吟詠旅譚

風の謡 第二章 // 導きの炎、風の刹那

019 : Sound Lighter -1-

 暗闇だ。暗闇の中を落ちていく。
 アルトに今わかるのは、その実感だけだった。
(戻らなきゃ)
 もどらなくては、クロトゥラのところへ。戻って、シロフォノと合流をして、再びマラキアを目指すのだ。
 しかしアルトには、この暗闇から抜け出す方法も、そもそもこの落下を止める方法もわからなかった。明かりの見えない、深い闇。その中を、何かに掴まることも出来ずに落ちていく。
 ここがどこかはわからない。アルトは意識が途切れる前のことを思い出して、ぞっとしない思いで呟いた。
「まさか、死後の世界なんじゃ……」
 あの時、アルトは確かに馬から落ちたのだ。大怪我をした自覚はなかったが、打ち所が悪ければ死に至ることも十分にありうる。
 血の気の引くのがわかった。ここが本当に死後の世界であるのなら、血の気も何もないかも知れない。しかしこれが光のある場所であったなら、今、アルトの顔は確実に青く染まっていただろう。
 どこかに掴まることの出来るものはないだろうかと、アルトが無作為に手を伸ばしたその時だ。
「まっさか」
 唐突に声がして、アルトは驚き身をよじらせた。人の声だ。しかし声の主が見つかることも無ければ、落下が止まることもない。
「死後の世界だなんて、馬鹿馬鹿しい。――俺は助けてやらないよ。自力で抜け出してみせるんだね。ウラガーノでは、気づいていただろう。君が持った力は? まだ、白を切り通すわけ?」
 先程のものと同じ声。しかしまた、声だけだ。アルトは焦る気持ちを宥め、強い口調でこう言った。
「おまえ、一体何者だ? ここは一体どこなんだ。それに俺の力って、何のことだ」
 声がくすくすと笑っている。声から察するに、相手は恐らく少年だろう。しかし確実にわかるのはそれだけだ。
「尋ねるのもいいけど、考えてご覧。俺じゃなくて、君のことをさ。――君は、何者なんだよ?」
 言われてアルトは押し黙る。
 夢のような、おかしな空間。聞こえる声はわけのわからないものばかりで、アルトは目を白黒させる。
 それでも、これは単なる夢ではない。そう確信して、ごくりと唾を飲み込んだ。
(ここで黙ったら、おんなじだ)
 デュオと別れた、あの時と。
 真実を尋ねるために、マラキアを目指すと決めたのだ。尋ねる前に、躓いてなどいられない。アルトはそう考えて、声の主をじっと見据える。
 姿は見えない。どんなに目をこらしても、相手の姿は見えてこないのだ。しかし今のアルトには、相手がどこに立っているのか、そしてどんな表情をしているのかがわかっていた。
「俺はクラヴィーア国第三王子、アーエール・ウェルヌス・ウェントゥス・ダ・ジャ・クラヴィーアだ。成人の儀を終え、今は故郷、マラキアを助けるために馬を駆らせてる」
 湿った風に撫でられて、足元の草が強くなびいていく。
 アルトはいつの間にか、見知らぬ草原に立っていた。
 辺りは相変わらずの暗闇だが、闇の淵じみた暗さではない。薄明かりだ。歩く地面の感覚が柔らかく、空気はやけにじめついている。月や星は一切見えず、ともすれば雨さえ降ってきそうだ。
 目を閉じて、耳を澄ましてみる。遠くに鳥が鳴く声がした。アルトの知らない鳴き声だ。少なくともここは、マラキアの辺りではないらしい。
 アルトは一歩前へと踏み出して、更に続けた。目を閉じたまま、声の主の瞳をじっと覗き込む。深い紅の瞳。それがわかることに不思議はなかった。その時アルトには、全てを聞き取ることができていたからだ。
 泣き出しそうな雲の声、苛立たしげに辺りを包む、重たい空気の軋む音、そして目の前に佇む、相手の呼吸の音すらも。
「……生意気なことを言う割に、俺より年下だな。背だって、俺の方がちょっと高い。綺麗な白髪だから少なくとも、クラヴィーアの人間じゃないのは確かだ」
 声の主が、頷いた。それと同時に、アルトもぱっと目を開ける。すると途端に視界が開けて、周りの景色がよく見えるようになった。
 アルトがにやりと笑うと、相手はつまらなそうに口の先をとがらせる。そこに立っていたのは、白髪の少年だった。
