吟詠旅譚

太陽の謡 第三章 // 砂中の灯

048 : Spectaculum -1-

 裏から抜けるとキリは言ったが、こうして大小の幕屋が林立する中を歩く分には、何を裏とするべきか、ラトにはどうにも判じ難い。だが確かに、先程ラトが通されたのよりは随分入り組んだ道のりを、ただ黙々と歩いている。
――砂漠を越えてまで、追ってくるとは思わなかった。そんな事をしたって、あいつに旨みはないと思ったんだが。
 黙って後に続きながら、キリの語ったダル・ホーキンスの話を思い出す。今朝方アバンシリに姿を現したこの男は、ラトの事を捜しているのだという。だが確かに不思議であった。理由が思い当たらないのだ。バーバオで暮らす一人の木こりが、何故こんなところへまで、ラトを探しに来るのだろう。
(マカオの洞で会ったとき、あいつは『一攫千金の好機を得た』とそう言った。僕を売ればきっと、収入にはなるんだろう。でも問題なのは砂漠越えだ。キャラバンか旅の護衛に同行しなければ、木こりが一人で砂漠を越えられるはずがない。だけど、……そのこと自体に、費用がかかりすぎる)
 ラトの周囲を取り囲み、けらけらと笑う精霊達の声を掻き消すように、片手で軽く空を払う。無駄な事だと理解してはいたのだが、そうせずにはいられないほど、彼らの声がいつにも増して、近くに強く聞こえたのだ。まるで何も知らないマカオの丘で、彼らがラトの家族の如く、親しげに接していた頃と同じように。
(……、クレモナが近くにいるせいか)
 彼らの声を聞くことなど、以前は当たり前、なんでもない日常のうちの一風景に過ぎなかった。それなのに今、これ程までに耳に障るのは何故だろう。そんな事を考える。
 黙っていてくれと、心の中で呼びかける。静かにしてくれ。考えがちっともまとまらない。旅に出てからずっとそうであったように、ただラトが呼びかけたときにだけ、天淵石の力を借りたときにだけ、応えてくれればそれで良いのだ。
(彼らの声がこんなに近いと、洞でのことを思い出す)
 マカオの洞でもラトは、彼らの笑う声を聞いた。一見楽しげな、しかし不自然に狂った笑い声。それを思い返せば同時に、彼らの激しい絶叫も、助けを求めるその声も、ラトの脳裏に甦る。
(恨みがましい声で喚くな、……僕だって助けたかった、助けたかったんだ、だけど、)
 無意識のうちに手を延べて、己の胸元を掻きむしる。その時、
――おまえ、どうして自由に動けるの。
 不意に聞こえたその声に、どくりとラトの鼓動が鳴った。
 聞き覚えのある声だ。艶やかで、優しげで、しかし強制力を持った女の声。慌ててその場に立ち止まり、はっと背後へ振り返る。
 喉元に、ナイフを突きつけられるような思いがした。けれど振り返ったその場所に、『声』の主の姿はない。
「どうしたんだい?」
 訝しげにルクサーナが問うのを聞いて、ラトは咄嗟に首を振った。「なんでもない」取り繕うようにそういえば、ルクサーナは首を傾げながらも、キリ達の後へついていく。
(今の声、……)
 ダル・ホーキンスらのいたあの洞窟で、兵士達に指示を出していた、リストンという女の声だ。迫るような声と思われたが、この場に彼女の姿はない。精霊達の笑い声にあてられて、思い出してしまっただけなのだろうか。
 後味の悪い白昼夢のようなその声を、振り払おうと拳を握る。すると今度は前方から、「ねえ」と緊張感のない声がした。クレモナだ。
「さっきから、なんだかくねくねと歩いてきたけど、一体何なの? 始めにここへ来た時は、もう少し真っ直ぐ歩いてこなかったかしら?」
「そりゃ、そうだ。広場に出るのとは逆の、裏側から出ようとしてるからな」
 飄々とした態度でそう答えたのは、キリである。彼は先程から変わらずクレモナの手を引き、危うげもなく歩いていた。ルクサーナの誘導も上手いものだと思ったが、それ以上に、キリの動きには慣れすら感じる程である。もしかすると彼は以前にも、こうしてクレモナの手を引いて、歩いたことがあるのかもしれない。
「裏から? キリ、おまえ一体何をしでかしたのよ」
「酷いなあ。まるで俺が、悪事を働いたとでも思ってるような言いぐさじゃないか? オジョウサマがバルカスに見つかっちゃまずいって言うから、あえて表を避けてやったのに」
 出まかせだ。だが納得した様子のクレモナを見て、ラトはそのやりとりを黙殺した。軽口のようなキリの言葉は、何やら確実に、クレモナのことを黙らせる。しかし、――
――都の兵士だったの?
