吟詠旅譚

風の謡 第二章 // 導きの炎、風の刹那

021 : The Road of Dawn

「――ルト……アルト!」
 名前を呼ぶ、声が聞こえる。アルトは朦朧とする意識の中を巡りながら、ようやくのことで目を開けた。
 頭に鈍い痛みがある。体を起こそうとすると、あちこちがズキズキと疼いた。
「夕日……」
 呟く。その言葉を聞いて、アルトのそばに座っていた人物が小さく笑う声がした。
「ばか、あれは朝日だよ。……けど、よかった。目が覚めて」
「クロトゥラ?」
「無理に起きようとしなくて、いいから。覚えてるか? 昨日の夜、気を失って落馬したんだ。見たところ大きな怪我は無さそうだけど……。視界、はっきりしてるか? 自分の本名、言ってみな」
「……。アーエール・ウェルヌス・ウェントゥス・ダ・ジャ・クラヴィーア」
「よし、意識ははっきりしてるみたいだな」
「人の名前を、そういう確認に使うなよ」
 雨は降っていない。さっきまでいた場所では、あんなに分厚い雲がかかっていたのに。
「朦朧としてちゃ、言えない名前だろ?」
 そう言って、クロトゥラが悪戯っぽく笑ってみせる。アルトは手を借りゆっくりと上体を起こすと、静かに辺りを見回した。
 広い草原の中にぽつぽつと思い出したように生えている、細い木の下だ。アルトはどうやら、その根を枕にして寝かされていたらしい。見るとあらかたの怪我は手当され、二頭の馬は木に繋いである。
 馬は二頭だ。アルトはそれを見て、思わず目を細めた。
「シロフォノは?」
 呟くように尋ねると、クロトゥラは表情を変えずに、ただ、いったん口を閉じる。それからアルトを見て、こう話した。
「まだ、合流してない。このままマラキアへ向かうつもりだ。きっと向こうで会える」
「居場所は知らせたのか? ほら、例の笛で」
「あんなのを使ったら、敵にまで居場所が知れるだろ」
 敵、とクロトゥラははっきり言った。アルトは思わず生唾を飲み込んだが、すぐになんとか立ち上がり、太陽に背を向ける。ウラガーノはマラキアの西にある。いまだ追いつかないシロフォノも、恐らくはその方向にいるはずだ。
――『僕』のことは、助けてくれないのにねえ!
 あの声が、耳の奥にこびりついて離れない。
「道中、あんまり事を起こしたくない。ともかく進まないと」
「駄目だ、それじゃ」
 胸騒ぎがして、アルトは短くそう言った。いまだに視界はふらふらとしたが、気さえしっかりと持てばどうにかなりそうだ。
 驚いたクロトゥラが後を追うよりはやく、アルトは馬の手綱を取り飛び乗った。馬の鼻面を西へ向けたのを見て、クロトゥラは怒鳴るように言う。
「話を聞いてなかったのか!」
「聞いたよ。昨日のやつらに鉢合わせないように、だろ」
 クロトゥラが言うのももっともだ。それでもアルトは飄々と言い返すと、目を閉じ、耳を澄ませた。
――君は、何者なんだよ?
 ツキの言葉が、再びどこかから聞こえてくる。
 あの時のアルトは意地になって言い返したが、あれではどうにも、完全解答にはまだ遠かったように思う。それならば、ツキが望んでいた本当の答えは何だったのか。
――ウラガーノでは、気づいてたじゃないか。
 そうだ。今になってはよくわかる。目隠しをして、口を閉ざしたあの儀式の最中、アルトには見るべきものが見えていた。
 アルトは今までも、気づかぬまま、彼らの言葉を聞いていたのだ。
(答えてくれ。今、どこにいる?)
 耳をすます。
 風が運ぶ。
 一体何を?
 風が運ぶ。
 いくつもの、言葉を。
 思いを。心を。
 風が、運ぶ。
(『風化した物語』のメロディを聞いた時と、同じだ)
 草原を駆ける風が、アルトの頬を撫でていく。
 そうだ。あの時も、――アルトはこの声を聞いていたのだ。
「……あっちだ」
 アルトがポツリと呟くと、仕方なしに馬に飛び乗ったクロトゥラが怪訝な顔をする。アルトは「近いぞ」とだけ言って、馬の腹を蹴った。何がしかの神秘めいた声が、今、アルトを導いている。アルトはそれに逆らわなかった。そこに求める物があると、わかっていたからだ。
 その時アルトは、自分の瞳からぽろりと涙がこぼれたことに気づいていた。ぽろぽろと涙がこぼれて、止まらない。後ろをついてくるクロトゥラに気づかれないようにそれを袖で拭うと、アルトは空へと視線をやった。
(どうして、涙なんか……)
 風が言葉を、心を運ぶ。しかしそのどれに耳を傾けても、涙の理由はわからなかった。
――『僕』のことは、助けてくれないのにねえ!
 奥歯を噛み締めて、手綱を強く握り直す。
 そうしても、現状は何も変わらないのだということくらい、アルトにもわかりきっていた。

