吟詠旅譚

太陽の謡 第三章 // 砂中の灯

047 : Terminum

 月色にきらきらと輝くクレモナの目が、探るようにキリを向く。驚きを隠せない様子の彼女は、ルクサーナの手を離れて数歩彼に歩み寄ってから、しかし途中で歩みを止めた。
「違うの? ねえ、なんとか言ったらどうなの」
 自ら問いかけておいて、疑い深げに眉根を寄せる。それも仕方のないことだろう。視覚から情報を得られぬ彼女にしてみれば、目の前にいるのが誰なのかを判別するには、相手の声が頼りのはずだ。それなのに、キリときたらクレモナに声をかけられたその瞬間から、口を真一文字に結んだまま、まるで呆けてしまっているのだ。
「……、クレモナと知り合いなの?」
 声を潜めてラトが問えば、キリがはっとした様子で顎を上げる。まるでこの一瞬、すぐ隣にラトが居ることを、忘れていたとでもいうかのような振る舞いだ。それでも彼は、垣間見せたその隙を取り繕うように、ざっとその場を見回して、ルクサーナを見、クレモナにも視線を配ると、「お前、なんだってあいつらと一緒にいるんだ」とラトにだけ聞こえるような音量で問うた。
 キリの口調に棘を感じる。「付きまとわれてる」と答えれば、彼はあからさまに苦々しい表情で舌打ちし、「とにかく」と声を落として仕切り直す。
「お前がこのまま一座の宿営地にいるのはマズい。嫌な客が来てるんだ。気づかれないうちに、裏から抜けるぞ」
「裏から? ……、嫌な客って、一体誰が」
 恐る恐る問い返せば、キリが言葉を詰まらせる。しかしその直後、限りなく声を潜めて、
「ダル・ホーキンスが来てる」
 彼は一言、そう言った。
 ダル・ホーキンス。聞き覚えのあるその名を聞き、次に青くなったのはラトの方だ。
――あいつが三つ目の化け物だと知ってたら、あの女だって、すぐ始末が出来るように手配してくれただろうに。
――なに言ってんだ。あいつを殺されたりしちゃ、困る。
 その名の男を知っている。ラトの故郷、マカオの木こりの名であり、そして、――
――先代の占い師が死んだ頃、あいつをどこか見せ物小屋へ売っちまおうって話があったろう。あの時はタシャの反対にあってうやむやになったが、今からだって遅くはないさ。
 天淵石と呼ばれる、青く輝く石のあった薄暗い洞窟で、その男の語った言葉を思い出す。
「ラト! おまえ、さっきから誰と喋っているのよ? そこにいるのはキリじゃないの?」
 クレモナが言い募るのに、答えるような余裕はなかった。
 慌てて数歩後ずさり、奴隷達から距離を取る。それに続いたキリの肩を掴み、「どうして」と短く問えば、キリは眉間に皺を寄せ、はっきりとした口調で、「お前を追ってきたのは確かだ」と言葉を返した。
「詳しいことは調べさせてる最中だが、今朝方アバンシリに着くなり、お前のことを聞いてまわってるって話だ。『赤毛で子供の薬売り』って言って探しているらしいから、途中タトリーズの町なんかで商売してたことも、知られてるって思った方が良さそうだ」
「今朝? それじゃ、僕らがマカオを発ってすぐ、あいつも僕らを追って来たってこと?」
「そうかもしれない。まあ俺達はほとんど徒歩でここまで来たから、いい騎獣がいれば距離は詰めやすいだろうけど」
「でも、なんで、……だって僕は、その、死んだことに……、あんたが殺したことになってるんじゃ、」
 「丘の化け物は、」不安な思いに戦いた。鈍い音で胸が鳴る。「丘の化け物は、もう、死んだはずだ」いやに喉が渇いていた。震えが走りそうなのを、それでもぐっと拳を握り、地面に足を踏みしめて、やっとの事で食い止める。
