吟詠旅譚

太陽の謡 第三章 // 砂中の灯

045 : Populus servus -1-

「石を投げてやったんだ」
 咄嗟に隠れた茂み越しに、聞こえてきたその男の声を、ラトは今でも覚えている。
「一昨日の昼頃、丘向こうの山間で『あいつ』を見かけてさ。始めは逃げられたんだけど、『あいつ』の連れてた羊を蹴り飛ばしてやったら、大慌てで戻ってきたんでね。そこを狙って、顔に思いっきり、拳くらいもある石を当ててやったんだよ」
 ある秋の日のこと。その日、ラトは解熱に使うカダの葉を採るために、マカオの町に程近い、林の辺りを訪れていた。
 町に近づきすぎてしまったことを、ラトも後悔していたのだ。だがまさか、一昨日遭遇してしまったばかりのその男が、こんな所へまで訪れているとは思わなかった。己の頬にそっと手を伸ばし、物音を立てないようにそれを撫ぜながら、恐る恐る息をつく。
「そんな事して、逆恨みでもされたらどうするのよ」
「大丈夫さ。町へは降りてこないように言い含めてあるし。もし降りてくるような事があれば、また思いっきり石を投げてやるよ」
 そう言って嗤う男の声。それをひっそりと聞きながら、ラトは身体を丸め、息を殺して、その声の通りすぎるのを待っていた。こんな所に居るのを見つかりでもしたら、何をされるかわからない。このまま気づかれないように、どうにかやり過ごさなくては。
 けれど緊張感が募れば募るほど、ひやりとした思いに胸が疼く。
 男の話した一昨日のこと、――羊たちの放牧地で、名も知らぬ人間に追い回され、石を投げられたことで、――彼らに対するラトの恐怖心は、いつにも増して高まっていたのだ。
 町の人々が何故ラトを恐れるのか、ラトには理解できなかった。だが恐れられていること自体は、よくよく身に覚えがあった。
 その理由とされる特異な目は、いつだって我が物顔でラトを見下ろしていた。そうして鏡を覗く度、水たまりに映る度、ラトへささやかに語りかけるのだ。
 仕方のないことなのだと。
 マカオの子供のうち、ラトだけが学校へ通えないのも、町中を歩くことすら許されないのも、全て仕方のないことだった。町での生活には憧れたが、それは、叶わぬと知っているからこその憧れでもあった。
(僕は、化け物だから)
 町の人々は皆、ラトの事をそう呼んだ。口を揃えてそう言われる度、その言葉はラトの輪郭を確かなものに象っていくのだ。
(仕方がない。僕は、彼らと違って生まれたんだもの)
 だから仕方のないことなのだ。
 じわり、じわりと昏い思いが、人々の作った輪郭に、ラトの形をはめ込んでいく。
(仕方がない。どうしようもない)
 人とは違う目を持つ、――ラトは化け物なのだから。
 
