吟詠旅譚

太陽の謡 第三章 // 砂中の灯

039 : Gradus primus

「最近、膝が痛んでたまらねえのよ。どうにかならねえかな」
「え、えっと、これを試してもらえますか? コルチカムの軟膏です。お湯に溶いて使って下さい」
「私は最近、寝付きが悪くて。眠り薬とかそういうの、安く売ってくれない?」
「眠り薬は使いすぎると身体に良くないので、それより枕元にアグリモリーの香薬を置くのがいいと思います。切ったタマネギを、枕元に置くのでも良いです。あとは血流を良くするために、身体をよく伸ばすとか」
「トウテイの花が咲くと、どうも鼻がむずむずして」
「それならゴマ油で作った点鼻薬も効きますけど、……卵とレンコンで炒め物を作って食べるのも、あの、」
「医者先生、次は私も」
「ちょっと、順番守ってよ」
「あたしのことも診ておくれよ、医者先生」
 重ねて続くそれらの言葉に、じわり、じわりと汗をかく。何故こんな事になったのだ。己に問うても答えはない。目のまわる思いで次々に投げかけられる問いを受け、必死にそれへの答えを返す。問われることも、答えることも苦ではない。だが、――好奇心に満ちた表情でラトを取り囲み、次々に言葉を発する人々のその視線が、緩やかにラトの心を締め上げる。
 小さな窓から光の漏れ入る、薄暗い店の中にいる。しかし机と椅子の多く並ぶ室内にいるのは、ラトの他に十数人の男女だけであった。九割が女。いずれも店の客ではない。この店の従業員と、噂を聞きつけて集まってきた、周辺の店の従業員達である。彼らは皆このアバンシリの町の住人であり、普段は大通りからは大分離れたこの辺りの店で、旅人を相手に酒を振る舞う商売をしているのだという。
 大オアシス、アバンシリの町の商人達。だが彼らのほとんどは、ともすればラトが道中見てきた旅人達よりも、ずっとくたびれた衣服を纏っている。その彼らにラトは今、退路を断たれるかの如く、ぐるりと取り囲まれていた。
「三日くらい前かなぁ。耳に虫が入った気がしたんだけど、それきり出てこないんだよ。なんだか気になっちゃって」
「見た感じ、何もいませんけど……、羽音はしてますか?」
「ううん、しない」
「気づかないうちに、外に出たのかもしれません。どうしても気になるなら、耳の近くでカンテラを灯してください。光に誘われて出てくるはずです」
 「ああ、なるほどねえ」相手の女がいやに納得した様子で、晴れ晴れとした笑みを浮かべる。「医者先生。あんたまだ若いのに、なんでもよく知ってるねえ」と続いた言葉を聞いて、ラトは乾いた笑みを浮かべた。何故こんな事になったのだ。再び問うても当然ながら、納得のいく答えはない。ただ、ラトをこの渦中に放り込んだ張本人を視線で追おうとし――、「医者先生」とまた呼ばれたのを聞いて、小さく溜息を吐く。
「医者じゃないです。や、薬師です……」
 彼らと視線を合わせられぬまま、やっとの事でそう言った。だが控えめなラトの主張など、「どう違うの?」と問うた脳天気な声で、たちまちの内に掻き消されてしまう。
(どう違うも、何も)
 この国レシスタルビアで医者を名乗ることが出来るのは、学術機関カダ・マドラサの中の一つ、マラド・マドラサを卒業した者だけであることを、今のラトは知っている。マカオの丘で人々の病を癒していたタシャだって、先代のばあさまだって、医者を名乗ることは許されてはいなかった。そんなこと、この大都会に暮らす人々ならば、知っていそうなものなのに。
「あんた、施療院で医者にかかったことがあるって言ってたね。この若い先生と、医者っていうのはそんなに違うのかい?」
「どうだったかなぁ。この先生と違って、あんまりこっちの話を聞こうとはしてくれなかったかな。適当にあしらわれたよ」
「俺は蛭で血を抜かれたぜ。あんな経験、金輪際ごめんだね」
「ふうん。じゃあこれから怪我や病気をした時は、医者より薬師に相談した方がいいかね」
 そう言って、ラトを取り囲む人々がまたけらけらと笑う。ああ、駄目だ。そうではない。きちんと否定をしなくては。しかしそれだけの気力も湧かないまま、ラトは頬に浮いた汗を袖で拭うと、列に並んでいた女性の手を取り、脈をみる。
