吟詠旅譚

風の謡 第二章 // 導きの炎、風の刹那

020 : Sound Lighter -2-

「また会えたね、高原の風」
 そこに立っていたのは、どこか寂しげな顔をした赤い髪の少年だった。額には相変わらずの不思議な札を貼っており、ウラガーノで会った、あの時のままの姿をしている。何故ここにいるのかと尋ねるよりもはやく、アルトは彼の所へ駆け寄っていた。
「君も、ツキに会ったんだね。彼を追いかけてきたらここに着いたんだ。まさか君に会えるとは、思ってなかったよ」
「君も……っていうことは、お前もツキに会ったのか?」
「そうさ。僕とツキは、友達だからね」
 そう言って、目の前の夕日がにこりと笑う。その様子に何か違和感を覚えて、アルトは些か首を傾げた。
 曇りのない笑顔。風に吹かれて、赤い髪がふわりとなびく。彼が、アルトの知る夕日であることは確かだった。それでも何故か、違和感が拭えない。
「行こう」
 アルトの手を取って、夕日が言った。
「行くって、どこへ」
「高原の風が、おもいっきりよく吹ける場所へさ」
 アルトの腕を掴んだまま、夕日が小さく駆けだした。湿った雲がついに耐えきれなくなったようで、しとしとと細く冷たい雨を降らせ始める。それでも夕日は、お構いなしだ。
 霧に近い雨の中を、二人はしばらく駆けていた。そのうち肩で息をしながら、アルトの前を走る夕日が言う。
「僕、知ってるよ。高原の風は、もっと自由に吹くべきなんだ」
 前を向いて走っている夕日の表情は、アルトにはうかがい知ることが出来ない。
 アルトの目の前に、常に夕日の頭が見える。同じような身長。同じような歩幅。しかし夕日の背中にはどこか影があり、孤独感を背負っている。
(影があると言ったのは、俺だけど)
 それとはまた、少し違う。
 ――僕にはどこか苦しいな。僕に影が見えるというの、少し心当たりがあるから……
 アルトはその事を口に出そうとして、やめた。夕日は、そう言われることを嫌がるかもしれない。アルトは辺りを見回して、それから呟くように、言った。
「夕日、……ごめん。おまえが言うような場所に、行ってみたいとは思う。けど俺、戻らなきゃ。友達が待ってるんだ。それも一人は、俺を守るためにはぐれて……。はやく探しに行かなくちゃ。だから、ここの出口を教えてほしいんだ」
 言い切るころには、息が切れていた。たいした距離を走ったわけでもないのに、今のアルトにはそれを言うだけでも精一杯だったのだ。
 アルトの腕をつかむ、夕日の手に力が入る。アルトは驚いて顔をしかめたが、夕日は気にする様子もない。それでもゆるゆると足だけは止めて、ポツリと言った。
「もういいんだよ、高原の風」
 相変わらず視線は前を向いていて、アルトへ振り返ろうとはしない。
 すっかり濡れた赤い髪から、ぽつりと雨の滴が落ちていく。それがまるで涙のように思えて、アルトは思わず口をつぐんだ。
「君は風なんだもの。本当なら、どんな重荷も背負うべきじゃないんだ。ただ気ままに、駆けているべきなんだよ」
 感情の抑揚のない声。アルトはすっと背筋が冷えたのを感じて、掴まれた腕を反射的に引いた。それでも腕が離れない。そうしているうちに、夕日の声にはだんだんと熱がこもっていく。
「故郷のことも、友達のことも、もう放っておけばいいじゃない。僕は、それで許される場所を知ってるよ。僕が君を、連れて行ってあげる。それが一番幸せさ。……ね、そう思わない?」
 夕日が笑って、アルトの方を振り返る。アルトは思わず息を呑んだ。
 振り返った二つの瞳は、アルトのことを見ていない。その瞳が見ているのは、どこか遠くの虚空だけだ。
 ――様々なものを見守る目。光も、闇も、じっと見据えることの出来る瞳。夕日のあの目が、アルトをマラキアへと駆り立てたのに。
「お前……一体、何者だ?」
 アルトの問を聞いて、夕日がくすりと笑う。
「何を言ってるの? さっき君が呼んだんじゃないか。僕のことを、『夕日』って」
 アルトの腕を掴む力が、更に強くなる。アルトはそれを渾身の力で振り払って、もう一度言った。
「お前は夕日じゃない。答えろ、何者だ!」
 夕日の笑顔が、もっとずっと色濃く表れた。否、それはもはや、笑顔といえるものではない。
「ひどいなあ。折角この姿をしてやって来たのに、そんなふうに言うなんて」
