吟詠旅譚

風の謡 第二章 // 導きの炎、風の刹那

026 : The Palace in Flame -3-

 夕暮れに染まりつつある宮殿は、例を見ないほどに賑わっていた。
 それはこのマラキアに皇王がやってきた時とも違う、熱気のある賑わいだ。誰もが自分の屋敷の庭に出て、自身や息子、それぞれが雇っている護衛や使用人に剣を持たせ、声をあげている。アルトは辺りを見回しながら堂々とあちこちを歩き回り、満足そうに頷いた。
「この様子だと、明日は一族郎党総出で闘技場だな」
「こんなところでアーエール殿下がふらふらしてるって、ばれなきゃな」
 薄汚れたキャスケットをかぶり直しながら、そう言ったのはクロトゥラだ。アルトの変装道具から適当に出してきたシャツとズボンを身につけているが、丈が短く、足首などは完全に出てしまっている。一方でアルトは細い髪を高い位置で一くくりにし、鍔の広い帽子へ押し込んだいで立ちだ。しかし帽子の被り方はあまりに浅く、顔を隠す様子など更々ない。それでもアルトは「大丈夫」と言い切った。
 手伝える限りの事を終えた、後のことである。既にアルトの手紙の内容はマラキア中に伝えられ、大慌てで闘技会の準備が進められつつあった。とはいえ闘技場は使用人たちの手で常に整えられていたし、飾り付けの必要などはほとんどなかったから、忙しかったのは主に人事に関してである。急ピッチで参加者の名簿を作り上げ、適当にトーナメント表を作り、その一方で水面下では、デュオが話をつけてきた人間から順に配置につけていく。こちらの配置は大々的に公表するわけにいかなかったので、デュオは今もどこかを走り回っているに違いない。
 早馬で駆けてきた近衛騎士を追い返した時には少々胸が痛んだが、それ以外には大した問題も無く、事は進んでいた。
「その自信はどこから来るんだ」
 呆れた様子でクロトゥラが言う。アルトが「宮殿の中を見回って来る」と言うと、無理矢理ついてきたのだ。どうもナファンにアルトの護衛を言いつかったらしいが、丸腰の彼には特に護衛のつもりなど無いようだ。とはいえ、腰に剣を帯びていたのでは宮殿の中を歩き回ることなどできないのだが。
「過去の実績?」
「ああ、そう……」
 諦めたようにそう言って、クロトゥラはひょいと近くの生け垣を覗き込んだ。鍛練に励む声は聞こえるが、その主の姿はどこにも見えない。どの家もライバル達に手の内を読まれまいと、奥まった庭で何やら準備をしているようなのだ。意気込みが見えるのは良いことだが、明日の結果に全く予想がつかないのも確かである。とはいえ口実のために急遽企画された闘技会だ。勝敗など、たいした意味はないのだが。
 そう考えて、アルトは大きくあくびをする。そんな様子だったから、クロトゥラが何げなく続けた言葉には驚いた。
「俺も出てみたかったなあ。闘技会」
 アルトは思わずクロトゥラの顔を覗き込んだが、相手にしてみればその反応の方が意外だったようだ。きょとんとした表情で、小首を傾げてみせる。
「だって、堂々とあの闘技場で戦えるしさ。一度で良いから、ああいう所で腕試ししてみたかったんだ」
「一人で抜け駆けしたら、シロフォノに怨まれるんじゃないか?」
 苦笑しながらアルトが言うと、クロトゥラはたった今その考えに思い当たったといった素振りで、「ああ、確かに」と相槌を打つ。二人はシロフォノの反応をあれこれ想像しながら笑って、しかしどちらが先ということもなく、やがて黙々と歩き始める。
 夕暮れに染まるマラキア宮。辺りには穏やかな風が吹き、くすくすと笑うようにアルトの頬を撫ぜていく。いつの間にやら、二人は闘技場の近くまで歩いてきていた。
「でも、楽しいだろうな」
 クロトゥラが、ぽつりと一言呟いた。それはあまりに小さな呟きで、隣を歩いていたアルトですら聞き返すほどだった。しかし一方で問い返されたクロトゥラは視線を逸らし、それでも今度ははっきりとこう言ってみせる。
「勝ち上がれば、アルトの直属だろ? そんなことになったら、楽しいかもって思ったんだ」