「俺は答えたんだから、今度はおまえの番だよな。――名前は? ここは、一体なんなんだ?」
 少年は肩をすくめ、一度短く溜息をつく。ここへきてだんまりか、とアルトも溜息をつきかけたところで、少年がポツリと呟いた。
「さっきまで、馬の上で死にかけていたくせに、偉そうに」
「み、見てたのか……!」
 アルトは思わず赤面したが、少年は微塵も気に懸けた様子がない。「青くなったり赤くなったり、忙しいな」と呟くと、相変わらずの調子で続けた。
「……ま、いいか。ちゃんと力は使えたみたいだし。俺の名前はツキだよ、アルト。本名はノクスデリアス・イッルストリス。俺もアルトって呼ぶから、君もツキって呼んでくれ」
 アルトは驚いたが、すぐに頷いた。同意のつもりで頷いたのだが、それが届いたかどうかはわからない。ツキの姿が一瞬かげり、余裕そうな声もゆらりと遠のいたからだ。
「おまえ……一体どこから話しかけてるんだ?」
「君が感じた通り、ずうっと遠くからさ。ちょっとだけだけど、監視が外れたからね。会いに来てみたわけだ。まさか君が形も為していない闇の淵に沈みかかっているなんて、思いもしなかったけど」
 言わせておけば、言いたい放題だ。アルトは照れとも戸惑いとも判断に難い感情を咳払いで押し流して、真面目な顔で聞き直す。
「監視って……、囚われてでもいるってことか?」
「そんなとこかな。俺は今の生活、あんまり不満でもないんだけどさ」
(……始めからそんな気はしたけど、やっぱり変な奴だ)
 アルトは内心ひとりごちたが、しかしそれに対してツキがにやりと笑ったのを見て、少し慌てた。その表情が、まるでアルトの心を読んだかのように思えたからだ。
「君にとっては、全くの他人事っていうわけでもないんだよ。アルト。俺を捕らえているのは、藍の魔女。そして彼女が次に捕らえようとしているのが、君だ」
 ツキの口調がきつくなる。アルトは思わず固唾を飲んだが、状況を理解できたわけではなかった。
「俺を、捕らえる?」
「そう。俺達を『保護』したいそうだよ。全く、迷惑な話さ。勝手にやっててくださいと言いたいところだけど、当事者だから、そうもいかない」
 そう言って、ツキはにやりと笑った。次の瞬間だ。ツキの声が遠くなり、実態が霞む。アルトが慌てて駆け寄ると、ツキは静かに目を閉じて、困ったように頬を掻いた。
「流石に向こうも手がはやい。まずいな、見つかったかもしれない」
「見つかった? ……その、魔女っていうのにか?」
「そう。魔女は君を捕らえるために、こっちへ来ていたからね。アルト、いいか? ともかく、君まで藍の魔女に囚われちゃいけない。俺達にはいかなきゃならない場所があるんだ。……魔女に聞かれるとまずいから、詳しく話せないのが残念だ」
 ツキの姿が、少しずつ霞んでいく。それが魔女の仕業なのか、それとも魔女から身を隠すためにツキ自身がやっていることなのか、アルトにはわからない。わからなかったが、アルトは霞んでいくツキの手を取って、言った。
「忠告、ありがとう」
「礼ならラトに。魔女に鉢合わせるのが嫌で、ここまで来るかは迷ったんだ」
「……ラト?」
「俺とアルトの、仲間の名前さ」
 ツキの姿が、霞みに消える。アルトはツキの手を握っていたはずの拳を握り締めて、短く、呼んだ。
「ツキ」
 返事はない。一人取り残されたアルトは、しばらくの間、その場に立ち尽くしていた。
 クロトゥラのところへ戻らなくては。しかし、戻り方がわからないのは相変わらずだ。そうしている間にも段々と辺りの湿気が増して来て、ついには雨が降って来た。
(――藍の魔女)
 ツキを捕らえ、次にはアルトを捕らえようとしているという人物。一体何者なのだろう。
「藍の魔女」
 今度は、声に出して言ってみる。いつかはわからない。だが確実に、どこかで似たような言葉を聞いたことがあったのだ。もう少しで思い出せる、そんな気がしたその時のことだ。
「出口を捜しているの?」
 凛とした声に、ゆっくりと後ろを振り返る。その視線の先に立つ人物を見て、アルトは思わず声を上げた。
「夕日!」

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