 少し行くと、なだらかな丘陵地帯があった。昨晩ここを通った時には暗くて気づかなかったが、大昔にはこの辺りに村があったのだろう。今では土くれでしかないいくつかの壁が、隣接してあちこちに並び立っている。アルトはするりと馬を降りると、その壁の間を走っていった。後ろでクロトゥラが何か言っていたが、構わずあちこちを見回し、片っ端から壁の裏側を覗き込む。
「シロフォノ、いるんだろ? 返事をしてくれ」
 ここにいるのは確かなはずだ。たいして広い場所でもない。これだけの声を出せば、相手にも聞こえそうなものだが――
 一度口を閉じ、耳を澄ませてみる。そこには誰の声もなかったが、代わりに小さな音がした。アルトが音のした方向を振り返ると、どうやら木の枝が風に遊ばれ、転がってきた音のようだった。
 目をそらしかけ、しかしすぐに音の方へ向き直る。それがただの枝でなく、折れた矢の端であることに気づいたからだ。
 迷わずそこへ駆けよって、すぐ隣の壁を覗き込む。
 アルトはまず、微笑んだ。壁にもたれてこちらを見上げた人物と、目があった。
 相手は苦笑して、アルトのことを見上げていた。別れる時にはついていなかった赤黒い染みが、服のあちこちにはねている。特に肩口はひどく、傷の深さが窺えた。
 その様子を見ながら、アルトは奥歯を噛み締める。一つには、傷を負わせてしまったことに対しての申し訳なさがそうさせたのだ。しかしアルトは、構わず言った。もう一つの理由が、申し訳なさを上回ったからである。
「どうして、返事をしなかったんだ」
 聞いて、シロフォノがにこりと笑った。傷口が痛むのだろう、いくらか苦い色が見え隠れはするが、いつもと同じ笑い顔だ。
「だって、隠れてたんだもん」
「俺から?」
「そう。汗でぐしょぐしょになっちゃったから、ここの井戸を借りてから追いかけようと思ってたんだ。なのに、戻って来ちゃうんだもんな」
 「怪我は、それほど酷いものじゃないんだ」と続けながら、シロフォノがふと、笑うのをやめた。黙ったまま自分を見つめるアルトが、何を言わんとしているのか察したからだろう。
「その返り血が、俺にはショックだろうと思ったから?」
 呟くように、アルトが尋ねる。
「……うん」
 不要な飾りのない返事。アルトは目を細めてシロフォノに背を向けると、クロトゥラを呼んだ。とにかく、手当はしなくては。
――そうすれば、君は気ままな風でいられる。
 いつの間にやら再び涙が込み上げてきたのを感じて、アルトは奥歯を噛み締めた。
 ついさきほどまで大地の輪郭を染め上げていた太陽は、いつの間にやら完全に顔を覗かせている。アルトはそれをじっと見据えて、言った。
「なめるなよ」
「ごめん」
 アルトの呟きに、シロフォノがすぐにそう答える。それでもアルトが答えないでいると、シロフォノが一度笑って、声のトーンを落とすのがわかった。
「ごめん。……ありがと」

