々しかったが、ナファン曰く双子が持っていた傷薬がとてもよく効くとのことで、随分治ってきているそうだ。手当をするはずが、逆に薬草の調合方法を習ってしまったと言っていた。
「よくわかったな」
「だって、そっくりだから」
 言われて、アルトは足を止める。
――アーエール殿下は、本当にモノディア様と瓜二つでいらっしゃる。
 昔はよく、そんな言葉を聞いたように思う。幼いアルトにはそれが照れくさくて、しかし、嬉しかった。
 儚げに笑いながらも、芯のしっかりとした母が好きだった。
 平民の出でありながら第四王妃として召し抱えられ、短い生涯をこのマラキア宮で終えた女性。全てを棄てて他の世界へと旅立ってしまった彼女は、それでもしかし、最期まで辛そうな表情をアルトに見せることは無かった。それ故今でも、アルトの記憶の中の彼女は、常に笑顔だ。
「似ているなんて言われたの、久々だ」
「そうなの?」
 問われてアルトは、静かに頷く。そうだ。ある日唐突に、アルトは母のなにもかもから遠ざかってしまったのだ。
 突然聞かされた、母の訃報。しばらくの間はアルトがどんなに尋ねても、誰も死因を教えてくれはしなかった。それが自殺だったのだとアルトが知ったのは、母の葬儀を終えて一月が経とうとしたころのことだ。それも正式に聞かされたのではない。宮殿内で話されていた噂を、小耳に挟んだのが始めだった。
「いや、やっぱり似てるよ。目許とか鼻筋とか。でもやっぱり――」
 この肖像画がこんなところにひっそり掛けられるようになったのも、その頃からの事である。人どおりの少ない、礼拝室へ向かう廊下の果て。
 そこは折よく、行き場の無い悲しみで溢れたアルトを迎え入れるのにも最適の場所だった。
「一番似てるのは、笑い方だね。そう思わない?」
 シロフォノが、無邪気な顔でそう言った。アルトははっとして、それから、「そうかな」と言って軽く首を傾げる。
「もうそろそろ時間だね。準備は整った?」
「ああ。闘技場も、既にかなり賑わっているらしい」
 アルトがそう言いながら肖像画の方へと歩み寄ると、不意に背後で扉の開く音がした。「アーエール殿下」と言ってしまってから息を呑み、言葉を区切って入ってきたのはリフラだ。その手には何枚ものシーツを抱えているが、その端から、何やら紙のようなものが顔を覗かせている。
「あっ、あの、申し訳ありません! 『アルト様』!」
「様をつけたら、あんまり意味がないよ」
 くすくすと笑いながらアルトが言うと、リフラは少し顔を赤らめ、シーツで隠していた紙の束を取り出した。
「これ、ナファン様から預かってまいりました。使用人の配置図です」
 リフラはほんの数カ月前に採用された、一般の給仕である。従ってデュオの過去を知る人間ではないし、聞けばアルトより一つ年上だそうだから、マラキアの昔の名前など知りもしないだろう。しかし事の次第を聞いた彼女は、こうして力を貸すことを選んでくれた。
 それがどれだけ重要なことか、アルトはしっかりと理解していた。理解して、だがしかし、深く考えることは避けたのだった。
 書類の束を受け取って、アルトはざっと目を通す。デュオが決定した人員の配置が事細かに記された、マラキア宮の見取り図である。肩越しにシロフォノが図を覗き込んで、短く口笛を鳴らしてみせた。
「さすがは『南東の鉄壁』って感じだね。過不足のない配置の仕方だ」
「そうか? 肝心の闘技場が、一番手薄に見えるけど……」
 言いかけて、ふと気づく。アルトはもう一度見取り図に視線を落とすと、呟いた。
「そうか、闘技場には武装した出場者達が居るから」
「多分、そういうこと。流石に何か異常があれば、その場のノリで戦ってくれると思うよ。むしろ今の雰囲気だと、みんな我先に功績をたてようとするかもね」
