吟詠旅譚

太陽の謡 第三章 // 砂中の灯

033 : Abancilli -1-

 さらさらと流れるようであった土壌に水が注し、徐々に地盤を固めいていく。南北を走るアル・カウン山脈からの雪解け水を受容するオアシス街、アバンシリが近づくにつれ、荒野の土にも青々とした草葉が混じりはじめていた。
 人通りが増す前に、とハティアと別れたのが今朝方のこと。それからラトはキリと二人、背の高い岩壁に囲まれた街道を延々歩いていた。けっして狭くはない道だが、すれ違う旅人達は皆大きな荷を騎獣にくくりつけ、あるいは大きな車を引き、意気揚々とアバンシリの町を後にしていく。彼らの纏う見慣れない模様の衣服を見、そして彼らの連れた逞しい毛並みの騎獣を横目に見ながら歩いてゆくと、そのうち、どこかから聞き覚えのある旋律が流れてきた。
   はじまり告げるは鳥の声
   花舞う彼方 約束の場所
 旅人の内、誰かが歌っていたのであろう。この国レシスタルビアでは、祭事が催される度に広く歌われる建国の歌だ。以前ハティアと共に奏でた馴染みのある歌を、遠く離れた見知らぬ土地で耳にするのは、何とも言えず胸が湧く。
「そうか、収穫祭の時期なんだな」
 嬉しそうなキリの声。ラトが顔を上げれば、彼はふと思い当たったかのように、「そういう祭も初めてだろ?」にやりと笑んでラトに言った。
「……、どんなものかは知ってるし、見たこともあるよ」
「丘の上から見てただけだろ? 参加するのは初めてだ」
「そうだけど。でも収穫祭って、本来は土地の恵みに感謝する祭でしょ。町の人達がするみたいにどんちゃん騒ぎをしたり、酒に酔ったりするものじゃないと思うけど」
「まあまあ、そう固いこと言いなさんな。来いよ、こっちからだとアバンシリの町が一望できるから」
 手招きされ、気乗りしないながらもキリの後に続いて歩く。正直なところラトにとっては、祭がどうこうということよりも、この町で上手く商いをできるかということの方が、目下の関心事としては余程重要であった。この町を抜ければ、またしばらくは砂漠の道を行くことになる。その為に必要な食糧や道具を買うためにも、なんとしてでもこの町で、まとまった収入を得なくてはならないのだ。
 その上、しばらく昼夜の逆転した生活を送っていたために日中は眠気が増して仕方がなかったし、歩き通しであったためか、膝や背筋がぴりぴりと痛んで仕方がない。とてもではないが、祭を楽しむ余裕などはないだろう。そんな事ばかりを考えていた。
 だが、しかし。
 導かれるまま歩みを進め、岩壁の途切れたところで思わず、足を止める。「どうだ? この『砂の丘』からの景色は」にやにやと笑うキリを一瞥し、ラトはまた、すぐ眼下に広がる広大な町へと視線を運んだ。
「これが、アバンシリ」
 思わず一つ、呟いてしまう。
 砂漠の大オアシスと呼ばれたその町が、確かにラトの目の前にあった。建物といえば赤茶けた日干し煉瓦を積み重ねたものか、木造が一般的であったマカオとは違い、そこには美しいタイルを貼られた家々が地平線を埋め尽くすように建ち並び、その合間合間には、彩釉煉瓦をふんだんに用いた大きな建物が、異様な存在感を放ち鎮座している。あちらこちらに華々しくレシスタルビアの国旗が翻り、大通りは遠目にも、沢山の店が出、色鮮やかな衣服を身に纏った人々でごったがえしているのが見て取れた。
 ラトの知るマカオやバーバオ、途中で立ち寄った小さなオアシス街とは、明らかに規模が異なっている。眼を細め、照る陽の光を右手で遮りながら見渡せば、遠く町の西側に、きらきらと輝く三日月型の湖があった。
 これがアバンシリ。
 これが、砂漠を行く旅人達を潤わす、砂漠の大オアシスなのだ。
 しばらくぽかんと眺めてしまってから、はっとなってキリに背を向ける。「感想は」と問われ、「大きな町だ」とだけ答えれば、キリはくっくと笑ってみせた。
「言っておくけど、お前の目指す暁の都の大きさはこの比じゃないぞ。アバンシリは交易の要所とはいえ、あくまでただのオアシスだ。それに比べて暁の都は、この広大なレシスタルビア帝国の帝王がおわす、神聖なる都だからな」
 ごくりと一つ、唾を飲み込む。そうしてキリに連れられるまま、ラトはアバンシリの喧噪の渦の中に、まだ知らぬ人々の熱気の中に、遂に足を踏み入れた。
 
