吟詠旅譚

太陽の謡 第三章 // 砂中の灯

046 : Populus servus -2-

「シャルク戦争は……、今になって思い返しても、それは酷い争いでした。元は夕狼との国境地帯の紛争に端を発した争いだったけれど、アフサンの背後にレシスタルビア帝国が、夕狼の背後に藍天梁国がついたことで、私達の祖国は、そのほとんどが戦場となった。……、事実上の、代理戦争です。
 帝国からの支援があったとは言え、前線に出るのはアフサンの若者ばかり。その上、藍天梁には火薬を巧みに操る武器がありました。
 奮戦の甲斐もなく敗北した祖国に残ったのは、灰となった町と、仲間の屍ばかり。この婆がまだ十の子供だった頃、私らの親であったアフサン兵士達は、戦後の実質的な統治権を握った藍天梁の粛正を恐れ、流民となってレシスタルビアに移り住んだのです。
 とはいえ、土地もなく、学もない人間がレシスタルビアで生きていくのは難しかった。特にここは、余所者に厳しい国ですからね。移民にかけられる人頭税は高いものです。流れ者に払えるはずもない。だから、……私らは真っ当な人間として扱われることを諦め、ある者は用心棒崩れの盗賊となり、ある者は山奥へ隠れ住み、ある者はこうして奴隷になった……」
 ぽつりぽつりと語られる、老婆の言葉のすぐ隣を、アバンシリの風が抜けてゆく。未だじりじりと照る夕時の陽は徐々に傾き、老婆と、それを取り囲む声もない奴隷達との影を、黒々と地に焼き付けてゆく。
 しかしそれを一瞥するや、ラトは最早視線を上げず、ただ黙々と患者の傷を診て歩いた。この歴史は、ラトに語られたものではない。興味本位に事を問うた、クレモナに宛てられたもの――。
「先生」
 静かな声でラトをそう呼んだのは、奴隷の内の一人であった。足を負傷し、地面に座り込んでいた彼女は、たった今ラトが取り落とした薬包を拾い上げると、「どうぞ」と恭しくそれを差し出した。
 目許の涼やかな女性であった。その表情は、老婆の語る歴史など意に介した様子もなく、穏やかに微笑んでいる。どちらかといえば美しい人だ。アバンシリの町を闊歩していた、他の人々と比べて見劣る所など少しもない。着飾ればきっと華やぐだろう。
 だが、――奴隷だ。ボロ布を纏い、傷を負って尚、ろくな手当てもされず捨て置かれるべき人なのだ。ラトのように奇怪な目をもつわけでもないのに、この人は、他の人間達とは『違う階層の生き物』とされているのだ。
「仕方がないことです」
 続いた老婆のその言葉に、ラトは何故だか、ぎくりとした。
「仕方がない。私らはアフサンの子として、亡国の流民の子として生まれた。己の土地を知らず、帝国の人間にもなれはしない。そういう星の下に生まれたのでしょう。人は誰も、己の生まれを選べない。それは仕方のないこと。抗いようのないこと。そう何度言い聞かせてきたか、――」
 老婆が呟き、そっとその場に視線を落とす。周囲に佇む奴隷達も、同意するように視線を伏した。仕方がない。その言葉が呪文のように、彼らの肩に覆い被さっていく。
(仕方のないこと、……そういう、星の下の生まれ、……)
 染み渡るようなその言葉に、ラトの指先が微かに揺れた。咄嗟にそれを握り込み、差し出された薬包を、奪うように取り上げた。何故だか湧いたその震えを、誰にも気取られたくはなかった。
「ふうん、そういうものなのね」
 あっさりとした口調でそう言うクレモナは、老婆の言葉に秘められた思いを、どこまで理解したのだろう。そんなことを考えながら、ラトは荷物をまとめると、さっと彼らに背を向ける。
 出来る限りの手当てはした。仕事に駆り出されている奴隷が、まだ他にも残っているかもしれないが、少なくとも、この場を訪れた人間の手当ては済んだろう。
 ラトに出来るのはここまでだ。