 言って、シロフォノがにこりと笑う。アルトは顎に手をやってしばらく事を考えていたが、それもそう長くは続かなかった。リフラがふんわりと、しかし芯のある声でこう言ったからだ。
「アルト様、そうお悩みになることはないと思います。確かに闘技場には女子供も多く集まるはずですけれど、彼らも皆、このマラキア宮の住人なんですもの。もしもの時は、私だって戦います。……あの、差し出がましいことを申し上げましたが」
 心を読んだかのような言葉にアルトは瞬きしたが、段々と肩を縮こまらせる様子を見て、思わず頬に笑みを浮かべる。
 「僕もこの後は、闘技場で待機だしね。大丈夫」とシロフォノが続けると、一方でこの廊下に続く扉がもう一度開き、誰かが中へ入ってきた。クロトゥラだ。昨日と変わらない服装だが、あちこちについた砂埃がやけに雰囲気を醸し出している。先ほどまで何やら穴掘りを手伝わされていたから、恐らくその時に汚れたのだろう。
「アルト、デュオ殿が呼んでる。そろそろ馬小屋へ戻れって」
 本拠地は、馬小屋にした。敷地の端にあるため外壁に配置した人間と連絡が取りやすく、また、いざとなれば馬も動員することが出来るからだ。アルトは一度頷くと、手に持った紙の束をくるりと丸めて握りしめる。
「わかった、今行く」
「あ、アルト様!」
 立ち去りかけたアルトを引き留めるように、リフラが言った。
「私も、ご一緒してよろしいでしょうか? あの、昨日フェイサル様に聞かれた話の件について、ご報告が」
「ということは……本当にあったのか?」
「はい。あの後、父に確認して参りました。ただ随分複雑に作られているようなので、見取り図があった方がご説明しやすいかと」
「そうか。じゃ、一緒に行こう」
 聞いて、リフラは「はい!」と笑顔で返事する。その勢い込んだ反応にアルトは驚いたが、シロフォノとクロトゥラが同時ににやりと笑んだのを見て、更に首を傾げた。

 何でもないかのような顔をして、今朝もいつものように夜は明けた。
 もうすっかり昇りきった太陽に目を向けながら、アルトはふと、シロフォノを探した日の朝を思い出す。
 あの朝は暗闇の中で聞いた、夕日のような『誰か』の言葉に苦しくてたまらなかった。正直、その気持ちは今でも変わらない。助けたい、守りたい、と口先でばかり言ったとして、アルトにできることなど限られているのだ。
(けど……どうにかしてみせる)
 アルトが静かに拳を握り締めると、隣を歩いていたクロトゥラが、ポンと軽くその肩を叩いた。
「大丈夫。おまえの故郷まで、炎にやらせやしないって」
 囁くように言ったクロトゥラにアルトは驚いて、シロフォノが向かったはずの闘技場の方と、隣を歩くクロトゥラとを見比べる。それを見たクロトゥラはにやりと笑うと、「聞いてたよ」とさらりと言った。
「本当はアルトがいつまで白をきり通せるか、試そうと思ったんだけどさ。やっぱ良いや。ここの殿下、嘘をつくのは下手そうだけど、口は堅いみたいだから」
「な、なんだよ、それ……!」
 困惑したアルトが言葉を選んでいると、今度は声を押し殺すような素振りを見せて笑い始める。また一方ではそんな様子を見ていたリフラが、わけがわからないながらも参戦した。
「アルト様は素直なお方なんです、おかしなことを言わないでください」
「ふーん、なるほど。リフラさんは殿下のそういうとこが好きなんだ」
「な、何、馬鹿なことを!」
「あれ、変なこと言ったかな。ここの使用人は、みんな殿下が好きでたまらないのかと思ってた」
 クロトゥラが真っ赤になったリフラをからかって、二人はどんどん歩いて行ってしまう。アルトは半ば取り残されながら、いくらか軽くなった肩を回して二人を追った。