 「食欲はありますか」ラトが問えば、女性がうーんと首を傾げた。
「それが、あんまりないのよね。胸がむかむかすることが多いし、眩暈も多くて。お酒で酔うのも早くなったわ」
「昔は樽ごと酒を飲むようなやつだったのにね」
 横から入ったその茶々に、女性が頬を膨らませる。「今だって飲めら」とくだを巻くように答えるのを見て、しかしラトはきっぱりと、「しばらく飲まないでください」と釘を刺した。
「酒の飲み過ぎで、胆が悪くなっている可能性があります。年齢を重ねる内に酒に弱くなる人もいるので、量には気をつけないと、」
「つまりババアは、酒も程々にしろよって事か」
「横からごちゃごちゃうるさいよ」
「酒って言やあ、昨日のあんたの飲みっぷりも、なかなかのものだったけどねえ。ラト」
 背後から聞こえたその声に、思わずすっと背筋が伸びる。同時に、ラトの手元へグラスが置かれたのを見て、顔を上げれば、見覚えのある女性の姿がそこにあった。
 人好きのする笑みを浮かべた、ふくよかな体格の女店主――鷹匠の青年に紹介されたからと、宿までラトを迎えに来たあの女性、ラトをこの場へ放り込んだ、張本人の姿である。
 「ジャミルさん、」疲労を隠せぬままラトが呼べば、彼女が小さくウィンクする。そうしてラトを取り囲む人々の中に押し入ると、「全員診てもらったかい?」と張りのある声でそう問うた。
「ほら、離れて離れて。そんなにみんなで取り囲んだんじゃ、薬師センセが恐縮しちまうだろ」
 ありがたい気遣いだが、もう少し早く言ってはもらえなかったものだろうか。そんな事を考えながら、今朝方自分も世話になったガザラの煎じ薬を取り出し、先程の女性に手渡した。そうしてようやく一息をつき、長椅子の背もたれに寄りかかる。
 どっと疲れた。キリと朝食を摂っていたところへ、この女性、ジャミルが現れたのが、既に数時間は前のこと。薬を売って欲しいと言われ、どのような薬が欲しいのかと問うたところ、彼女はラトを己の店へ招き、従業員達一人ひとりから要望を聞いてほしいと、そう言ったのだ。
「疲れたろ。ちょっとお休みよ。オレンジを搾ったのと、ザクロを搾ったの、どっちがいいかい?」
「……、お金がないので、安い方で……」
「馬鹿だね、お代は取らないよ。随分時間を取らせちまったからね。まあ、好きなだけ飲んでおくれ」
 言って彼女はからからと笑い、ラトの手元にもう一つグラスを並べると、それぞれに違う果実のジュースを注ぐ。正直なところ、ありがたい。先程から喋り通しで、すっかり喉が渇いていたのだ。ラトが二杯ともをそれぞれ一気に飲み干せば、この店主は「良い飲みっぷりだね」とまた笑った。
「酷い汗だものね。この部屋、暑かったかい?」
 「いえ、……」汗をかいたのは、そういう理由からではない。ラトを取り囲んだ人々の好奇の視線を思い出し、それを振り払うように目を伏せる。店内のほとんどが、女性であったのがせめてもの救いであった。もしラトを囲んだのが、マカオの町でそうであったように、大の男ばかりであったなら――、きっと、冷や汗をかくだけでは済まなかっただろう。そんな事を考える。
 黙り込んでしまったラトの事など気にした様子もなく、ジャミルがラトの正面の席へ、まずはどすりと腰掛けた。ラトがふと視線を上げれば、彼女は手にした木箱を開き、「これくらいでいいかい?」と、不揃いな紙幣の束を差し出してみせる。
 それを見てラトは、思わず目をしばたいた。
 彼女の差し出した紙幣はどれもしわしわに折れ曲がり、所々破れていたが、それなりの金額であることが見てとれた。多すぎる。そう思った。彼らの話を聞く中で、確かに数人には薬剤を渡したが、たいした量ではない。彼らの悩みのほとんどは、食生活や生活習慣で改善できる程度のものであり、薬剤は必要ではなかったのだ。
「こんなには、あの、」
「薬の代金と、診察料って考えたら、多すぎることはないでしょ。施療院に行ったら、この三倍は取られるよ」