――そう、かっこいいだろ?
 つい先程のやりとりを思い出し、小さく一つ溜息を吐く。子供をあやすようなそのあしらい方は、ラトにも身に覚えのあるところであったからだ。
(兵士の仕事はクビになったって言ったけど……、何をして、そんなことになったんだろう)
 思えば、マカオの丘にふらりと現れたこの旅人について、知りうることなどほとんど無いのだ。本人は己のことを、『世界を股にかける何でも屋』だの『腕利きの三月刀士』だのと好きに豪語していたが、彼が元々どこの人間なのか、何故旅を始めたのか、ラトは尋ねた事がなかった。
 キリにとってのラトは、『何でも屋』が引き受けた、仕事の客の一人に過ぎない。ラトが代価を支払う代わりに、暁の都まで同行する。そういう契約だから共にいる。それだけだ。そもそもそうでなければ、キリの側にはラトと行動を共にするメリットなど、何一つもないのだから。
(僕はキリの事情に立ち入るべきじゃないし、別に知りたいわけでもない)
――お前が突然都を去って、わたくしがどれだけ心配したか。
(今は旅の身の上だとしても……、キリにはきっと、帰るところがあって、)
 帰りを待つ人がいるのだろう。多くの人間が、当たり前にそうであるように。
 それを思うだけでも、――劣等感で胸が焦れるのに。
 歩き始めて、少し経った。そろそろ一座の幕屋を抜けるだろうか。しかし角を曲がろうとしたラトの腕を、すぐ隣を歩いていたルクサーナが、ふと掴む。
 何事だろうか。つんのめるように立ち止まり、そう問おうと振り返る。しかしラトは無言のまま、小さく頷くに留まった。ルクサーナが己の口元に人差し指を立て、用心深げに視線を巡らせている。その理由はすぐに知れた。どこか近くの幕屋の中から、話し声が聞こえていたのだ。
 キリも同じく足を止め、背中から抱き止めるような格好でクレモナの口を塞いでいる。クレモナはいかにも不服といった表情だが、自らも追っ手から隠れる必要があるためか、キリに何か言い含まれたのか、従うことに決めたらしい。先程よりも随分おとなしい様子である。しかし、
「馬鹿野郎!」
 突如響いたその怒声と、直後に聞こえた硝子の割れる鋭い音に、クレモナの肩がびくりと揺れる。キリが目配せし、ルクサーナがそれに頷く。移動を中断し、一度身を隠そうということらしい。そうこうする間にも、怒声は響き続けている。
「夕方までに傷を塞げと言っただろうが! なんだ? この有様は。これで客の前に出せるか!」
「ふ、塞げったって座長、無茶ですよ。元々縫合の痕が膿みきってたのに、この前の襲撃で怪我まで負って……、まだ血も吹き出てます。縫い直すことは出来ても、縫い目を隠すのは、とても」
「化粧でもなんでもして、どうにかしろ! こいつの見せ料で、一体幾ら稼げると思ってる? ここはアバンシリだ。治療に必要なら、薬でも道具でもすぐに用意してやる。前夜祭に必ず間に合わせろ!」
「そんな、無理ですってば!」
 ほとほと困り果てた様子の、甲高い男の声。しかしもう一方の声は構う様子もなく、「この役立たずが!」と言い捨てた。
「こっちへ来るわね」
 ルクサーナが短く囁き、ラトの方へ身を寄せる。それに半ば押しつぶされるようにしながら、しかしじっと息を潜めていると、そのうち先程の声の主と思しき人物が、一人幕屋の外へ出た。
 随分立派な腹をした、恰幅のいい男である。齢五十は超えているだろうか。白髪交じりの頭髪をしっかりと撫でつけ、金縁のついた赤いコートを羽織った派手な出で立ちだ。男は持っていた杖で力任せに幕屋の骨組みを殴りつけると、憤慨しきった様子で大股にその場を去っていく。
