吟詠旅譚

風の謡 第二章 // 導きの炎、風の刹那

018 : At full gallop -4-

「僕とクロトゥラの生まれ故郷は、クラヴィーアとの国境に近い、シナヴリアって小国家の小さな町だった」
 シロフォノはまず始めに、呟くようにそう言った。それはまるで、物語を読み聞かせるような口調だ。アルトはシロフォノが故郷の話をし始めたことに驚いたが、何も言わずに、その隣へ仰向けになる。
 鼻先に、濃い土の匂いがする。そうしているとアルトは、マラキア宮の庭を思い出した。
 数日前までいたはずなのに、今では懐かしささえ覚える故郷。そうしてアルトが、今一番守りたい場所。そこで嗅いだ匂いと、少し似ている。芝に覆われたマラキアの庭と土の露出した茂みの中では、全く同じというわけにはいかなかったが。
 アルトの隣で、シロフォノが続けた。
「救いようのないほど貧しい町でもなかったけど、決して裕福なところじゃなかったよ。僕はその町が大好きだったけどね――。だけどある時、その町の人々が集団で病気になった。本当のところはどうだったのかわからないけど、国はそれを、伝染病だって判断したんだ。……元々、政治的には何の価値もない町だった。だから国は……何の躊躇いもなく、その町を見捨てた」
「……。町ごと、焼き払ったのか」
 シロフォノが小さく「うん」と呟いて、続ける。
「僕たちが八つの時のことだよ。今でも覚えてる。町の中には、元気な人もまだたくさんいた。病気で臥せった人だって、助かる方法はあったかもしれないのに……。みんな、生きていたいって泣いてた。でもね、そんなの決定を下した国の官吏達は知らないんだよ。書類に『伝染病の恐れあり』って書いてあって、『じゃあ焼き払おう』。これで終わりさ」
 シロフォノがそう言って、いつもと同じように笑うのが聞こえてくる。
 ふとアルトは、隣に寝転がったシロフォノが体を起こして、自分の方へ顔を向けたのに気づいた。
 素知らぬふりをするのは、簡単だ。アルトは気づいていないかのように星を眺め続け、変わらずに耳だけを傾ける。
「悔しかった。せめてみんなの声を聞いてくれたなら、死なずに済んだ人が、沢山いたはずなのに。……僕たち二人は、そんな中でも偶然助かって、こうしてクラヴィーアに逃げてきた。もしかしたら他にも、逃げ出せた人がいるかもしれない、って思って探した事もあったけど、なかなかね」
 アルトは黙って聞いていた。その時アルトにできることは、それだけだったからだ。
 シロフォノの口から発される言葉の全てに、実感が得られない。伝染病が起こった際、その町を封鎖して焼き払うのは最終手段だ。それでも、クラヴィーアでも過去何度かそういったケースがあった。アルトもそれは知っている。けれど実際にその炎を見て、そこからどうにかして生き延びた人間が今自分の隣にいるのだと思うと、やけにおかしな心持ちがしたのだ。
 平穏だったはずの日常。ある時町の人間が倒れ始め、その為に町ごと焼き払われる……。兄弟二人で逃げのびたところで、そこからスクートゥムの近衛騎士団に所属するまでには、並大抵の努力では足りなかっただろう。
 災難だったと労えばいいのだろうか。それとも軽率な行動をとった国に対して怒ればいいのだろうか。そしてそんなことを、自分が口に出す権利などあるのだろうか。アルトは自問した。
 アルトが黙り込んでしまったのを見て、シロフォノは再び、薪を炎へ投げる。
「ごめんね、突然こんな話して。クロちゃんには内緒だよ。ホントは二人だけの秘密なんだ。話したなんて言ったら、怒られちゃう」
「じゃあ、どうして……」
「どうしてって、それは」
 シロフォノが言葉を短く切って、音なく腰を浮かせた。剣の束に手をかけると、さっと辺りに視線を巡らせる。遅れて体を起こしたアルトが慌てていると、シロフォノがとんとんとアルトの手を叩いて目配せした。クロトゥラに知らせてくれということらしい。アルトは頷いて、態勢を低くして手を伸ばし、クロトゥラの頬を軽く叩く。
「もう、スクートゥムの近衛に追いつかれたのか?」
 アルトが小声でそう尋ねると、シロフォノがはっきりと首を横に振った。その頬がわずかに汗ばんでいる。
 近衛に追いつかれたのでなければ、一体何に対して警戒しているというのだろう。それに、この緊張感。アルトは唾を飲んで、あらかじめ渡されていた剣の柄を握り締める。
「スクートゥム近衛騎士団は仕事がはやいけど、こんなふうに殺気を出す奴はいなかったな。ただの野盗って事も無さそうだ」
 いつの間にか起き上がっていたクロトゥラが、小さくそう囁いた。突然の背後からの声にアルトは驚いたが、出来る限り落ち着いた声で呟く。
「殺気って……」