 ぱり、と乾いた音がする。額の札が破れた音だと、アルトにはすぐにわかった。出会った時から額に貼り付けてあったあの妙な札が、中心から縦にまっぷたつに割れて、ひらひらと地に落ちていく。今までは不思議と濡れた様子の無かったそれが、水たまりに触れると途端に濡れそぼった。
 アルトはそれを、じっと見ていた。動けなかったわけではない。アルトはその時声を殺して、どこかから聞こえてくる小さな叫びに耳を傾けていたのだ。
「夕日と、友達になりたかったんだろう?」
 目の前で、闇が膨張していく。小さな叫びが掻き消されていく。
「だったら、私とも友達になろう。ねえ、高原の風」
 気味の悪い猫なで声に、アルトは思わず息を呑んだ。腕に鳥肌がたつのがわかる。それと同時に、叫び声がぷつりと消えた。
 闇の中に浮かび出たのは、ぐりぐりとした大きな目玉のような光だった。二つの光の少し上に、小さな光が漂っている。それだけ見るとつぶれた三角形を示す点のようだが、闇に潜んだそれがそんなに可愛いものでないことは、アルトにも理解のあるところだ。
「魔女の、手先か?」
 アルトがやっとのことでそう言うと、相手は高く、不気味な声で笑ってみせる。アルトはそれを受けて、腰に提げた剣の柄に手をかけた。
 雨に濡れた手が、柄の上で滑る。それを見て嘲るように、影が言った。
「おやめ。そんなことをしても無駄だから」
「無駄かどうかなんて、わかるもんか。答えろ、一体何者だ?」
 耳に障る、甲高い笑い声。アルトは顔をしかめたが、剣を抜くことはしなかった。強がってはみたものの、抜いたところで実際に太刀打ちできるものかはわからなかったし、何より、アルトの心がそうすることを制したのだ。
(もしも今ここで、刃を向けてしまったら)
 少しの間だけ止んでいた叫び声が、再び辺りに響き始める。
 小さな小さな、ともすれば気づきもしないような声。しかしそれは、他の何にも勝る強さを持っている。
(刃を向けちゃいけない)
 思うがはやいかアルトはさっと背を向けて、すぐにその場から逃げ出した。このままでは太刀打ちのしようがない。できることは何かと言えば、この場から姿をくらますことだけだ。
 どうにか、このおかしな空間から抜け出すことができれば。そう考えたアルトの背後から、追うように声が聞こえてくる。
「行ってしまうの? 高原の風。友達を探しに行くのかい? それとも、故郷を救いに行くの?」
 耳を塞いでも聞こえてくる声。声は尚も言い募る。
「行ってしまうの? ――『僕』のことは、助けてくれないのにねえ!」
 叫びとも怒りともつかない声。アルトは思わず振り返った。その瞬間、ぐらりと体のバランスを崩す。ただの平原であったはずのその場所には、今、アルトを待ち構えるかのような大穴が口を開けていた。
 雨の音が、強く聞こえる。それほど降っているわけでもないのに、さああという涼しげな水の音だけが、アルトの脳裏を満たしていた。
「どうしてだ」
 小さく呟く。闇の中の、瞳が笑う。
「どうしてお前の内側から、夕日の叫び声が聞こえるんだ!」
「本当に知りたいと思っているの?」
 不意に、景色が歪んだ。かといって、目の前の影が何かを仕掛けたわけではないようだ。影自身も不満そうにその歪みを眺めている。アルト自身も既に半ばまで、大穴に呑まれかけていた。
(このままじゃ)
「『僕』の分まで背負うのが嫌なら、君は何も聞かなくて良いんだ。ここで下手に首をつっこんだら、君の負担がまた大きくなってしまうもんね」
 アルトは声なくかぶりを振る。
 そんなつもりではなかった。それなのにその言葉を否定できるような、上手い言葉が出てこない。
「知らないままで良いんだよ。――そうすれば、君は気ままな風でいられる」
 どこからともなく聞こえる声。アルトの体は大穴の中へ完全に落ちてしまって、最早影の姿も見えはしない。
 それでもアルトは声を張り上げた。精一杯の声で言えば、今からでも間に合うだろうか。
 どうかこの声が届くようにと、祈らずにはいられない。
「約束しただろ、何年先でもいいから、また会おうって! 待っててくれよ、諦めないでくれよ。なあ――夕日!」
 一瞬、世界が真っ暗になった。しかしそれも、ほんの一瞬のことだ。
 目を覚ましたアルトを迎えたのは、地平線を染める太陽だったからだ。

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