 座長、と先程呼ばれていた。そうすると、この一座の長であるのだろう。随分気が立っているようだし、ラト達のような部外者がこんなところをうろついていると知れたら、要らぬ不興を買いそうだ。そう判断したのはラトだけではなかったようで、身を寄せるキリやルクサーナも、同じくじっと息を潜めたままでいた。余計な諍いは起こさぬに限る。だが座長の男が立ち去ると、今度はまた幕屋の中から、なにやら荒れた声がした。
「ふざけんな、できるわけねえだろ! 大体、俺は人間様の薬師だぞ。トリアの……しかもこんな出来損ないの世話なんか、やってられるかってんだ!」
 何かを地面に叩きつけるような、鈍い音。直後、その声の主も苛立たしげに幕屋の布を押し上げて、外へ出ながらこう言った。
「おい、クダ! クダはどこにいる! 昨日捕まえた『あいつ』を連れてこい!」
 「はい、あっ、でもあの、セシムさん、」返答する若い女の声。それを耳にして、ラトは思わずぎくりとした。その声は例の男の声と、ラト達を挟んですぐ真逆の方向から聞こえてきたのだ。
 足音がこちらへ近づいてくる。舌打ちをするキリの声。このままでは、挟み撃ちだ。
 だが同時に、ひょいと身をかがめたルクサーナが小さなナイフを取り出して、すぐ目の前の幕屋の裾を浅く薙ぐ。幕屋の布と骨組みとを結びつけていた、縄の一部を切り裂いたらしい。彼女はそしらぬ顔で幕屋の裾を持ち上げ、中に入るようにと、にこりと笑って誘導した。
「随分手慣れた様子じゃないか」
 呆れた様子のキリが、視線のみでそう問うのに、ラトも思わず同調した。だが目の前に立つルクサーナは、微笑むばかりで答えない。実際、ここで声を出すわけに行かないのも確かである。黙って彼女の誘導に従い、そっと幕屋の中へ身を滑り込ませ――、立ちこめる濃い血の臭いに、ラトは思わず眉をしかめた。
 あんなにも騒がしかった精霊たちの声が、さっと瞬時に遠ざかる。
 先程ラトが通された幕屋より、分厚い布を使っているのだろうか。背も高く、広いこの幕屋の内部はまた随分と薄暗い。とはいえ視界が遮られるほどの暗さでもなく、ぼんやりとした明かりの下には何か、大きな布を被せられた箱状の物が、幕屋の中にひしめいているのが見て取れた。
――まさか、表の檻を見なかったわけじゃないだろうな。
 檻。
 そうだ。ラトがここへ訪れたとき、目にした物も檻であった。こんなふうにすっぽりと布を被せられ、その内部を隠匿された、無機質な四角い檻。聞こえてくるのは荒い吐息に、怒りを湛えた唸り声。じゃらりと鳴る金属音は、その『中身』を拘束する鎖の音だろうか。
 血の臭いとともに、独特の臭いが周囲に充満している。獣の臭いだ。ここに何頭もの、獣が捕らわれているのは間違いない。
「なにしてる。こんな所、さっさと抜けるぞ」
 淡々と言うキリが、強くラトの肩を叩く。しかしラトは呆然としたまま、その場を動くことができなかった。
 何やら、嫌な予感がしたのだ。
 ふと見れば、ある箱の足元から、赤黒い液体が滲みだしているのに気がついた。血だ。恐らくこの檻の中にいる獣が、怪我をしているのだろう。そういえば先程の男達も、そんなような話をしていた。
「ラト」
 苛立たしげに呼ぶキリの声。しかしラトは従わない。ただ黙って檻に歩み寄り、被せられた布に手を掛けると――、そっと、それをめくりあげる。
「四枚羽の、ムファサナ・トリア……?」