 その時だ。何かが唐突にアルトの視界へ現れて、目の前でキン、と乾いた音がした。気づくとクロトゥラの剣が眼前に構えられていて、足元にくないのような物が突き刺さっている。恐らくは飛んできた凶器を、クロトゥラが剣で防いでくれたのだ。
 今の一瞬のいつの間に、剣を抜いたのだろう。アルトはぎょっとして目を瞬かせたが、問うことはできなかった。気づけば他の二人は戦闘体勢を整えていて、相手が出てきさえすれば今にも切りかかっていこうという覇気を感じさせている。
 否、これが殺気というものなのだろうか。アルトは剣を握り締めて、固唾を飲んだ。
 炎のはぜる音だけがする。ぱち、と中でも大きめの音がした瞬間だ。シロフォノがぱっと体勢を低くして、向いていた方へと走り始めた。
「ど、どこ行くんだよ!」
 追おうとしたアルトの手を、クロトゥラが掴んで引き止める。アルトは驚いて振り返ったが、クロトゥラは構いもせずに荷物から何かを出すと、それを焚火の中へ放りこんだ。直後、クロトゥラの両手がアルトの眼前へ伸びてきて、アルトの耳を素早く塞ぐ。
 その時だ。つい今し方まで静かにはぜていただけの焚火から、耳を塞がれていてもわかるほどの爆発音。アルトは思わず、目を白黒させる。
 同時に、森がとび起きた。驚いた鳥たちが一斉に梢を離れ、風もないのに木々を鳴らす。地に住む獣たちも目を覚ましたようで、あちこちから足音や、唸り声が聞こえてきた。いつの間にやらシロフォノの姿は草むらの中へと消えており、どこにいるのかわからない。アルトはクロトゥラに引きずられるように馬のいるところまで駆けて、馬を結わえていた縄をほどいた。アルトは馬たちが他の獣たちを尻目に悠々と立っているのを見て驚いたが、クロトゥラが馬たちの耳から詰めていたらしい何かをつまみ出すのを見て、更に目を丸くする。
「乗れ、はやく!」
「けど、シロフォノが」
「あいつ一人ならどうにかなる。ともかく、乗れ!」
 言いながら、クロトゥラは既に手綱を握り、馬へ跨がっている。
 アルトは迷いながらも馬へ飛び乗って、同じく体勢を整えた。手綱をひいて、たった今駆けてきた方向を振り返る。
 獣たちの慌てふためく音にかき消されて、シロフォノ達の気配は感じられない。恐らくそれを狙ってのことなのだろうが、そのことが余計にアルトの不安を煽っていた。
「アルト、振り返るな!」
 苛立ちの交ざったクロトゥラの声が聞こえて、アルトははっとする。とはいえ、乗り手のいないシロフォノの馬を見るだけでも不安がおさまらない。
 相手はただの野盗ではない。ならば一体、何のためにここへきたのか。詳しいことはわからない。けれど。
「手綱を握れ! 一気に駆け抜ける。……アルト、あいつらの目的はおまえだ。はやく!」
 アルトは拳を握り締めて、馬の腹を蹴った。馬が嘶き声をあげ、地を駆ける。前を進むクロトゥラを追いかけて行くと、やがて見通しの悪い森の中を進むことになった。大抵の障害物はクロトゥラが剣で切り開き、うまく避けられるように誘導したが、それでもいくつもの小枝がアルトの肌へ小さな引っ掻き傷を作っていく。
(こんなわかりにくいところを通ったら、シロフォノが追ってこられないじゃないか)
 きつく、奥歯を噛み締める。クロトゥラがこの道なき道を選んだのは、勿論追っ手を撒きやすいということを考慮してのことだろう。そのことを考えると、余計にやるせなさが募るのだ。
(俺が、二人を巻き込んだ……)
 なぜあんな、得体の知れない相手に狙われなければならないのか。どうして仲間をおいて逃げているのか、アルトは混乱していた。それでも今は、こうして走り続けるより他にない。
(殺気……。命を狙われている? 誰が、何のためにそんなこと……。ウラガーノで会った男と、何か関係が? いや、もしかしたら聖人の儀――あるいは、デュオの話と繋がっているのかも知れない。それとも、もっと他の何かが? くそ、考えても何もわからないじゃないか。俺は、色々なことを知らなすぎる――!)
 走って、走って、走り続けた。やがて日が昇るころになると、アルトの体力にも限界がきていた。休める時に十分休まなかったことを後悔したが、今となってはどうすることもできない。視界が大きく揺らいだのを感じて、苛立たしげに瞬きする。
 手綱を握り直そうとして、その手に全く力が入らないことに気づいた。頭の中が、ぐらりと揺れる。足が鐙を離れ、馬の体が遠のいて行く。
「アルト!」
 焦りを含んだ声。アルトには一瞬、それが誰の声なのかわからなかった。
 先を駆けているはずの、クロトゥラか。シロフォノが追いついてきたのだろうか。それとも。
 身体中を、鈍い痛みが走る。目の前が真っ暗になったアルトの耳に、かすかな炎の音が聞こえてくるようだった。

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