 ナツメグ、サフラン、干しぶどうにピーナッツ。様々な色彩に彩られた数多の商品が、山となって積まれている市場通りを越えてゆけば、今度は鮮やかな布地が並ぶ市場通りに迷い込む。
 この街で何らかの用があると言うキリと別れ、一人で市場へやってきた。辺りには客引きの声が高らかに響き、市場には物珍しいものが溢れている。その一つ一つにどうしようもなく好奇心が煽られるのを感じつつ、しかしラトはやっとの事で、周囲の建物に掲げられた看板に目を凝らして歩いていた。
「アバンシリで薬を売りたければ、二通りの方法がある」
 別れ際に、キリの言った言葉を思い出す。
「一つは、南の自由市場で店を出す方法だ。アバンシリでは旅人が店を出せる地区が決まってるから、今までの町でしたのと同じように、客へ直接商品を売りたい場合は、この自由市場で商売をすることになる。もう一つは、アバンシリで店を出している薬屋へ行って、そこで薬を買い取って貰う方法。商品を売り切りたいなら、自分で商売をするよりこっちの方が確実かもな。ただ上前をはねられるし、単価は下がると思った方がいい。俺は商人じゃないから、相場はよく知らねえけど」
 この町に滞在する日数は、五日にしようと三人で決めた。一般的な隊商の滞在期間と比べれば随分短いが、ラトの手元の薬剤も多くなく、宿泊費を嵩ませるわけにはいかない今、その程度が妥当であると判断したのだ。ラト達が町にいる間、近隣の草原に身を潜めていなくてはならないハティアのことを考えても、それ以上に日程を延ばすことはできなかった。
 収穫祭の祭事は、三日後の午前中に行われることになっているらしい。その間だけは町の中での商売が禁止されてしまうとのことだが、祭のおかげでアバンシリの活気は増している。商売の相手は幾らでもいるだろうと話すキリの言葉を、ラトは黙って聞いていた。
 アバンシリにいる間、日中はラトが一人で薬を売り、夕刻に宿でキリと合流することになっている。キリが日中何をしているのかは知らないが、初日からラトが何の成果もあげられずに帰れば、彼はまたきっとあれこれと、要らぬ世話を焼いてくるのだろう。
(だから、日の出ている内に……)
 少しでも、薬剤を金に換えなくては。
 ようやく見つけた薬屋の看板をじっと見据えると、額当てを整え、掌中に浮いた汗をズボンで拭う。何が最善かはわからないが、商売に不慣れなラトが市場で物を売るよりも、薬屋に薬を買って貰うことができるのであれば、それが一番手っ取り早いように思われる。そう考えてタイルのはめ込まれた戸を恐る恐る開けてみれば、内側から、何か香りが溢れ出た。
 薬剤の香りだ。様々な薬剤の入り交じった独特な芳香が、ラトの鼻孔を貫いていく。
(――なんだか、懐かしいな)
 その香りの持つ甘みは異なるが、しかしこの雑多な香りが、ラトの暮らしたマカオの丘の家を彷彿とさせる。
 見れば店内には数々の薬草が麻の大袋に詰められ、敷地内に所狭しと置かれた棚へ無造作に立てかけられていた。アスルやナフル等、マカオでもよく見かけた薬草を乾かした物もあれば、臭いを嗅いでも何の薬草であるのやら、見当もつかないものもある。
「申し訳ございません、うちでは取り扱ったことがありませんね」
 話し声が聞こえ、店の奥を覗いてみれば、店主らしき男の他に、三名の先客の姿が見て取れた。大柄な男が一人と、他には子供かとも思われるような小柄な人影が二つ。三人共に紺色の、厚みのあるマントを頭から被るような出で立ちをしており、こちらからでは顔は見えない。
 畏まった様子の店主が、恐る恐る頭を上げる。すると小柄な人物のうち、片方が、「そうですか」と残念そうな声音で言った。
 透明感をまとった、しかし芯を感じさせる女性の声。ラトが黙って様子を窺っていると、彼らが店主へ別れを告げ、颯爽とこちらを振り返る。
 彼らが身に纏う、このマントのせいであろうか。なにがしかの威圧感を覚えたラトが脇へ避けると、彼らは会釈するでもなしにその隣を通り抜け、さっさと扉へ手をかけた。しかしその瞬間、ふと、小柄な一人がラトのいる方を振り返る。
 目があった。目深にかぶったマントの為に、目元より下しか見えないが、振り返ったのはどうやら少年である。彼は後の二人が店を出て行くほんの束の間、無言のまま何をするでもなく、じっとラトを、――ラトの額を眺めていた。

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