吟詠旅譚

太陽の謡 第三章 // 砂中の灯

041 : Partis secreto

――君も、精霊の声が聞こえるの?
 ラトがそう問うたとき、背の低いこの少女は、はっとした様子でラトの声を仰ぎ見た。金色の瞳を見開いて、動揺し、そして同時に、
 その瞳に、随分明るい期待を宿して。
 だから実のところ、既に理解はしていたのだ。彼女が何故ラトを探してやってきたのか、身体の不自由をおしてまで、一体何を知りたいのか、ラトにはとっくにわかっていた。
(この人は、怯えないんだな)
 そんな事を、ふと思う。不用意に秘密を漏らしてしまったことで、それが己の身の破滅に繋がるかも知れないなどとは、少しも思っていないのだろう。人とは違う特殊な力があることで、害を加えられたり、誰かを傷つけてしまったりしたことなどないのかもしれない。
 きっと彼女はいつかのラトのように、その異能こそが人々の畏れになり得るのだと、それこそが、己の死の原因にさえなり得るのだと、まだ実感していないのだ。
「さあ、わたくしは一通りのことを話したわ。今度はおまえの事を教えてちょうだい」
 些か頬を紅潮させ、クレモナがラトにそう言った。
「おまえは一体何者なの? 精霊達の声を聞くような口ぶりだったわね。実際おまえは、精霊達に手厚く護られている。その力はどこで得たの? おまえには、精霊達の姿も見えるの?」
 金色のその瞳が、なにやらきらきらと輝いて見えた。その光は瞬時にラトの心に潜り込み、ぼんやりとした、不明瞭な思いを照らしだす。
(僕の旅の目的はあくまでも、暁の都へ至ること――。ニナにマカオで起こった全てを告白して、そして、ハティアの記憶の手がかりを探すために)
 そうだ。その為に旅するのだ。クレモナのことだって元々は、ハティアの記憶の手がかりになるかも知れないと、そう思っただけだった。
 けれど。
「その前に、もう一つだけ確認させて」
 ラトがぽつりとそう言えば、クレモナが「なにかしら」と小首を傾げる。ラトは答えず腰を上げ、ただクレモナの方へと右手を延べると、躊躇無く、
 彼女の額へ手をあてた。
 紺の厚いフードを避け、ふわふわとした細い前髪で隠れた額へ、さっと右手を押し当てる。不意を突かれたクレモナの、短く叫ぶ高い声。店員達の視線が、こちらへ集まるのがわかる。動揺したクレモナは、机へ脚をぶつけでもしたのだろう。彼女が口をつぐみ、両目を瞑るのを見て、ラトは静かに、しかし吐き捨てるように息をついた。
 そうして何事もなかったかのように、すとんと、席に座り直す。
「な、何をするのよ?」
 問われ、「別に」と気の乗らないままそう答えた。
「なんだか顔が赤いから、熱でもあるのかと思って」
 店員達にも聞こえるように、今度は少し、声量を上げる。
「熱なら薬師の出番かと思ったけど、そういうわけじゃないみたいだ」
「だ、だからって、……と、突然、そんな事をされたら驚くでしょう……」
 心なしか更に赤らんだ頬を隠すように、クレモナがさっと顔を伏せる。だが一方で、ラトが態度を崩さずそこにいれば、何事だろうかとこちらを振り返った店員達も、またそれぞれの仕事へと戻っていくのが見て取れた。
 クレモナがどう思おうが、周囲に不審がられずに済んだなら、ラトにとっては十分だ。
 知りたいことは、知れたのだから。
(クレモナ。あんたはきっと、僕に精霊のことを問われて、……仲間を見つけたかのような、そういう気分になったんだろうね)
 心の中で呟いて、そっと静かに目を伏せる。
(僕もそう思ったよ。――ほんの一瞬、だったけど)
 少女の額に触れた、右の指先に爪を立てる。求めた感触はそこになかった。彼女の額には、ただ、滑らかな柔肌があっただけだ。
 見ればクレモナは眉をしかめ、自らの額に手を添えている。ラトに触れられた感触を、消しさろうとでもいうように。
