吟詠旅譚

風の謡 第二章 // 導きの炎、風の刹那

022 : A blaze and my hometown

 駆けては休み、進んでは距離と方向とを確認した。アルトも休む時は休み、駆ける時には駆けるというペースに慣れてきていたし、シロフォノは怪我をした右手をかばって左手のみで馬を繰っていたが、それでも速度は落とさない。
 三人がそうして過ごすうちに、だんだんと風が見知ったものになっていく。アルトは心中それを喜んだが、他の二人に言うことはしなかった。
 風が歌い、舞っている。アルトにはそれがわかるのだった。
 はっきりとした自覚は、シロフォノを探して耳を澄ませた時に訪れた。アルトの問いに、風が答える。アルトを見つけて、風が語りかける。今まで気づかなかったことを不思議に思うくらい、それは自然な営みだった。
「そろそろ、マラキアが見えてくるはずだ」
 先頭を駆けていたクロトゥラが、スピードを落としてそう声をかける。アルトもそれに頷き、馬を駆らせて、小高い丘を登って行く。
(雨でも降れば、よかったのに)
 そうすれば、あの恐ろしい炎が現実のものになったしても、少しは勢いを殺がれただろうに。
 丘の上に立ち、アルトは馬の歩みを止めた。そうして一言、ぽつりと呟く。
「マラキアだ」
 城壁に囲まれた宮殿、闘技場、菜園、噴水。遠目に見る限り、全てが数日前に見たままだ。
(当然か。俺がここを発ったのは、本当に最近のことなんだから)
 それなのに、今では全てが懐かしい。マラキアへ帰ってきたのだと思うと、こうして馬へ跨がっている自分に違和感を覚えるほどだ。
「ここから下れば、すぐに着く。少なくとも今はまだ、炎の影は無いみたいだな」
「アルトが言った日付は、明日だったよね。どうする、このまま正門へまわる?」
 尋ねられて、アルトは首を横へ振った。確かにこのまま正門へ行き、事情を話すのが一番手っ取り早いだろう。話をしても始めは信じてもらえないかもしれないが、ナファン辺りに話が通れば、うまいようにしてくれるはずだ。しかし――
「正門はだめだ。……嫌な感じがする」
「嫌な感じって」
 シロフォノが茶化すように言ったが、クロトゥラはすぐに「なら、裏から回るか」と同意した。アルトはその様子にかえって驚いたが、その様子を見たクロトゥラは、何ということもなく溜息をつく。
「詳しいことは知らないけど、ひとまずおまえの直感みたいなやつ、信じるよ。おかげでシロとも合流できたしな。……それより、マラキアの構造についてはおまえの方が詳しいだろ。どこから入っていったらいいんだ?」
 アルトは瞬きしたが、薄く笑うと、すぐにマラキア宮の方へと視線をやった。
 マラキア宮の城壁の外に、城下町はない。アルトにとって、草原の中へ取り残されたかのように佇むマラキアの外の世界は未知そのものだった。それでも、城壁をよじ登って越えたことくらいなら何度かある。アルトはざっと辺りを見回すと、敷地内に設けられた狩猟場、森の方へと視線をやった。
「あの辺りの城壁が一番高いけど、馬を隠す良い場所が沢山ある。森を抜ければ馬番の小屋があるから、まずはデュオに事情を話してみよう。そうしたら、ナファンにもすぐに話を通してくれるだろうし」
「わかった。……けど、デュオって馬番殿の事だよな? 大丈夫なのか?」
「大丈夫って、何が?」
「クロちゃんが言ってるのは、身分差とかの事でしょ。馬番の方から執事に話しをしに行くなんて、普通に考えたら結構大変そうだよ?」
 確かに、それはそうなのだろう。シロフォノに言われて、アルトは苦笑した。
 それは、自然と漏れた苦笑だった。
――お考えください! あの男が、あなたさま、そしてあの方に何をしたのか――
 マラキアを発ったあの日の、ナファンの言葉。今でも耳の奥に、はっきりとした音で残っている。
「それは、大丈夫」
 短くそれだけ言って、アルトは二人の返事を待たずに馬を駆った。
 今のアルトにはそれ以上の言葉を返すことが、苦痛だったのだ。
(何を怖じけづいてるんだ)
――知らないままで良いんだよ。
(全てを知るために、ここへ帰って来たんだから)
――そうすれば、君は気ままな風でいられる。
 心の中で何度も何度も繰り返された言葉を振り払うように、一度大きく首を振る。そうする間にも、マラキアの城壁は目の前へと迫って来ていた。