「国内の人間じゃ、ない?」
 アルトが頓狂な声を上げて尋ね返すと、神妙な顔をしてシロフォノが頷いた。
 三人は今、例の廃墟からは少し離れた木立の下にいた。シロフォノの傷の手当をしながら、今後の動向について一旦話し合うことにしたのだ。シロフォノは右肩に受けた矢傷の他に、いくつかの小さなかすり傷を負っていたが、簡単に応急処置を終えると「もう大丈夫」と言って軽く笑った。
「あの時襲ってきた敵は、大体五人位。僕は撹乱と時間稼ぎのために突っ込んでいっただけで、全員と切り結んだわけじゃないから正確なことはわからないけどね」
「五人も……」
「手口と気配は、その手のプロらしかったな。偶然あの場に居合わせたわけじゃないだろうし、マラキアからずっと、隙を狙って尾行されてたって考えた方が良さそうだ。それで? 国外の可能性を考えるなら、何か心当たりがあったんだろ?」
 クロトゥラがそう言って、手にもっていた濡れ布をシロフォノへ放った。シロフォノはそれを左手で受けて、気持ち良さそうに顔を拭う。
「まずは、訛り。今ではどこの国でも大抵エフェメリア語を話してるけど、やっぱりそれぞれの訛りはなかなか消えないからね。ちらっと聞いただけだから、それほど有力な情報でもないけど。――それと彼らは、どうも馬に乗っていたわけじゃないみたいなんだ。気配はあったのに、おかしなくらい足音が聞こえなかった。それで、昔聞いた噂話を思い出したわけだ」
「……騎獣ムファサナ・トリアか!」
 突然興奮気味にクロトゥラがそう言ったので、アルトはうっかり手に持っていた布を取り落とす。持ち上げて軽く払ったが、土埃がうまく取れない。井戸から汲んだ水に浸すと、じゃぶじゃぶと洗ってそれを絞った。
「確かに、それなら……。あれはレシスタルビアの辺境にしか、住んでないんだよな?」
「そゆこと。これもまあ、噂話で相手の事を推測したところでどこまであてになるかは、わからないけどね」
 シロフォノとクロトゥラが熱を上げて話し始めると、アルトは完全に会話から取り残されてしまった。騎獣のことはよくわからないが、ともかく昨夜の刺客はクラヴィーア国外の人間である可能性が高いらしい。
 国外の人間に命を狙われるような事があっただろうか。アルトもしばらく考えてみたが、出てくる答えは一つだけだ。
「心当たり……」
 アルトがぽつりと呟くと、二人が同時に振り返る。意図してしたことではなかったためにアルトは少々慌てたが、「ごめん」と短く謝ってから続けた。
「心当たりが多くてわからないな、と思って……。王族ってだけで、狙われることは多いらしいから」
 実感からの言葉ではない。そう言われて育ってきたから、恐らくそうだろうと思っての発言だった。しかし双子は頷いて、「確かに」とにべもない相槌を打つ。
「国外の人間かもしれないって言ったって、あいつらプロらしかったからな。国内の誰かが雇ってるって可能性も十分にあるし」
「そうそう。世の中、色んな思想の人がいるからね。アルト、よく気をつけるんだよ」
 シロフォノがそう言って、怪我を受けなかった左手でアルトの肩をたたく。アルトはそれを無下に払いながら、溜息をついた。
「おまえって、なんでそんなに軽いんだ」
「もっと重々しく言った方がよかった?」
「いや。……おかげで、暗くならずに済みそうだ」
 アルトがもう一度溜息をつく隣で、クロトゥラが苦笑しながら立ち上がる。
「ともかく、だ。ここであれこれ考えても、仕方ないって事だよな。――なら、当初の目的を果たしに行くべきじゃないか? 可能な限り、刺客とかちあうなんて事はもう避けたいし」
 その言葉に頷いて、他の二人も立ち上がる。確かに、その通りだ。昨晩の刺客のことは、どれだけ考えても想像の域を脱することはないだろう。ならば今はマラキアへ急ぎ、本来の予定通りに注意を呼びかけるのが先決だ。
 シロフォノが痛い痛いと大騒ぎしながら上着を羽織り直す間、アルトとクロトゥラとは馬の準備をすることになった。準備とは言ってもただ馬を集めるだけのことだったのだが、アルトが少し離れたところに繋がれていたシロフォノの馬の手綱を解いていると、ふと、クロトゥラが言った。
「あいつはたまにネジが飛んでるけど、あれだ。諦めがつけば、聞き流せるようになるから」
 何の話かわからずにアルトが瞬きすると、「ほら、シロフォノが」と加えて言う。アルトは笑って、言った。
「それ、何のフォローにもなってないぞ」
「うん、フォローする気もないからな」
 断言したが、その表情が笑んでいる。
――アルトは、お兄さんたちと仲良くなりたいんだね。
 昨晩、シロフォノが何ということもなく言った言葉が思い出される。アルトは改めてクロトゥラの方へ視線をやり、一度、浅く頷いた。
(とてもじゃないけど、この二人みたいにはなれそうにないな)
 そうしてアルトは気づくのだった。
 もはや二人の兄の顔すら、肖像画そのままの表情しか思い出せないのだということに。

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