 怯えている場合ではない。ダル・ホーキンスが一体何の目的でラトを追ってきたのかはわからないが、しかし確かなことが一つある。
 ちらと視線に映ったのは、不思議そうな顔をして、こちらの様子を窺う奴隷達の姿であった。どうやら何か起きたようだと、彼らも感じ取ったのだろう。ある者は無関心を装って、またある者はあからさまに耳をそばだて、興味津々といったふうだ。
 つい先程、恭しげにラトへ礼を述べたその人々の、好奇の視線がそこにある。
(ダル・ホーキンスは、マカオにいた頃の僕を知ってる)
 当然のこととして町から遠ざけられ、丘の化け物と罵られ、そして、
――ずっと嫌でたまらなかったんだ。こんな化け物が、目と鼻の先に住んでいるなんて。
――おまえが何もできないなら、このまま川へ落としちまうっていうのも良いかもしれねえな。
 町の人々に公然と、死を望まれていたラトの事を。
(戻って、たまるか、……)
 『戻る』。一体、どこへ戻るというのだろう。
(戻ってたまるか)
 何に、戻るというのだろう。
 その思いが何であるのか、ラトにはすぐにわからなかった。だが何某かの焦燥感と、得体の知れない決意に唾を飲む。ダル・ホーキンスに見つかるわけにはいかない。アバンシリというこの町は、『旅人』のラトをこそ迎え入れたのだから。
 この町にいるラトは、最早――『丘の化け物』ではないのだから。
「あいつ、お前の生死については始めから、疑ってる節があったからな。けど砂漠を越えてまで、追ってくるとは思わなかった。そんな事をしたって、あいつに旨みはないと思ったんだが……。とにかく、急いで場所を移そう」
「でもその話じゃ、アバンシリのどこにいたって同じ事じゃないか?」
 冷静に、そう問い返せたことに安堵する。しかしキリは多くを語らないままかぶりをふり、「ここは別の意味で最悪だ」とだけ言った。
「どういう意味」
「じきにわかる」
「……、わかった。けど、」
 言いながら、ちらりと視線をクレモナに戻し、ラトは思わず面食らった。見ればにこにこと微笑んだルクサーナが、不満ありげに身じろぎするクレモナの口を片手で塞ぎ、もう片方の手を彼女の腰に回して、完全に、この少女のことを取り押さえる姿勢でいたのだ。
「お二人さん、大事な話は済んだかい? そろそろ腕が、疲れてきたんだけどね」
「えらく空気の読めるやつだな。昨日の店の人間だったか?」
「おや、覚えてくれて嬉しいわ。ルクサーナよ。酒処アジャマを、どうぞこれからもご贔屓に」
 ルクサーナが営業じみた笑みを浮かべる一方で、取り押さえられたクレモナはまた、何事かを呻きながら細い腕を振り回す。そうして一瞬ルクサーナの拘束が緩んだと見るや、抑えられていた口を突き出して、捲し立てるようにこう言った。
「やはりおまえ、キリでしょう? シーナー将軍のところの、中央第一猟騎兵団の、」
 中央第一猟騎兵団。初めて聞く肩書きだ。言われたキリは呆れた様子で、「また懐かしい話を」と溜息混じりに呟くと、肩を竦めてこう話す。
「……、ハイ、ハイ。久しぶりだなオジョウサマ。けど残念。その職は、もうとっくにクビになってんだ。ま、俺のような末端の兵の処遇など、オジョウサマの高貴なお耳には入らなかったのかもしれないが」
「そ、そんなわけないでしょう! お前が突然都を去って、わたくしがどれだけ心配したか、」
「おっと、昔話はそこまでにしておいた方が身のためだ。俺は今や一介の旅人に過ぎないが、クレモナオジョウサマ、あんたはそうじゃないんだから」
 飄々とした態度でそう言って、キリがにこりと微笑んだ。先程のように青ざめた様子ではないが、ひと目で作り笑いとわかる、底意地の悪い笑い方だ。