 ラトのすぐ背後に立ったルクサーナが、息を呑んでそう言った。ムファサナ・トリア。旅の間にも、稀に目にした騎獣の一種だ。一見して巨大な鳥にも見えるそれは、かぎ爪のついた二本の太い脚と一角を持ち、堂々たる風格をもって砂漠の道を闊歩していた。馬よりも身が軽く、どんな環境にも順応するというその騎獣は、荷を多く運ぶ旅人達にも人気のある獣だと聞いている。しかし、これは、――
 トリアの翼は、通常であれば左右に広がる二枚だけのはずであった。だが目の前のこの獣の背には、鎖で無理矢理開かれた、四枚の翼が生えている。
 手前に見える墨色の二枚の翼は、恐らく自前の物であろう。今までに見た他のトリアと比べ、随分小振りなものではあるが、それらの翼はこの獣の背からすらりと延びていた。だが翼の両端は鎖につまみ上げられており、檻の上部へ広がるように、金具で固定されている。それだけでも随分と痛々しく見えるのに、更に様子がおかしいのは、覆い被さるように生えたもう二枚の翼である。
 毛色だけ見ればこの二枚も、他の二枚とよく似た色をしていた。だが同じく鎖で固定されたその翼の、付け根を視線で辿ってみれば、そこに夥しい量の血が流れ出ていたのだ。
「背中の毛を刈って、……無理矢理、他の個体の翼を、縫い付けたのか?」
 呟いて、咄嗟に檻の格子に手を伸ばす。細かに痙攣をするそのトリアはすっかり衰弱しており、ラトが無防備に近づいてすら、僅かに身じろぎするのみだ。
(やっぱり、身体に直接縫い込まれてる……。檻の中で暴れでもしたんだろうか。翼が半端に引きちぎれて、……そのせいで、縫合痕から血が噴き出したんだ。大体、傷口が穢れて炎症を起こしてる。すぐにでもこの妙な翼と鎖を取って、手当てしてやらなきゃ、傷なんか癒えるわけがない。……でも誰が、なんで、こんな事を、……)
――まだ血も吹き出てます。縫い直すことは出来ても、縫い目を隠すのは、とても。
――化粧でもなんでもして、どうにかしろ! こいつの見せ料で、一体幾ら稼げると思ってる?
 先程の会話を思い出し、格子に手を掛けたまま、胸騒ぎに立ち尽くす。
 見せ料。座長の男が、確かにそう言っていた。
 「見せ料、……四枚羽根の、奇形の、トリア、」声がうわずる。不安に胸の音が鳴る。
 そっと檻から手を放し、一歩、また一歩と覚束ない足取りで後ずされば、ラトの脚はまた別の、鉄の箱に打ち当たる。
 「ここは別の意味で最悪だ」そう告げた、キリの言葉を思い出す。この時にはもうラトも、大概のことを察していた。
 ごくりと小さく息を呑み、覚悟を決めて振り返る。ラトの足元にあったのは、トリアが捕らわれているものよりも、幾分小さな箱であった。だがこれもまた、確認するまでもなく檻であろう。そこにかけられた布を恐る恐るはぎ取り、ラトはそのまま、あいた片手で己の顔を覆い隠した。
 蛇がいた。美しい白い身体をした、――尾が二股に分かれた蛇が。それが生まれ持っての姿なのか、それとも何者かの手によって、引き裂かれたものなのかはわからない。けれど小さな檻に入れられ、身じろぎもせず息を潜めるその姿を見ると、得体の知れない怖気が走る。
「……、……、見せ物小屋」
 ぽつりと小さく、呟いた。
――まあ聞けよ。俺たちは、一攫千金の好機を得たんだぜ。
――見せ物小屋でも何にでも、とっとと売られちまえばいいのに。
 「キリ、」呼びかけたその言葉に、返事があったかわからない。だがラトは出来る限りの平静を装って、震える指先を握り隠し、
 抑えた声でこう問うた。
「これがそうなのか。これが、――これが『見せ物小屋』なのか」

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