「……クレモナの言う『生命の造形』というのが何か、正直僕にはわからない。僕は普通に目が見える。他人と同じ世界を見てる」
 溜息混じりにラトが言えば、彼女がぴくりと顎を引く。そうして額に触れていた手を下ろすと、机に置いた己の左手に、それをそっと重ねてみせた。彼女の背筋がすっと伸びる。けれどその凛とした姿勢に反するように、指先は、微かに震えをみせていた。
 彼女も失望したのだろうか。きっとそうであればいい。
 どうせこの少女の求める言葉を、ラトは告げられないのだから。
「僕にわかるのは、彼らの声だけだ。僕は生まれつき、彼らの声を聞くことが出来た。とはいえ彼らの言葉は抽象的だし、今となってはよく耳を澄ませてみて、ようやく断片を聞き取れるという程度でしかないけど」
 マカオの地脈で精霊の長と対峙したとき、ラトはその姿を目にしていた。だが始めは竜の姿を、次にはタシャの姿を借りて現れたそれは、クレモナの言う『彼らの姿』とは異なるものと思われる。あえて伝える必要はないだろう。
 「そう、そうなのね」相槌を打つクレモナの声に先程までの張りはなかったが、しかし彼女も、なにがしかの諦めを心得てはいるようだ。「でも、……声を聞くおまえは、精霊の存在を確かに知っているんだわ」呟く声は、先程よりも穏やかだ。
「わたくしには、彼らの声はあまり聞こえないの。全く聞き取れないわけではないのだけど、本当に必要なときだけ、彼らが声を張り上げてくれて、それをなんとか聞き取っているという程度だわ。おまえは、それよりは日常的に彼らの声を聞くのかしら?」
「そうだね、……。クレモナが僕を訪ねてきてから、なにやら楽しそうに忍び笑いしているのが、聞こえてくる程度には」
「ああ、やっぱり笑っているのね。さっきからみんな、なんだか楽しそうな表情をしているな、とは思っていたの」
「そういう表情は、読み取れるものなの?」
「そうよ。普通の世界を見る人達が言う『表情』とは違うのかもしれないけれど。……ああ、でも昨日」
 クレモナがふと顔を上げ、またラトの背後へ視線を移す。しかしその目は一点を見るのではなく、何かを探すように移ろってから、「昨日、おまえと一緒にいた精霊は、とてもはっきりした輪郭をしていたの」とそう告げた。
――この人の後ろには、とても優しそうな……女性の姿をした精霊が、じっと付き従っている。彼のことを護っているのよ。
 ふと思い出したその言葉に、ラトの胸がちくりと疼く。確かに昨日も、クレモナはそう言っていた。ラトはそれを聞き、きっとハティアのことに違いないと、そう考えたのだ。
「その人は、……その精霊は、今はここにいないの?」
「そうね、そうみたい。いつもおまえに付いているわけじゃないのかしら」
「なんにでも好奇心旺盛だから、きっと町を見て回ってでもいるんだろ」
「好奇心旺盛な精霊なんて、そんなものがいるの? まるで、人間のように言うのね」
 当然だ。精霊のように見えたとしたって、彼女だけは特別だ。今は自身の形を忘れているだけで、精霊ではなく、人間なのだ。しかしそう言葉にはせず、ラトはまた一度溜息を吐いた。
 町の外で待っていると言っていたのに、勝手にラトについてきて、今度は町の見学か。そう思えば、彼女の気ままな振る舞いが、やけに身勝手に思われる。
「あの精霊のこと、詳しいの?」
 クレモナに問われ、頷いた。しかしそうしてから、彼女には仕草では伝わらないことを思い出し、「知ってるよ」と言葉を続ける。
「よく知ってる。あんたと同じ、金の目をした女性でしょう」
 そういえば、金色の瞳をしたハティアはしかし、ラトと出会った頃にはまだ、精霊の存在などまるで知りはしなかった。ラトと共にこの世界へ戻ったのち、精霊の声が聞こえるようになったようだと話していただけだ。クレモナとは違い、彼女はラトと同じように物を見ている様子であったし、色の違いもはっきりと認識していた。
(クレモナの目と、同じなのは色だけか、――)