 暖かい光の降る、マラキアの春。草花が照り輝くのを見ながら、アルトは毎年、自分の誕生日を指折り数えて待っていた。貴族達の訪れる誕生日会は形式ばかりで疲れたが、その前後には毎年、使用人達による小さなプレゼントがアルトを待ってくれていたからだ。
 王宮では出されないような、切ったリンゴがそのままのったパイ、名もない花の冠、誰にも秘密の、菜園探検への招待――。
 アルトはマラキアの春が好きだった。
 それは彼の小さな世界で、一番に輝く宝物だった。

 普段ならば、眠気を誘う昼下がり。アルト達三人は木陰に馬を繋いで、城壁をよじ登っていた。狩猟場近くの城壁は確かに高かったが、アルトが城壁の崩れかけている箇所を把握していたことと、近衛の二人がやけに手慣れた様子で城壁越えの手引きをしたことで、三人がマラキアの敷地内へ侵入するのに大した手間はかからなかった。
 アルトがクロトゥラの組んだ両手に足をかけながら、「慣れてないか?」と尋ねると、彼は笑ってこう言った。
「こういうことができなくちゃ、送別会の飾り付けは手伝えなかったわけだ」
 狩猟場にあたる森の中は静まり返っていて、人影はどこにも見当たらない。それでもアルトは、出来る限り人には出くわさないようにと道を選んで歩いていった。
 こんなに気持ちの良い昼下がりだというのに、木のよく茂った森は薄暗い。それでも段々と木々の間隔がまばらになり、木漏れ日のあたる範囲が広くなるところまで来ると、アルトは一度歩む速度をゆるめた。そうして胸元のペンダントに触れて、一度、何に対してでもなく小さく頷く。
(大丈夫)
 確信ではない。アルト自身も気づいていた。
 確認しただけだ。そして同時に、自分に言い聞かせるための言葉でもある。
 アルトの心情を知ってか知らずか、先を歩いていたシロフォノがふと振り返り、言った。
「僕とクロちゃんとで、先に馬小屋を覗いて来るよ。大丈夫だとは思うけど、知り合いの貴族に出くわしたりしちゃまずいでしょ?」
 そう言いながら、近衛のマントは既に畳んで草むらに隠している。アルトは礼を言うと、二人が進んで行くのを黙って見送った。
 そうして唐突に、振り返る。声が聞こえたからだ。
 誰の声かはわからない。アルトは持っていた荷物を草むらへ置くと、小さく尋ねた。
「誰だ」
 答えはない。しかし同時に風が吹いて、梢を強く打ち鳴らして行く。その中にちらりと人影を見たように感じて、アルトはそっとその後を追った。
 不思議と不安は感じなかった。会うべき誰かがそこにいる。それは何にも勝る『確信』だ。
 しばらく歩いて行くと、アルトにも馴染みのない場所へ出た。馬を乗り回すには足場が悪く、すぐ下に水脈があるために危険だからと言われ、今まであまり立ち入らなかった場所だ。
 アルトはあたりを見回したが、それでも人影は見当たらない。その代わりに崩れた石垣のようなものを見つけて、アルトはそれに歩み寄る。
 随分と分厚い石垣だ。崩されてからいくらか年月が経ったように見受けられるが、意図的に崩された以外には損傷の理由が浮かばないほどの頑強な作りである。
(まるで、城壁みたいだな)
 もしかすると、マラキアの昔の城壁跡だろうか。
 崩れた石垣は点々と残っており、やはりマラキアを囲むように続いている。
 少し先に大きな石垣の残骸を見つけて、アルトは思わず駆け寄った。使われている石に、おかしな変色の跡を見たからだ。
 白いどっしりとした石のところどころに、痛々しくさえ思える黒い染み。アルトは間近でそれを見て、思わず息をのんだ。
(焼け跡だ……!)
 あちこちに、黒く煤けた跡がある。かなりの熱に接したのだろう、しきつめられた石と石の間には亀裂が入り、加工された部分にはひびが入っている。
 アルトがじっとそれに見入っていると、再び背後から声がした。
「おかえり」
 先程とは違い、明確な声だ。しかしやはり聞き覚えのあるものではない。アルトが振り返ると、相手はにこりと笑ってみせる。
 そこに立っていたのは、一人の男だった。すらりとした長身に柔らかく長い金の髪を垂らし、アルトが聖地ウラガーノで着たのにも似た白い服を体にまとっている。
 アルトが黙ったままでいると、男は静かにこう言った。
「ようやく、力を自覚したのだね」
 その声は落ち着きはらっていて、その実不思議と軽やかだ。アルトは相手をじっと見据えて、尋ねる。