「……それは、本気で言ってるのか?」
 アルトは呆れ半分でそう言ったが、クロトゥラはどうやら本気らしい素振りで頷くと、「たまにちょっと、冷や冷やしそうだけどな」と付け足した。アルトは返す言葉が浮かばないまま口を閉ざして、視線を泳がせる。
 円形になった闘技場の周りには、堅牢な壁に沿って道が敷かれていた。その左右にはまだ若い木が植えられており、足下の草は短く均等に刈ってある。アルトが答えないままでいると、クロトゥラはしばらくしてから冗談めかせてこう言った。
「なんだよ、その昼寝からたたき起こされたような顔は?」
 いつも通りの表情だ。しかしアルトは浅く俯いて、闘技場の脇で足を止める。
「だって、どうしてそう思うのかが全然……」
「さっきのデュオ殿達との話、聞いてて思ったんだ」
 アルトの言葉を遮るように、クロトゥラが続ける。その目はやや上を向いて、傍らの梢を見上げていた。
「昔がどうでも、変わらないってやつ。他人事だったけど、なんか俺まで嬉しかった。ほんと、なんでだか」
 そう言ってクロトゥラは、にっと笑ってアルトの方へと視線を移した。その表情は何故だか寂しげで、しかし辺りに柔らかな風を舞わせている。
 シロフォノといいクロトゥラといい、どうしてこう困らせることを言うのだろう。アルトは目を伏せたまま、返す言葉もなく黙り込んでいた。
 嬉しいには違いない。
(でも、買いかぶりだ)
 クロトゥラ達がいなければ、マラキアまで戻ることなどできなかった。
 デュオがいなければ、アルトにはマラキアの使用人たちを秘密裏に動かすことなどできなかったろうし、ナファンがいなければ、こんなに手際よく闘技会を催すことはできなかっただろう。そんなアルトに、一体、何を期待するというのだ。
 アルトが口を閉ざしてしまったのを見て、ゆるゆると歩いていたクロトゥラも足を止めた。それから少し困ったような苦笑を浮かべて、「なあ、アルト」と呼びかける。アルトは迷った後で、顔だけを少し上げた。先の方に立つクロトゥラは前方へと体を向けたまま、肩越しに浅く振り返っている。
 その顔は夕闇と梢の陰で明暗に分けられて、表情を読み取ることはできなかった。小さく苦笑するような声が聞こえて、かろうじて相手が笑んでいるのだと知れる。しかし、それだけだ。
 すっと一瞬、風が止んだ。精霊達が遠慮をするかのように、さっと辺りへ散ったのだ。そんな中でクロトゥラが、迷いの無い様子で口を開く。
「なあ、アルト。もしも俺が……本当は」
 アルトが眉をしかめたのと、それはほぼ同時のことだった。
「そ、そのような事は存じ上げません。放して下さい!」
 闘技場の入り口の方から、女性の切羽詰まった声が聞こえてくる。クロトゥラも一旦口をつぐみ、二人は互いに顔を見合わせた。
 近い。二人は頷き会って、声の方へと忍び寄る。
「知らないわけがあるか。おまえの父親はここの清掃担当だろう。一つや二つ、知っているはずだ」
「本当です、本当に知らないんです!」
 茂みの陰から覗き込むと、闘技場の入り口に三つの人影があった。一人は使用人らしい服装をした少女、残りはそれなりの身なりをした男だ。男たちについては背中しか見ることができなかったが、どうやらいずれもマラキア宮の昔からの住人である。アルトは護衛らしき人物に少女の腕を掴ませ、高みの見物をしている男の正体に思い当たって、小さく舌打ちをした。
「フェイサル、あいつ……!」
「あの女、送別会の時に歌ってた奴じゃないか?」
 クロトゥラが言ったのを聞いて、アルトも茂みから身を乗り出し、確認する。
 送別会の終わりに演奏した、『風化した物語』。頬を赤らめながらも歌いきり、別れに涙をこぼした少女のことは、アルトの記憶にも鮮やかだ。男の陰に隠れていた顔がちらりと見えて、アルトは一度小さく頷いた。確かにそこにいるのは、リフラという名前の給仕に違いない。
 そうこうするうちにもフェイサルは往生際悪く何かを言い募り、リフラは困惑した様子ながらも首を横に振っている。しかし不意に腕を強く引かれ、「きゃっ」と小さな叫び声をあげた。