 彼らの多くが飢え、痩せ細っていることには気づいていた。彼らの患う皮膚病の多くが、身体を覆う衣服さえあれば防げることもわかっていた。だが気づいたところで、どうしてやれるものでもない。思った以上に時間を食ってしまった。旅一座の人間と鉢合わせる前に、ここを去るのが懸命だ。
(『仕方がない』。……彼ら自身が言うように)
 仕方がない、仕方がない、仕方がない、――その言葉の効力は、
 誰よりもラトが知っている。
 「それにしても」と、不意に言葉を挟んだのはルクサーナだ。ラトと同じく、ここで出来ることは終えたと判断したのだろう。余った布地を畳み、既に片付けを始めながら、彼女は続けてこう言った。
「あなた達の主人は、ちょっとばかし薄情だね。奴隷は人として扱われにくいものとはいえ、それを買った人間にとっては労働力だし、立派な財産だ。働かせずに死なせたんじゃ、随分な損害だろう? 傷の手当てくらい、手配してくれたって良いだろうに」
 「そうよね」と言葉を受けたのはクレモナだ。「それに、老人を奴隷として連れているのも不思議な話だわ。老婆、おまえはここで、一体なんの仕事をしているの?」
 それらの問いに、奴隷達は答えない。だがその内の数名が、静かに背筋を伸ばしたのを、ラトは黙って眺めていた。すぐに答えない彼らの様子に、ルクサーナが眉をしかめる。クレモナがきょとんとした様子で、いくらか首を傾げてみせた。
 その時ふと、沈黙を破ったのは、先程クレモナに話しかけていたあの少女だ。
「あたし達はアフサン人だもの。それだけでいいの。『アフサンのこどもと年寄りは、歩ける足さえあればいい』って、一座の人がよく言ってるわ」
 「サシラ」と大人が名を呼んでも、今度は少女も譲らない。「ばあさまばっかり、さっきからずるい」と頬を膨らました彼女は、クレモナの隣に陣取ったまま動かない。そうして何やら誇らしげに、明るい声でこう続けた。
「『アフサンの血があればいい』って、一座の人が言ってたわ。だから、シャサはよそへ売られるの。シャサは本当にただの奴隷の子で、アフサンの人間じゃないから、いらないんだって。あたし達とは、価値がちっともちがうんだって」
 シャサというのは、どうやら先程、ラトが治療した少女の事であるらしい。それまで黙って話を聞いていた彼女は、その言葉を聞くと、さっと顔を伏せてしまった。
「アフサンの血が、あればいい……?」
 怪訝な様子で、ルクサーナが聞き返す。その言葉を不審に捉えたのは、クレモナも同じであったらしい。だが首を傾げた彼女に、思案の時間が与えられる事はなかった。周囲の反応などお構いなしに、サシラという少女が眼をきらきらと輝かせ、クレモナに詰め寄ったのだ。
「ねえ、ねえ、この話は面白い? もしそうなら、あたしにゴホウビ、くれないかしら?」
――話が面白ければ、褒美を取らせてやってもいいわよ。
 自らが発したその言葉を思い出したのだろう。クレモナがはっとした様子で、「そうね」と幾らか口ごもる。
「約束したものね。わたくしは、約束は守るわよ、……」
「やった! それじゃ、その耳飾りをちょうだいよ。つやつやしていてとってもきれい」
 そう言いながら、既にサシラの手はクレモナの耳元に伸びている。まさかそんな風にねだられるとは思ってもみなかったのだろう。クレモナは心底困惑した様子で、少女の手から逃れるように、「だめよ」とその場に立ち上がる。
「これは、……その、奴隷が身につけるような物ではないわ」
「でも、ゴホウビをくれるって言ったじゃない」
「ええ、そうよ。そうね、耳飾りより、これはどう? レースをあしらったハンカチをあげるわ」
「耳飾りの方がいい。オジョウサマはそんな耳飾り、たくさんもってるんでしょ?」
 不愉快そうにサシラが言う。周囲の大人達はそれを見ても、最早彼女を制しようとする様子すらない。