「あなたは?」
 やっとのことで尋ねたというのに、答えはただ、沈黙だ。相手は柔らかな笑みを緩めずに、一歩アルトに歩み寄る。
「おまえのその力は、いつ災厄を呼ぶともわからないもの。おまえはそれを、友人を探すために使ったね」
 優しげなのに有無を言わさぬその言葉に、アルトは唾を飲み込み、一度頷いた。男はそれを見て苦笑するように息をついて、こう話す。
「その程度なら構わない。けれど、肝に銘じなさい。おまえはその力を、自分のためだけに使わなければならない。誰のために使ってもいけない。無闇に使ってもいけない。その力はおまえが持って生まれたものだ。翼を持つ鳥には空を舞う権利があるように、おまえにはその力を使う権利がある。――だが鳥は、その翼を他の者に貸し与えることはしないだろう」
 男の口調は、始終静寂に満ちていた。
 諭すような言葉の数々。それらは自然と相手の動きを奪い、耳の奥へと浸透していく。アルトは神聖さの裏に隠された何かを感じて、そっと肩を震わせた。
「もう一度言おう。おまえはその力を、自分のためだけに使わなければならない。それがおまえの為でもある」
 目の奥に光る力が、常にアルトの胸へと鋭い刃を押し当てている。
 強い力を持った眼光、そして声。アルトはその目の中にちらついたものを見て、息を飲んだ。
 そこに映っていたのは、静かな炎だった。
 鳥肌が立つ。
 耳の奥に、あの音が還ってくる。
 炎に燃えるマラキア宮。あの幻影の中で見た風景が、再び脳裏に蘇るかのようだ。
「それは……例えばこの力を使うことで助けられる命が目の前にあったとしても、見殺しにしろということなのか」
「そうだ。過ぎた力を、人は必ず畏れるだろう。お前が誰かのために力を使ったとして、相手はお前に感謝などしない。強い力は諸刃の剣だ。使い方を誤れば、お前自身が滅ぼされる」
 「これは警告だ」と言って、男は言葉を締めた。
 沈黙の中を、春の風が通りすぎていく。男はその景色の中にじっと佇んで、少しも動こうとはしない。アルトはそんな様子を見ながらも、耳の奥に響く音に聞き入っていた。
「言いたいことはわかった」
 アルトは言った。
「だけど、あなたの警告を活かすことは出来ないと思う。――俺には、自分のためとか他人のためとか、上手く区別が出来ないんだ。俺はマラキアを助けたい。マラキアも、そこに住んでいる人々も大切だから。この場合、俺は自分のためにマラキアを助けようとしているのか、マラキアの人々のためにそうするのか、わからないじゃないか」
 それは素直な心情だった。アルトは言うだけ言って男を見つめ返したが、男がくすりと笑ったのを見ていささか狼狽える。おかしいことなど何も言っていないはずなのに、何故笑われるのだろうと驚いたからだ。
「それは残念だ」
 頬に笑みを浮かべたまま、男がまずはそう言った。その瞳には先ほどとは違い、偽りではない優しさが浮かんでいる。
「だが、良い答えだ。ならばお前は、自らの意思で力を使うといい。お前が迷わなければ、力はそれに応えるだろう。――私は、それが災いを呼ぶことのないように祈るとしよう」
 風が吹き、梢が鳴る。言葉が終わる頃には、男の姿は見えなくなっていた。
――強い力は諸刃の剣だ。使い方を誤れば、お前自身が滅ぼされる。
 その言葉を聞いたとき、アルトの心は一瞬、揺らいだ。心の中に灯る何かが、一瞬、昏く疼いたのだ。それが何を示しているのか、今のアルトにはわからない。
 アルトはしばらくの間、男の消えた辺りを見ていた。しかしふと聞こえた風の声に耳を傾けると、崩れ落ちた城壁に沿って歩き始める。
 次第に、小さな水の音が聞こえてきた。下の水脈から溢れた水が、どこかから湧き出ているのだろうか。
 進んだ先に、いくらか拓けた場所がある。そこに城壁の跡はなかったが、茂る草地の間に細い道のようなものが見受けられた。長年人に踏み固められていたとみえる、自然の道だ。もしかするとあの崩れた城壁が使われていた頃には、ここにも通路があったのかもしれない。
 そこに一つ、人影があった。相手は道の傍らに座り込み、アルトに気づいた様子はない。
 アルトは意を決してその人影に歩み寄ると、静かな声でこう言った。
「――ただいま。デュオ」

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