吟詠旅譚

太陽の謡 第三章 // 砂中の灯

034 : Abancilli -2-

 見透かすような瞳であった。相手の内側へ潜り込み、瞬時に全てを読み取るような、――
 それは、そういう目であった。
 ぎくりとしたラトが左手を上げ、きつく巻いた額当ての上から咄嗟に自らの額を押さえ込む。すると相手は何も語らず、何事もなかったかのように視線を逸らすと、先に店を出た仲間を追い、静かに店を出ていった。
(今の、一体……)
 色の白い、華奢な体つきの少年であった。ラトより少し、年上だろうか。意志の強そうな紫水晶の眼は静かに、だが不躾と思われるほど真っ直ぐに、ラトのことを見つめていた。
(僕の額を、見た気がしたけど)
 考えすぎだろうか。そんな事を思いながら手を下ろすと、今度は奥から「いらっしゃい」と、店主の声が聞こえてくる。
「ご用件は?」
 そう問う声が、なにやらやけに疲れている。「薬を売りたいのですが」緊張気味にラトが言えば、相手はまずラトの頭から爪先までを一瞥し、「はいはい」と軽い調子でそう言った。
「あの、……キトリ草とアスル、ラシールを持ってきました。どれも乾燥させてありますから、挽けばすぐに傷薬として使えます。ナフルとスズナルを煎じて作った丸薬もあります。こっちは腹痛を和らげる効用、その軟膏は消毒の作用もあって……。あと、その、まだ乾燥させきっていませんが、砂漠のアダラも少しなら」
「その薬、誰が作ったんだ?」
「それは僕が、あの、……私が作りました」
 店主がふうんと小さく返し、ラトが手にしたアダラの葉を、ひょいと奪って光に透かす。そうして彼は台に並べられた物のうち薬草だけを片側に置くと、「六百セシードってところだな」と端的に言った。
「加工済みの薬は買い取れない。何が混ざっているやら、客に保証ができないんでね。キトリ草もこの辺りではあまり使わないんで、アスル、ラシール、アダラのみ買い取る。それで六百セシードだ」
「六百、……」
 思わぬ数字に、口ごもる。薬草だけの金額にしても、これまでの町での相場を考えれば、ラトが想定していた金額の五分の一にも満たない額だ。それだけの収入では、アバンシリに滞在中の宿泊費ですら、払えることやら危ういだろう。
「悪いが、それ以上は出せないからな。不満なら他所の店へ行ってくれ」
 無愛想な店主の言葉に追い立てられるようにして、致し方無しに店を出る。アバンシリの町は変わらず喧噪にごった返し、多くの人で賑わっていた。
(上前をはねられるとは、聞いていたけど、……)
 薬屋だって商売だ。可能な限り安く仕入れようとするのは当然のことであるが、それにしたって、あの金額ではラトの商売が成り立たない。小さく溜息を吐き、またのそのそと大通りを歩いて行く。これだけの大きな町だ。先程の店の他にも、薬屋はいくらでもあるだろう。店によっても買い取りの基準は違うだろうし、この街での売り買いの相場を確かめながら、他の店でも値を付けて貰うことにしよう。恐らく、もう少しはまともな値段を付けてくれる店もあるはずだ。そう考えた。
 だがそれがどれ程甘い考えであったのか、ラトが思い知らされたのは、その数刻後のことである。
 疲れ果てた足取りで、ふらふらと辺りを見て回り、賑わうアバンシリの道を練り歩く。どこでもいい、どこかで足を休めたい。ここではほんの一瞬辺りに気を取られていると、すぐ誰かしらに突き当たる。その度に小さな声で謝罪をし、身につけた額当てがずれてしまっていないことを何度も確認しながら、ラトは一つ、大きく深い溜息を吐いた。
 人も騎獣も多く行き交う、このアバンシリの大通り。それが今のラトには、砂漠の旅路よりも余程過酷な道に思われた。
 横道へ逸れる形で道を渡れば、ようやく足を止められる場所に辿り着く。頬に浮かんだ汗を袖口でぐいと拭い去り、ふと自らの荷物に視線を落とすと、何とも言えぬ苦い思いが胸に落ちた。