 だがそう結論づけてそっと目を伏せ、ラトはぎくりと、息を呑む。
 目の前に座るこの少女が、弾かれたように顔を上げた。何事だろうかと肩を震わせたラトの視界に飛び込んできたのは、先程以上に期待の色に満ち溢れた、この少女の表情だ。
「そうなの?」
 何を問われたのかはわからなかった。だがそう問う言葉はこれまでと打って変わった響きを持ち、雑然とした店内に響き渡る。
「あれが、『金色』という色なの? ああ、でも、おまえに見えている色と、わたくしが感じた色とは違うのかしら。でもね、昨日、ひと目見たときから、なんて美しい光り方なのかしらと思っていたの。あれが『金色』なら、わたくしの瞳にも同じ色が宿っているなら、それはとても嬉しいことだわ。それに、ねえ、よく知っているのならもっと教えて。わたくしが本当に知りたかったことを、もしかしておまえは知っているのかもしれない。だからまずはあの精霊の、――」
 興奮した様子で捲し立てるクレモナに、ラトの血の気が引いていく。大声を出すものだから、店員達の視線が再びこちらに向いていることに気づいたのだ。
 これ以上、話を続けられてはたまらない。ラトは一瞬躊躇ってから、しかし再び手を伸ばすと、彼女のフードを引っ掴む。そうして彼女の顔を覆い隠すように、一息にそれを引き下ろした。
「勘弁してくれ」
 押し殺した声でそう言うと、一拍静かな間があった。しかし続けて、「悪かったわ」と、幾らか落ち着いたクレモナの声。「だから、手を離して頂戴」
 不快な汗が背筋をなぞる。不用心な人物だと思ってはいたものの、こうまで周囲に気を配ることが出来ないのは、彼女の見ているその世界が、人のそれとは異なっているせいなのだろうか。こんなところで大声で、精霊のことを語ろうとするなんて。
「普通の人間は異能を嫌う。少しは自覚した方がいい」
 分厚いフードから手を離し、固い口調でそう言った。そうしてラト達の様子を窺う店員達に、気まずいままで会釈をすると、ラトは己の荷を担ぐ。
「……、行こう」
 「どこへ?」と怪訝な様子で言うクレモナの声。ラトは彼女の手を取り、立ち上がらせると、有無を言わさずこう続けた。
「あんたの仲間が、見つけてくれそうな所まで送る。歩く間に少し話そう。それで終わりだ」
「えっ? だ、だめよ、それじゃ。おまえに聞きたかったことを、まだ少しも聞けていないわ。それに、昨日おまえに従っていた精霊にも、もう一度会いたいし、」
「彼女とは、どうせ町の中じゃ話せない。いつ戻るかもわからない」
「話せないって、何か理由があるの? ねえ、あの精霊が戻るまで待つわ。その間に、意思疎通する方法も考えてみる。だから、」
「……、それまで僕につきまとう気?」
 辟易するのを隠しもせずにラトが問うても、クレモナは少しも怯まない。それどころか手探りで掴んだラトの袖口をぐいと引くと、一度きゅっと唇を引き結び、「探しているものがあるの」とそう言った。
「おまえがそれを与えてくれるなら、今すぐこの手を放すわ。おまえにも、もうこれ以上つきまとわない。けれどそうでないなら、今は少しでも情報が欲しいの。その精霊にも会わせてほしい」
 クレモナの手に力がこもる。こんなに白く、細い指の一体どこに、これだけの力があったのだろう。そんな事を考えながら、しかし彼女に背を向け、まずは短く「無いよ」と答える。
「あんたが欲しがりそうな物なんて、僕は何も持ってない。でも、つきまとわれるのも迷惑だ」
「おまえ、薬師でしょう。わたくしが探している物も、その、薬のような物よ」
「……、一応聞くけど、何が欲しいの」
 ラトを引き留めようと仁王立ちになるクレモナに、嫌々ながらもそう問えば、彼女がほっと息をつく。
「果を」
「か?」
「そう、『天果』を……。わたくしは、万病を癒すという天の果実を探しているのよ」

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