「ねえ、ばあさまの話を聞いたでしょ? あたし達、生まれてからずうっとじぶんの国がないまま、奴隷として生きていくの。ねえ、ねえ、かわいそうだと思うでしょ? ……あたしは奴隷だから、このさき一生、そんなすてきな耳飾りは手に入らない。だから、ねえ、それをちょうだいよ」
 「でも、……」すっかり狼狽えた様子のクレモナが、後ずさりながら呟いた。軽率なことを言ってしまったと、後悔しているのだろうか。定まらぬ視線がそれでも、助けを求めるようにラトを向いたが、ラトはそれに応えない。自業自得だ。クレモナ自身が、どうにでも思うようにすればいい。しかし薄情なラトがそっぽを向いた、次の瞬間。
 ぱん、とひとつ乾いた音が、不意にその場に響き渡った。
 ルクサーナだ。いつの間にやらクレモナの背後に回っていたらしい彼女が、自らの両手を大きく打ち合わせたのだ。
「はい、そこまで」
 後ずさってきたクレモナを受け止めると、彼女はにこにこと明るい笑みを浮かべ、サシラに対してこう話す。
「『家来ごっこ』なんだろう? それならね、今のはちっともなってないよ。主人を困らせてどうするんだい。大体お前ね、たった今お前の仲間達が、そこの薬師先生に恩を受けたって事、忘れてないかい? この人は、その薬師先生の連れなんだよ」
 「ね?」とルクサーナに目配せされ、ラトも渋々頷いた。別に連れでも何でもなく、ただ付きまとわれているだけだと言いたいところだが、うっかりそんなことを言っては、ルクサーナに今度は何を申しつけられるかわからない。
 ほっとした様子で息をつくクレモナの一方で、心底面白くなさそうに、サシラが地面を蹴りつける。他の奴隷達はそれを見ながら、しかし最早、口を挟もうとはしなかった。頭を垂れて視線を落とし、まるで周囲のやりとりなど、耳に入ってすらいないかのような振る舞いだ。
 元々が大人しい類の人々なのかもしれないが、先程までは、こうまで内にこもった雰囲気ではなかったのに。
(アフサンの血……)
 話題に上がったその言葉が、何故だか胸に引っかかる。しかし、
「ラト、ここか?」
 急く足音と共に聞こえたその声に、ラトはびくりと振り返った。聞き慣れた男の声、キリの声だ。見れば予想通りの人物が、昼前に別れた姿のまま、幕屋の陰から現れる。先程ラトが手当てした、奴隷の一人にここまで案内されてきたらしい。走ってきたのだろうか、額に汗が浮いているようだ。
「……どうしてここが、」
「どうもこうもない。お前、なんだってよりにもよって、こんな所へ来たんだ。まさか、表の檻を見なかったわけじゃないだろうな」
 抑えた声で、しかし有無を言わさぬ様子でそう言われ、困惑の内に押し黙る。檻。そういえばここへ来る道中、それらしき物を見た気がするが、中身までは見えなかった。その事に、何か問題があるのだろうか。突然捲し立てられたところで、ちっとも意味がわからない。
 だがそう言い返そうとして、ラトは眉間に皺を寄せた。この場を覗き込んだキリの表情が、さっと青ざめたのがわかったからだ。
 「どうして、」と問う声は、悪夢に魘されるそれのようでもあった。その視線は、既にラトを向いていない。
 精霊達が何やら楽しそうに、けらけらと笑い声を上げる。聞こうとしたわけでもないのに、こんなにもはっきりと彼らの声が聞こえたのは久方ぶりのことだ。だが彼らは構わず笑い続け、何でもないかのようにあっさりと、ラトの周囲を通り過ぎる。
 向かう先は知れていた。ラトの背後、――精霊達の存在を識る、彼女の元へと散ったのだ。
「その声、まさか――、キリなの?」
 驚いた様子でそう呟いたのは、他でもないクレモナであった。

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