「……っ、止めてくる!」
 アルトは勢い込んでそう言ったが、即座に襟首を掴まれ、つんのめる。首が絞まって不満げに振り返ったが、掴んだ相手はお構いなしだ。
「馬鹿。今出て行って、折角の作戦を不意にする気か」
「けど」
 言ったが、アルトにそれ以上文句を口にする時間は無かった。クロトゥラが襟から手を放し、さっさと茂みを出て行ってしまったからだ。
「リフラさん!」
 少々間延びした、ごくごく普通の呼び声だった。しかし呼ばれた当人を始めフェイサル、護衛の男もクロトゥラの方へ視線を移し、うさん臭げに彼を見ている。護衛の男がリフラの腕を掴む手を緩めたのを見て、クロトゥラは駆け寄るでもなく、いつものスピードで彼らに歩み寄っていった。
「こんな所で何してるんですか。さっき、他の給仕さん達が探してましたよ」
「えっ……?」
 リフラは困惑したような声をあげたが、クロトゥラの顔を見て言葉を切った。アルトのいるところからではよく見えないが、クロトゥラが何か合図をしたか、リフラも送別会で見た顔だと思い出したのかもしれない。
 ともかくクロトゥラは無頓着に歩いていき、三人のすぐ前で足を止めた。
「おまえ、一体どこの人間だ?」
「あっ。御機嫌好う、フェイサル様。それに護衛殿。――で、当たってますよね? 俺、新入りなんでちょっと自信がなくて」
 そう言うと、クロトゥラは帽子をとってお辞儀する。とてもではないがスクートゥムの近衛騎士とは思えない、随分と粗野なお辞儀の仕方である。彼はその上お辞儀をしたままで顔だけを上げると、続けてこう言いきった。
「女性一人に二人掛かりで、紳士のマナーに反するんでは?」
「この、無礼者が……!」
 護衛らしき男が言ったが、フェイサルは意外にも動じた様子がない。いや、どうやら動じていないかのように振る舞っているだけのようだ。その証拠に、もともと大きな鼻の穴がヒクヒクと動き、口元がいくらか歪んでいる。しかし今にも殴り掛かろうとした護衛を手で制して、「新入り、謝って済むと思うなよ」と口だけで脅かしてみせた。
「おまえ、私の父が誰か、知っての発言だろうな?」
「確か、ソーリヌイ侯であられたかと。偉いんですよね、お父上は」
 クロトゥラがはっきりと言って体を起こすと、今度こそフェイサルの表情に青筋がたった。茂みの陰でアルトが息を呑むのよりもはやく、フェイサルの右腕が動き、握られた拳がクロトゥラに向かう。
 一瞬の後、その拳がクロトゥラの腹に入っていた。
 それほどのスピードはなかったが、フェイサルも体格だけは良い方だ。クロトゥラが腰を折って咳き込むと、フェイサルは満足そうに笑みを浮かべてみせる。
「新入り、短いマラキア生活だったな」
 言い残し、意気揚々と去っていく。もはやリフラのことは忘れてしまったのか、それとも憂さが晴れてすっきりしたのか、気にも止めていない様子だ。
 フェイサルとその護衛が完全に立ち去ったのを見届けると、アルトは即座に茂みを飛び出した。クロトゥラはまだ腹を抱えたまま大袈裟に咳き込んでおり、リフラが心配そうに声をかけている。
「クロトゥラ! 馬鹿、なんで避けなかったんだ」
「いやなに、なかなかに強烈なパンチで」
 苦しそうに言ってもう一度咳き込んでから、クロトゥラは顔を上げ、にやりと不敵に笑って見せた。その表情が、如実に事を物語っている。アルトは腰に手をやると、溜息をついた。
「無茶する奴だな。他にやりようは無かったのか? わざわざ殴られなくても」
「結果的には、一番手っ取り早く終わっただろ? 俺に策を要求しないでくれよ。そういうのはシロの担当なんだ」
 言ってから、クロトゥラがはたと口をつぐんで視線を移す。アルトもその視線の先を追って、理由を知った。
「あっ……あ、アーエールでんっ」
 口をぱくぱくさせながら叫びかけたリフラの口元に、二人で同時に手をあてる。結局一切合切を説明し終える頃には、陽は完全に落ちてしまっていた。

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