「で、でも、診察って言うほどの事はしていないし、僕は、医者でもないし、」
「あんたの知識に対する代価だ。私らみたいな人間には、施療院はちょっと敷居が高くてね。あんたに診てもらえて良かった。大体あんた、タマネギがどうとかレンコンの料理がどうとかってアドバイスばかりして、あれじゃあ薬は、たいして売れなかっただろ」
「それは、その……」
 ラトを置いてすっかりどこかに行ってしまったと思っていたのに、どこかで様子を見ていたらしい。確かにその通りなのだが、しかしはっきりとそうは言えないでいるラトを見て、「あんた、患者の前ではあんなにしっかりしているのにね」と彼女は苦笑した。と同時に、周囲の机からもけらけらと囃す笑い声。先程まで、ラトを取り囲んでいた人々だ。
「本当だよ、さっきはあんなにテキパキしてたのに」
「まあ、でも、そこが可愛いところよね。ねえねえセンセ、この後なにか、予定はあるのかい?」
 長い髪を一つに結んだ女がそう言って、ラトの隣へ滑り込む。近い。ともすれば相手の息がかかりそうなほど顔を寄せられて、ラトは咄嗟に横へとずれた。額当てをしているとはいえ、何かの拍子に額のこの目を見られでもしたら。そう思えば、またじわりと汗をかく。しかし肩を強ばらせるラトの一方で、彼女はお構いなしに微笑むと、また容赦なく距離を詰めてくる。
「よかったら、このアバンシリの町を案内してあげるよ。祭が近いんで、どこへ行っても賑やかで、楽しいと思うなあ」
 昨晩のジャミルといい、この店の女性は何故こうも、人との距離が近いのだろう。店の趣旨に想像が至らぬまま、心の中に湧いて出るもやもやとした思いに首を傾げる。そうする側から、すらりと延びた女性の手が、そっとラトの膝を撫でた。
 「ねっ、一緒に行こうよ」と、有無を言わさぬ明るい声。同時に、
――ハティアとどういう関係なのか知らないけど、触れないんじゃ物足りないだろ?
 脳裏に甦ったキリの言葉に、ラトはいささか赤面した。
 何故、今、その言葉を思い出すのだろう。ごくりと唾を飲み、咄嗟に立ち上がってしまったラトを見て、相手の女性が不思議そうに瞬きした。それもそうだろう。ラトだって何故そうしてしまったのだか、自分でもよくわからないのだ。
 けれど。
「おや。お帰り、ルクサーナ」
 暢気な声でそう言ったのは、ジャミルの声だ。まだいくらか混乱したまま、ラトがつられて振り返れば、一人の女性が店の入り口に立っている。
 健康的に日に焼けた、すらりと長身の女性である。彼女はちらりとラトを見ると、切れ長の目を細め、親しげに微笑んでみせた。
「ちょうど良かった。あなたが例の薬師さんね? 彼から話は聞いているわ」
 恐らくは、鷹匠の青年のことであろう。ジャミルにラトを紹介したのも、恐らく彼であったはずだ。
「鷹匠さんの、お知り合いですか?」
 ラトがそう問えば、彼女はきょとんとした顔をしてから、何やら明るい声で笑う。「鷹匠? あらあら、騎士職ははやくもお役ご免となったのかしら」そう独りごちる声は、鈴が転がるかのように軽やかで、楽しげだ。けれどそうして笑う彼女の袖を、外から、そっと引っ張る影がある。
「ああ、そうそう。ごめんなさいね。――薬師さん、あなたにお客さんよ」
 そうして彼女が手招きするのを見て、ラトは思わず眉根を寄せた。客。全く心当たりがないのだが、ラトを尋ねてきたのなら、キリだろうか。だがあの男なら、こうしている間にもずけずけと、店の中へ入ってきそうなものなのだが――。
(ジャミルさんみたいな、仕事の依頼だと助かるんだけど、……)
 だが、先程のように取り囲まれるのだけは勘弁したい。そんな事を考えながら、招かれるまま入り口に立ち、
 驚いた。
「おまえ、こんなところにいたのね。随分探したのよ」
 頭からすっぽりと纏った厚みのある紺のマントに、豊かに編んだ栗色の髪。
 高圧的な口調でそう言い、視点の定まらぬ目でラトを睨み付けたのは、――昨日出会った、あの月色の瞳の少女だったのだ。

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