 どうやら本当に、クレモナとは知り合い同士であったらしい。それも、なにやら親密な様子ですらある。「都の兵士だったの?」とラトが問えば、「そう、かっこいいだろ?」といつもの調子でキリは返した。
「……で、俺達は急を要するんだが。あんたら、ラトに何か用か? ルクサーナって言ったっけ。そこのオジョウサマの事、頼めると嬉しいんだが」
 「ああ、でもそれは」答えかけたルクサーナの言葉を遮って、「駄目よ」と口を挟んだのはクレモナだ。「絶対に駄目。わたくしはまだ、ラトに用があるの。キリ、おまえがラトを連れて行くなら、わたくしはどんな手を使ってでも、おまえ達を追いかけるわよ。おまえが一緒なら、かえって探しやすいわ。おまえは兵内に顔が広かったはずだもの」
 そう話すクレモナの口調はけっして強いものではないが、表情は真剣そのものであった。それが単なる脅しではないことを、キリも恐らく悟ったのだろう。彼は目を細め、心底嫌そうに溜息を吐くと、「随分気にいられたもんだな」とぽつり、ラトに言った。
「クレモナは、自分と僕が、……同じだと思ってるから」
 小声でそう言えば、キリが「同じ?」と聞き返す。クレモナのことは知っていても、彼女が精霊の姿を見ることは、彼も流石に知らないのだろうか。ラトが答えずにいると、キリも、ここでするべき話ではないようだと気づいたらしい。
「……、仕方ないか。それじゃあそこの二人も、とりあえず一緒に来るといい。変に騒ぎ立てられても困るしな」
 そう言って、キリが頭を掻きながら、また深々と溜息を吐く。しかし続いた行動を見て、その意外さに、ラトは目を疑った。キリが当たり前のようにクレモナに手を差し伸べ、クレモナもまた当たり前のように、キリの手を取りかえしたのだ。
「その目で、よくこんな所まで来たな。バルカスだっけ? あの厳つい護衛はどうしたんだ。まさかアバンシリまで、一人で来たってわけじゃないだろ」
「宿に置いてきたわ。今頃はわたくしの事、必死になって探しているだろうけど」
「……そりゃ、余計に人目につくわけにはいかなくなったな」
 空いた方の手で己の顔を覆い、しかし諦めた様子でかぶりを振るキリが、小さくラトに目配せする。「行くぞ」と短くそう言った彼は、ふと懐から何かの包みを取り出すと、じゃらりと金属音の鳴るそれを、奴隷の一人に手渡した。
「言わずもがなだが、――今、おまえ達が見聞きしたことは他言無用だ」
 そう告げるキリの口調はいつも通りだが、しかし威圧を感じさせる。傍らのクレモナもはっとした様子で、ポケットからレースのハンカチを取り出すと、自らの足元にそれを置いた。
「耳飾りはあげられないけれど、その、嘘つきだと思われては心外だから」
 そうだけ言い置くと、足早に進んでいくキリに手を引かれ、さっさとその場を去っていく。ルクサーナもすぐ、彼らの後に従った。
「――お大事に」
 最後に残ったラトは、奴隷達を向いてぽつりと一言、そう言った。何故だろう、そう言わなくてはいけない気がしたのだ。ここへ来る前、旅一座の幕屋の中で、団員達に向けてそうしたのと、まるで全く同じように。
――見たろ、あの肩。奴隷だよ。
 ああ、きっと誰も皆、己の思い描いた世界の中で、枠を描き、線を引き、それを当たり前に生きているのだ。以前のラトもそうであった。マカオの人々もまた、そうであった。
 奴隷達は答えなかった。ただ黙って、数名が小さく会釈した。それをろくに見もせずに、ラトは彼らに背を向けると、すぐ小走りにキリを追う。
「ありがとう」
 誰かの言葉が、背に届いた。ラトは振り返らなかった。

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