 アバンシリの町を訪れた際、ラトが持ち込んだ薬剤が、そっくりそのままそこにある。アバンシリの町中を歩き回り、半日をかけて十数店舗の薬屋をまわったというのに、結局、期待するような額での取引がかなわなかったのだ。
(店舗での販売額は、相場より高いくらいなのに、……)
 ラトが持ち込んだ薬剤の質は、けっして悪いものではないはずだ。だがラトが話を持ち出すと、ある店主には子供をあやすかのような声音で買いたたかれそうになり、ある店主には容赦なく邪険な態度で、商談自体を断られてしまった。
(子供だからと甘く見られるのか、それとも)
 薬屋で買い取って貰うことができないのならば、と、キリの話した自由市場にも赴いた。だがそこでの事を思い返せば、惨めな思いが増すばかりだ。
 大通り以上に人が溢れ、ごった返すその市場では、多くの旅人達が銘々に商品を並べ、訪れる客達と盛んに会話を交わしていた。商いを行う人の多くは見慣れぬ衣服を身に纏い、名もわからぬ騎獣を連れており、高らかに人を呼び込んでは、己が持参した商品を売り捌いている。だが一見楽しげなそれらの風景の一方では、人が人を罵倒する、不穏な声も聞こえていた。
「こういうところでは、場所取り争いが絶えないんだ」
 様子を窺っていたラトに、近くで品物を並べていた少年がそう言った。
「どの土地でもよくあることだ。特にアバンシリは今、収穫祭の影響で人口が増えてるしね。一度場所を取ったら、朝から晩まで誰かが番をしてないと、あっという間に横取りされる。そうしていても、ああやって難癖を付けられることはあるみたいだけど」
 ターバンを巻いた浅黒い肌の少年は、他人事じみた口調でそう続けた。それだけ言って悠々と読書をはじめる彼自身はどうやら、キャラバンに所属しているのだろう。広く場所を取ったその店には、美しい布地や宝飾品、煙草や武器類が数多く並べられており、彼の他に幾人も、客と交渉し商品を売る人々がいた。見ればその傍らには、棍を持った体格の良い青年も控えている。けっして威圧的なふうではないが、彼がそうしているだけでも、大抵の人間はこのキャラバンに『難癖を付ける』気など起こさないのだろうと納得がいった。
 先程の少年がラトの荷をちらと見て、「こういうものもあるけど」と一冊の本を指す。薬学の本だ。ぱらぱらとめくってみれば、ラトがマカオの丘では知り得なかった事柄に関しても、多く記されているのが見て取れた。
 こういった知識が足りていないために、ああも足元を見られるのだろうか。そう考えればその本も、喉から手が出るほど欲しいには違いなかったが、買いとるだけの金もない。ラトは黙ったまま首を横に振ると、そそくさとその場を後にした。
 そうして人混みの中を進み続け、足を休ませられる場所を、喧噪からほんの一瞬でも遠ざかれる場所をと探して歩きまわり、ようやく足を止めることができたのが、このどこへ続くとも知れぬ薄暗い横道の側であった。
(――上手くいくとかいかないとか、そういう段階の話じゃない)
 そう考えて、また深々と溜息を吐く。もしもここにハティアがいたら、彼女はきっと「溜息ばかりね」と、控えめに言って微笑むのだろう。
――ラトだって、きっとすぐ上手に、商売できるようになるわよ。
 また小さく息をつき、壁に背を任せ目を瞑る。すると大通りに響く張りのある声達が、一層強くラトの鼓膜を貫いていく。
「さあ、見ていってくれ! 採れたばかりの新鮮な野菜だ。どうだい、宝石みたいにつやつや輝いているだろう!」
「錦の都、ドルフから仕入れた絨毯だよ! こんな巧緻な模様は見たことがないだろう? ご覧なさいよ、この美しく描かれた星空を。この絨毯があれば、有名な御伽噺のように、空だって駆け抜けていけそうじゃないか!」
(宝石のような野菜やら、空を駆ける絨毯やら、……そんなものが、あってたまるか)
 八つ当たりに毒づいて、ふと、タトリーズの町での事を思い出す。冗談半分にラトの商売を手伝ったキリは、「狼に噛まれた傷口も、この薬を塗りさえすれば、ひと月でほらこの通り!」と口上をまくしたて、客を集めると、したり顔でラトを見た。
