吟詠旅譚

太陽の謡 第三章 // 砂中の灯

040 : Cremona

 精霊達がまたけらけらと、笑いながらラトの耳元を撫ぜていく。だがその一方で、目の前の少女はにこりともせず、きゅっと唇を引き結び、ラトを睨んでいるばかりだ。
――こんなふうに、当たり前のように、精霊を従わせている人間が、おまえの他にいるとでも?
――そこのおまえ、わたくしに、『彼等』の声が聞こえるのかと問うたわね。
 喧騒を逃れた路地裏での邂逅は、まだ記憶に新しい。初めて出会ったときのハティアと同じ金の瞳に、壊れそうなくらいに華奢な体つき。緊張気味にラトを向く彼女の目には、――本当に、精霊の姿が映っているのだろうか。
 しかしそこまで考えて、ラトはぎくりと肩を震わせる。昨日は機会を逸したが、この少女と話をしてみたいとは、確かにラトも思っていた。だがうかうかしていては、また妨害が入るのではないかと、そう考えたのだ。
 昨日はこの少女と話す内、二人の男が現れて、散々な目に遭わされた。セリビアという名の少年と、バルカスと呼ばれた大男。どちらも同じように紺のマントを纏った出で立ちで、この少女を守るように、脇に控えていたはずだ。
「安心して。あの二人なら置いてきたわ。そうでもないと、お前と話をすることはできなそうだったから」
 ラトの動揺が伝わったのだろうか。少女は口早にそう言って、しかし何やら不安げに、そっと右手を差し出した。その手を一度ルクサーナが取り、何故だかラトの手に渡す。「目が悪いそうなの。引いてあげて」と当たり前のようにそう言われ、ラトは余計に混乱した。
 そういえばこの少女は、目が不自由な様子なのではなかったか。それなのにここまで、供も連れずに一人で、ラトを探しに来たのだとでも言うのだろうか。
「あんた、一体――どうやってここに」
 怪訝な声音でそう問えば、彼女は些か胸を張り、「市場で待ち伏せしていたの」とまず言った。声には緊張感が漂っていたが、しかし、どこか誇らしげな様子でもある。「おまえは薬師のようだったから、市場に行けば、会えるんじゃないかと思って。大変だったのよ? セリビア達を撒くために、随分と早起きをしなくちゃならなかったし、市場は思った以上に広くて、どこから探せばいいのか、見当もつかないんだもの」
 「だけど偶然、あたしがあなたの話をしているところに出くわしてね」そう続けたのはルクサーナだ。「年の若い、旅の薬師を探しているって言うんで、連れてきたのさ。人違いでなくて良かった。さ、中へお入りよ。こんなところで立ち話ってのも、なんだろう」
 「ね、いいよね女将さん」問いかけながら、ルクサーナが颯爽と店の中へ入っていってしまう。取り残される形となったラトは、渡された少女の手を無碍に放せぬまま、また周囲を見回した。
 確かに少女の言うとおり、周囲に昨日の男達の姿は見当たらない。だがこの少女が、彼らの目を盗んでここまで来たというのなら、今にも彼女を追ってくるのではないだろうか。
(このままじゃ、また面倒に巻き込まれるな……)
 不安と興奮の入り交じったような表情でラトの手を握る少女を見れば、自然と小さく溜息が漏れる。仕方がない、用件を聞こう。店内を覗き込み、場所を借りても良いかと念のためジャミルに許可を得ると、ラトは少女の手を引いて、店の中へと引き入れた。
「待って、あまりはやく歩かないで、――そうよ、昨日もそうだったわ。おまえ、どうしてそんなふうに、粗野で乱暴なエスコートしかできないのかしら」
「粗野で悪かったな。……、不満なら、放すけど?」
 ラトが端的にそれだけ言えば、近くに立っていたルクサーナに、ぱしんと頭を叩かれた。意地悪を言うなということらしいが、一方で例の少女は、堪えた様子もなく不平を言い募っている。
 叩かれ損だ。釈然とせぬまま少女の手を引き、興味津々といった顔でこちらを見る店員達から距離を取ると、窓側の席に座らせる。そうして正面の席に腰掛ければ、彼女の被ったフードの内から、じっとラトを――ラトの背後の何者かを見る、金色の瞳がよく見えた。
「……そっちから来てくれて、助かった。僕もあんたに、話を聞きたいと思ってたんだ」
 少女がぴくりと眉根を動かし、むっとした顔で目を伏せる。口調を和らげて話しかけたつもりでいたのに、またなにやら不満げだ。
「その呼び方はやめて。なんだか不快だわ」
「『あんた』が駄目なの? じゃ、なんて呼べばいいんだ」
 昨日の男達は、この少女の事をなんと呼んでいただろうか。しかしそれを思い出す前に、彼女の方から言葉が続く。