「あの、……私達の相手などしては、先生がお咎めを受けるのではないですか?」
 恐る恐る問われたその言葉に、ラトは答えを返さなかった。幕屋を出、奴隷達の傷を見はじめてから、ようやく五人目の患者である。そう問うた女は頭部に傷を負っており、血で髪を頬に張り付けた出で立ちでいた。だがそれ故に重傷に見えてはいたものの、幸い深い傷ではない。傷口に手早く薬を塗り、ラトは小さく息をつく。
 いくつかの幕屋に囲まれた、掃きだめのような隙間の土地に、十数人の人間が肩を寄せ、ひしめきあっている。彼らは皆それぞれに、大なり小なり戦いによる傷を負っていた。だがどうしてもそれより目につくのは、――右肩に残る、古傷だ。
 楕円形の上から、それを串刺す二振りの剣。彼らを奴隷たらしめる、古い焼き印の模様――。赤黒く色を残し、周辺の肉を歪に盛り上がらせるその痕跡から、ラトはそっと目を逸らした。それを見る度、何故だか酷く心が焦れる。憐れみだろうかと、始めはそう考えた。だが、どうやらそれとは違う。悲しみでもない、怒りでもない。この行き場のない戸惑いをどう受け止めるべきなのか、ラトにはすぐにわからなかった。
「かゆみがある箇所に、塗って下さい」
 乾かしておいたナガの葉に、軟膏を取り分け女性に差し出す。彼女の肌の荒れ方が、あまりに痛々しかったからだ。ボロ布のような衣服を纏っただけの出で立ちで、砂漠の強い日差しの下を歩いたせいであろう。もともと色白であったらしい肌は炎症を起こし、赤く腫れてしまっている。それが痒くて仕方ないのか、広範囲に、酷い掻き傷の痕も見られた。
「薬までいただいては、……」
「他の幕屋に入るなとは言われたけど、あなた達の手当てをするなとは言われてません。――この薬を使い切ったら、それからはクディシャの実をすり潰して、肌に塗るようにして下さい。薬の代わりになります。あれは砂漠でも育ちますから、入手もしやすいし」
 目はあわせぬまま、無理に薬を押しつける。相手がそれを受け取ったのを見て、ルクサーナに患部の血を拭うように頼むと、ラトは一瞬手を止めた。端から、なにやら暢気な話し声がするのに気がついたからだ。
「アフサン? おまえ達、あのアフサンから来たの?」
 心底驚いたといった様子でそう問うたのは、クレモナである。ちらとそちらを振り返れば、先程と同じく何をするでもないまま座り込んでいたクレモナの隣に、一人の少女が寄り添っていた。浅黒い肌に赤みを帯びた目。年の頃は、六、七歳といったところだろうか。彼女もまた奴隷なのだろう。小柄な少女は痩せ細った腕を剥き出しにして、クレモナの真似をするように膝を丸めて座り込むと、「そうよ」と明るく返してみせた。
「あたしが生まれるずっと前のことだけどね。あたし達のご先祖様は、アフサン王国のおうさまのケライだったんだって。だから私ね、よくケライごっこをするの。あそんでいるように見えると叱られちゃうから、一座の人にはナイショだけどね」
 そう言って、少女がふふんと胸を張る。クレモナにその様子は見えていないのだろうが、しかし感慨深げに頷くと、彼女は不意に何かを思いついたように、「なればおまえに命じましょう」と背筋を伸ばしてそう言った。『家来ごっこ』に乗じたつもりなのだろうか。それを命じた彼女の態度は、これまで以上に高慢だ。
「仕事が遅い薬師のせいで、わたくしはとても退屈しているわ。アフサンについて、おまえが知っている事を話して聞かせなさい。彼の王国のことは歴史の授業で少し習っただけだけれど、ずっと興味があったの。話が面白ければ、褒美を取らせてやってもいいわよ」
 「ほんとう?」目を輝かせる少女とは裏腹に、周囲の大人は不安げだ。「サシラ、」と恐らく少女の名を呼んだのは、一人の老婆である。「こちらへ来なさい。お前のような子が近寄っては、お嬢様の綺麗なおべべが汚れるだろう」
「あら。わたくしはそんな事、ちっとも気にしていなくてよ」
 きょとんとした様子で答えたクレモナは、単に少女をクレモナから引き離したかったのであろう、老婆の意図など汲みはしない。
「アバンシリまで旅するために、質素な服を選ばせたもの。汚れようがどうしようが、煩く言うお付きもいないし。それより今の声、随分しわがれているし、老年の者のようね。お前、歳は? シャルク戦争の時、もう生まれていた?」
 シャルク戦争。その単語は、ラトにも幾らか覚えがあった。シャルク戦争と言えば、八十年ほど前に南部で起きた戦争のことだ。レシスタルビアの南方に位置するアフサン王国と、東の夕狼国との間の領土争いが長期化し、周辺諸国を巻き込む大きな戦争となった。タシャが一冊だけ持っていた歴史書に、簡潔に記されていたそれを思い出す。
 そう、こうして思い出して見れば確かに、あの戦争の発端に、アフサンという国の名があった。ここにいる奴隷達は、その国の血を引いているのか。
「シャルク戦争に興味をお持ちとは、随分変わったお嬢様だこと」
 興味津々といったクレモナの様子を見て、老婆がふと視線を落とす。「当然よ」と続けたのはクレモナだ。
「アフサン王国といえば、旧くはレシスタルビア帝国の盟友であったと聞いているわ。なのに今は藍天梁国に軍事介入されて、東の言いなりだと言うじゃない。どんな戦争だったのか、気になるわ。もしやおまえ達がこんなところで奴隷に身をやつしているのも、そこに理由があるんじゃない? シャルク戦争の後、大量のアフサン国民がレシスタルビアに流れたのでしょう?」
 語るクレモナの声は熱い。そうする間に数名の奴隷がこの場へ戻り、手当ての済んだ数名が、代わりに仕事へ戻っていく。盗賊に襲われ、命からがらアバンシリへ駆け込んだからと言って、この旅一座の仕事が無くなったわけではないのだ。収穫祭の本番は明後日に迫っているし、明日にも前夜祭が始まるのだと聞いている。彼らはこれから急ぎ興業の準備を行い、ここでの公演を成功させることで、被った痛手を挽回しなくてはならないのだ。
 しかし。
 仕事に向かう人々が、身内同士でこそこそと、何かを囁きあうのが見える。そうして彼らが一瞬、しかしぞくりとするほど冷たい目でクレモナを睨みつけたのを、ラトは見逃してはいなかった。
(……、きっと苛立ったんだろう)
 咄嗟に視線を逸らし、他人事として、そんな事を考える。好奇心に任せて彼らの境遇に踏み込み続ける、クレモナの厚顔無恥さに腹を立てたのだろう。そう思ったのだ。
(自分は『患者の心に寄り添え』なんて言っていたくせに、聞いて呆れる)
 光を映さぬクレモナの目に、彼らが発した抗議の視線は届かない。だがもし見えていたところで、彼女はきっと、その苛立ちの理由になど気づきやしないのだろうけれど。ラトはひとつ溜息を吐き、次の患者の傷を看る。
 「お嬢様の仰るとおり、私達は元々、戦争難民でした」答えているのは先程の老婆だ。サシラと呼ばれた少女に話させるより、自分が答えた方が幾らかマシだと考えたのだろうか。彼女は目やにの浮いた目でじっとクレモナを見つめながら、静かにこんな話をした。

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