 恐らくラトも、同じようにすればいいのだ。店を広げる場所が無いのなら、品物を掲げて声を上げ、市場を練り歩けばいいのだ。――しかし。
 一人ぽつんと立ち竦み、ゆるゆると奥歯を噛みしめる。そうしているとどうしても、キリの口上を聞きつけて、人々の視線が一斉にラトへ集中した、その時のことが思い出された。ラトの事など何も知らない、タトリーズの人々のこと。彼らの目はただ純粋な好奇の色に染まるばかりであったのに、ラトにはそれが、息苦しくてたまらなかった。
 冷や汗が出て、止まらなかった。
(だけどこのままじゃ、収入が無いまま日が暮れる)
 流石にもういつまでも、キリに頼ってばかりはいられない。暁の都を目指すため、必ず途中で収入を得るからと説得して、無理にキリを雇ったのだ。自ら発したその言葉に、何とかして責任を果たさなくては。
 情けなさにまた溜息を吐いて、己の荷物を一瞥する。思ったほどの金額ではないにしろ、薬屋で買い取ってもらえるものだけでも、買ってもらうしかないだろう。しかし重い腰を上げたラトが、再び大通りへと足を向けた、その時だ。
「セリビア! おまえ、わたくしをこんなところへ一人置き去りにするだなんて、一体どういう了見なの?」
 突然響いた女性の声に、ぎくりと肩を震わせる。幅の狭い、薄暗いこの横道に、いるのは自分ばかりと思っていた。しかし咄嗟に背後を振り返り、ラトは思わず息を呑む。
 距離を置いた横道の角から、猛然とこちらへ歩み寄る、一つの人影がある。幾分小柄なその人物に、ラトには確かな覚えがあった。厚みのある紺色のマントを、頭から被ったその出で立ちは――、顔こそ見えないが、恐らく間違いない。はじめに寄ったあの薬屋で、すれ違った人物である。
 先程は三人でいたはずだが、今は彼女一人なのだろうか。ラトが反射的に後ずされば、彼女もまた真っ直ぐに、ラトの方へと向きを変える。どうやら、誰かと勘違いされているようだ。だが薄暗い横道とはいえ、これだけ近づけば、人違いであると気づきそうなものなのだが。
「バルカスもおまえも、本当に勝手なんだから! ひ、一人でいて、わたくしの身に何かあったら、どうするつもりだったのですか!」
 彼女が拳を振り上げたのを見て、咄嗟に退いてそれをかわす。「ちょっと待って」とラトが言えば、「待ちません!」と肩を怒らせて少女が言った。
「人違いだと思います。僕はその、セリビア? って人じゃない」
「おまえはいつもそう。そうやって声色を変えて、わたくしの事をからかうんだわ」
「声色? いや、よく見て。声だけじゃなく、顔も姿も違うでしょう」
「見えないことなど百も承知だろうに。こんなふうに、当たり前のように、精霊を従わせている人間が、おまえの他にいるとでも?」
 『精霊』。突然彼女の口をついて出たその言葉に、ぎょっとしたラトが足を止める。これを好機と受け取ったらしいこの少女は、しかし容赦なくラトの腕を叩いてから、
 間を置いて、はっと小さく息を呑んだ。
「おまえ、まさか本当に、……本当に、セリビアではないの?」
 ラトの腕に拳を置いたまま、そう問う声が、震えている。
 恐る恐るラトが頷いても、彼女はそのまま動かなかった。だが心底気まずそうに腕を震わせて、数秒の後、――弾かれたように、顔を上げる。
 目深に被った彼女のマントが、風に煽られて肩に落ちる。長く編まれた栗色の髪が、ふわりとラトの視界を舞った。きゅっと結ばれた口元が、それでも何か言いたげに、必死に言葉を選んでいる。
「だって、でも、そんなことがあるだなんて思わなかったから、」
 戸惑いきった彼女の声は、しかし不思議な透明感を帯びて、この横道に響いている。ああ、やはり、薬屋ですれ違った少女に違いない。けれどそんな事を考えながら、ラトの意識はただ一点に、――彼女のその目に注がれていた。
 視点の定まらぬ彼女の目は、いつかハティアに見たのと同じ――澄んだ金色に輝いていたのだ。

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