「お嬢様、とでも呼んでちょうだい」
「冗談じゃない」
「なぜ? みんなわたくしをそう呼ぶわ」
「あんたの周りには、しもべの類しかいないのか?」
 呆れてそう問い返しながら、ラトはふと、昔ニナと読んだ物語のことを思い出していた。物語の中には様々な人間が登場したが、中でも、宮殿に住む姫君や大商人の娘のことを、使用人など彼らにへつらう人々が、『お嬢様』とそう呼んでいたのを覚えている。周囲の人々に傅かれる、高貴な立場の若い女性。目の前に座る彼女も、彼女の居るべき所では、そう扱われているのだろうか。
 だがもしそうであったとしても、ラトには関係のないことだ。
「名前は? それで呼ぶよ」
 話を進めるためにそう言えば、彼女がびくりと肩を震わせる。ほんの一瞬のことだ。逡巡する様子はあったが、彼女はきゅっと唇を引き結び、短くラトにこう言った。
「クレモナよ」
 クレモナ。本で読んだことがある。神話の中に登場する、光の女神と同じ名だ。
「おまえは?」
「……、僕はラト・ヘリオス。早速本題に入るけど、あんたは、……クレモナは、その、」
 ちらりと、少女の顔を覗き込む。フードを被ったままの姿ではあるが、それでも例の金の瞳が、じっとラトの居る方を見据えているという、その事だけははっきりと感じ取れていた。
 このまま問うて、いいのだろうか。そんな思いにふと、一度口を噤んでしまった。精霊の姿を見るというのは本当なのか。その金の目は、はたしてハティアに関係するのか。知りたいことは決まっているのに、なぜだか言葉が出てこない。
――ラト、私にはね、精霊の姿が見えなければ、しっかりとした声も聞こえないのよ。
 タシャは昔、ラトに対してそう言った。
――私達占い師にできるのは、星を読み、風を聞き、大地に語りかけることだけ。占い師はそこに大自然の声を擬人的に見て取って、精霊と呼んでいるに過ぎないの。
 物心がついた頃から、ラトは精霊の声を聞いた。力の多くをなくした今でこそ、天淵石の欠片がなくては上手く聞き取れないことがあるにせよ、幼い頃は当たり前のように、彼らと言葉を交わしていたのだ。雨が降るよと教えられ、叱られたことの愚痴を言い、羊の子供が生まれたことを共に喜んだ。それが特別なことだなんて、ちっとも思っていやしなかった。
 だが今は、――世間の本当を知っている。
(僕が精霊の声を聞くことは、あまり他人に話すべきじゃない。人は異端を嫌う。身をもって学んできたことだ。だけどこの人は、……もし本当に精霊の姿が見えているとして、それを隠そうとは思わないんだろうか)
 そもそも何故、身体の不自由をおしてまで、わざわざラトを訪ねてきたのだろう。しかしラトが言葉を続ける、その前に、
「わたくしには、見えないはずのものが見える」
 呟きのような小さな声で、しかし明瞭な口調ではっきりと、クレモナがラトにそう言った。
「わたくしの家には、たまにそういう子供が生まれるの。生まれながらに金色の瞳を持ち、普通の人間の目に映るものを見ず、代わりに生命の造形だけを見る――。
 わたくしには、おまえの顔がわからない。腰掛けている椅子の形も、隣にあるのが壁なのか、窓なのかも、触ってみなくてはわからない。けれど目の前に、わたくしと同じ年頃の男が座っていることは『見えている』。おまえの造形が見えているの。それに、お前に付き従う『彼ら』の姿、――精霊達の姿もね」
 蕩々と、何か書物を読み上げるかのように淀みなく、クレモナはラトにそう告げた。だが、彼女自身もさもすれば、誰かにそうと告げられて、それを繰り返しているに過ぎないのかもしれない。咄嗟にそう思えるほど、彼女の言葉と態度とは、かけ離れて見えていたのだ。
 明瞭な口調とは裏腹に、言葉を発すれば発するほど、クレモナは肩を丸め、そっと顔を俯かせた。自信なげに、今にも、
 自ら発するその言葉から、逃げ出してしまいたいのだとでも言いたげに。
「生命の、造形」
 意味を問うようにラトが言えば、彼女は俯いたまま、「詳しいことを説明したって、わかりっこないわ」と匙を投げる。「おまえだって色を知らないわたくしに、『赤』というのがどんなものなのかなんて、どうせ説明できないでしょう」
 そう告げる口調は、どこか寂しげだ。しかし彼女は短く息を吐くと、ふと視線を上げ、続けてラトにこう言った。
「それとも、――精霊達の存在を知るおまえなら、わたくしの見るこの世界のことも、既に知っているのかしら?」

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