 そうしてふと、気づく。醸造所の裏に人影があった。先程見た配置図を思い出す限り、この辺りを担当しているのは庭師のチュラだが、今の時間はまだ外壁に近い方を見回っているはずだ。
「また、フェイサルだ」
 アルトが顔をしかめて、短く呟く。足を止めて様子を窺っていると、クロトゥラ達も徐々に声の音量を落として戻ってきた。
「また? あいつ、今度は何をしてるんだ?」
 フェイサルは今日も、一人ではなかった。昨日と同じ護衛の他に、もう一人大柄な男を連れている。男はフェイサルと一言二言会話を交わすと、黙ってその場を去って行った。その視線は一瞬アルト達の方へ向いたはずだが、彼は何も言わずにその場を後にする。残されたフェイサルも、見られていると気づく様子はない。
 それはある意味、仕方のないことのようだった。フェイサルは顔を真っ青にして、がくがくと小刻みに震えていたのだ。
『やっぱり』
 声なき声で、その口が語っている。不審に思ったアルトが、一歩前へと踏み出した瞬間だ。
 カーンと大きな音をたてて、マラキア中に警鐘の音が鳴り響く。それは止まずに何度か音をたて、宮殿内に異変を知らせていた。
 何年も使われていなかったはずの鐘は、それでも雄大に轟き渡る。人々の警戒心を呼び起こすのには、十分すぎる響きだった。
「始まったか」
 アルトが音のする方へと顔を上げると、クロトゥラはやや尖った声で「はやかったな」と続けた。今頃は伝達用の馬が外壁に近い辺りを駆け始め、闘技場ではナファン達が人々のどよめきを抑えているはずだ。
 リフラが不安げに、胸元で両手を握りしめる。アルトはそれに手を添えようとして、背後から聞こえた雄叫びとも判断のつかない絶叫に息を呑んだ。
 どうやら驚いたのは他の二人も同様であったようで、三人の視線は同時に一点を向いた。
 一人の男が両手で自分の耳を抑えて、地面に膝をついている。フェイサルだ。傍らでは護衛が慌てふためき彼に手を差し出していたが、フェイサルがその手を取ることはなかった。
「やっぱり、やっぱりだ!」
 余裕のない、切羽詰まった叫び声。フェイサルは何度かそのフレーズを繰り返した後で、よろよろと立ち上がり、乾いた笑いを浮かべた。
 その顔は蒼白どころか土気色をしていて、とても見られたものではない。しかし彼は尚も乾いた笑いを浮かべて、最後にこう叫ぶ。
「――やっぱり来たか、あの気違いめ!」
 言うがはやいか、フェイサルは今までにしたこともないような機敏な動作で走り去った。どこへ向かっているのかはわからない。もしかすると、本人もわかっていないのではないだろうか。ともかく彼は先程の大柄な男を追うかのようにアルト達のいるのとは反対方向へ走り去り、護衛が慌ててそれを追っていく。
「フェイサル様、一体何が……」
 呟くように問うたリフラに、アルトが迷いを含んだ緩慢な動きで首を傾げる。クロトゥラだけがすぐに馬小屋のある方向に足を向けて、立ち止まったままの二人に声をかけた。
「急ごう。あいつのことは後で俺が追うから、今は放っておけ」
「今、追ってみてくれないか。あいつやっぱり、様子がおかしい」
「駄目だ。今、おまえらを二人で置いとくわけにはいかない」
 そう言った声が、緊張感を帯びている。アルトが視線で尋ねると、クロトゥラは顔を背け、さっさと歩きだしながらこう言った。
「先にいなくなった、大柄の男――。あの殺気は、ただ者じゃなかった。もしかするとウラガーノからの道中で遭遇した、あいつらの一派かもしれない」
 言われたアルトは、背筋がさっと凍り付くのを感じていた。

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