吟詠旅譚

太陽の謡 第三章 // 砂中の灯

035 : Colore lunam

 まるで、月の光のようだと思っていた。あの冷たい棺の内で出会った、忘れられない金の色――。棺の世界を発ったのちも、隣を歩く狼の、きらりと光るその目を見る度に、何度感嘆の息をついたことかわからない。目を瞠るほど美しい、しかし吸い込まれるかのような昏い光を湛えた、深い、深い、月の色。
「そういう色の目はあまり見ないから、ハティアの生まれを探る手がかりになるかもな。記憶を取り戻すきっかけになるかも」
 そう話したキリの言葉に、確かにラトも頷いた。『ハティアの記憶を取り戻す』。旅の目的の一つであるはずのその言葉は、何故だかざらりとした感触を伴って、ラトの胸の内を撫でつけたものであったのだが。
(まさか、こんなところで)
 同じ月の色に出会うとは。
 「あの」躊躇いがちにラトが言えば、少女がびくりと肩を震わせる。どうやら彼女は本当に、ラトの事を誰か、彼女の知り合いであると今の今まで信じ切っていたらしい。見るからに狼狽えた様子の彼女は、そのままの姿勢で後ずさり、「わたくしのせいじゃないわよ」と呟くように言い訳した。狼狽えているというよりも、その姿はむしろ怯えているようにすら見える。
「ここで人を待っていて……、そこへ、紛らわしくおまえが現れたから、だから、」
「驚いたけど、別に怒っちゃいない。そんなに怖がらなくても」
「怖がってなどいないわ。わたくしは、――わたくしは、ただ、」
 必死に言葉を探しながら、それでもラトに背は向けず、少女がじりじりと後退する。だがその様子を見て、ラトは思わず眉をしかめた。
 威嚇するように睨み付ける彼女の目線が、何故だかラトを見ていない。振り返ってみてもこの横道には他に人などいないのに、彼女の視線はまるで、ラトの背後にいる第三者を見るかのようなのだ。それどころかじっと様子を見ていると、二つの目の焦点すら、合っていないように思われる。
――見えないことなど百も承知だろうに。
 今し方、彼女が口にしたその言葉を思い出す。そして同時に、
 少女の身体がぐらりと傾いだのを見て、ラトは小さく息を呑んだ。道の脇へ置かれていた、壺か箱かにつまずいたのだ。彼女が小さく悲鳴を上げ、反射的に手を伸ばす。しかしその手はすぐ脇にある、建物の壁に捕まるわけでもない。
「危ない――!」
 咄嗟にラトの右腕が、彼女の白い腕を取った。
 ラトの鞄から、溢れた薬草が路上に散る。彼女の腕をぐいと掴み、しかしラトはぎょっとして、小さく唾を飲み込んだ。
 思った以上に細い腕だ。女性の身体はどうにも華奢にできているようだと、ラトもわかってはいたのだが、それにしたって、家畜を育てるタシャの腕も、背の高い馬と共に現れたハティアの腕も、こうまでか弱げではなかったのに。
 柔らかい。飢餓で衰弱しているふうではない。だがこんなに細いのでは、少しでも乱暴に扱えば、すぐにでも折れてしまいそうではないか。
「……、大丈夫?」
 人間の腕がそう簡単に折れるわけはないと知りながら、あえてそれを試すように、無造作に彼女を引き寄せる。すると体勢を立て直したこの少女は、黙ったままで頷いた。何やら仄かに芳しい、花の香りが鼻孔をくすぐる。精霊達がけらけらと、楽しそうに賑やかす。
 少女が退き手を引いた。しかしそのまま距離を取ろうとするのを、ラトが咄嗟に阻害する。
 それは何らかの予感であった。
 華奢なその手を、放さない。
「は、放しなさい」
「また転ばれると迷惑だ」
「わたくしがどうなろうが、おまえに関係ないでしょう」
「黙って見てろって? ……。怪我したくなければ、無闇に動かない方が良い。その目、見えてないんでしょう」
 ラトがぴしゃりとそう言えば、彼女が小さく顎を引く。それでも「見えています」と無理に答えるのを聞いて、ラトは荒く溜息をついた。
「なら今、どうして壁に手をつかなかったの」
「咄嗟に、て、手が出なかっただけです」
「そう言い張るなら、それでもいいけど。真っ直ぐ僕の方へ向かってきたことから考えても、全く見えてないわけじゃなさそうだ。でも一つだけ教えて、――」
――こんなふうに、当たり前のように、精霊を従わせている人間が、おまえの他にいるとでも?
 先程確かに耳にしたその言葉が、胸の内をざわつかせる。以前タシャはマカオの丘で、精霊の声を聴き取ることのできる人間は稀なのだと、ラトにそう話して聞かせた。大地の意志を汲み、前兆を読む占い師ですら、精霊と会話が成り立つなどとは考えもしないのだと。
「君にも、……」
 ならば精霊の存在を語るこの少女は――月の色の目を持つ彼女は一体、
「君も、精霊の声が聞こえるの?」
 何をその目に見たのだろう。
 月の色のその瞳が、驚きに一度瞬いた。視線の的はやはり定まらないものの、そこには明らかな動揺の色と、そしてもう一色、
 微かな期待を得たような、明るい色が浮かんでいる。
 薄紅の、艶やかな唇がゆるく綻んだ。言葉を選んでいるのだろう。ならば急かさず、続く言葉を待つのが得策だろうか。
 しかし彼女が顔をしかめたのを見て、ラトは小さく唾を飲む。どうやら腕を握る手に、力を込めすぎてしまったらしい。「ごめん」と手を緩めれば、彼女は文句ありげに下唇を突き出して、――その直後、はっとしたように表情を安堵のそれにした。
「セリビア、」
 先程も聞いたその名前を、彼女がはっきりと口にする。連れが戻ってきたのだろうか。そう考えて浅くその場を振り返り、しかしその身に降りかかった思わぬ暴力に、ラトは奥歯を噛みしめた。
 一瞬、大通りの喧噪も何もかも、全ての音が遠のいた。何者かに突き飛ばされたようだと気づいたのは、一拍遅れてのことである。ダン、と音を立てて脇の壁へと背を打ったラトは、突然のことに体勢を立て直すこともできず、その場で強く咳き込んだ。そうしてよろめくラトの胸元に、ぐいと突き立てられる腕がある。
「この方に一体何の用だ?」
 問うたのは、まだ幼さの残る少年の声である。息を整えきらぬラトが、それでも相手を睨み付ければ、その目と鼻の先にぎらりと光る双眸が構えていた。
(この人、薬屋で僕を見た、――)
 目深に被った紺のマントに、色白の肌、細身の身体、――。間違いない。その全体重をかけるようにラトを押さえ、睨みつけたのは、先程薬屋で少女と共にいた内の一人、見透かすような静かな目でじっとラトを見た、あの少年であったのだ。
「せ、セリビア」
 慌てた様子でそう呼んだのは、先程の少女であろう。横目に見れば、彼女はやはりずれた方向へ視線を向けながら、それでも急いてこう続けた。「それくらいにしてやって。……その、元々はわたくしが、その人とおまえとを間違えたのよ。だから、」
「俺と間違えた? こいつを?」
 セリビアと呼ばれた少年が、眉間の皺を深めてそう返す。すると彼女は狼狽えた様子で、またラトの背後へ視線をやった。
 「そうよ」と応える声には、緊張感が迸っている。
「おまえと同じよ。その人の後ろにも、『彼等』が付き従っているの。その人のことを護ろうとしている。……だからこれ以上、刺激しないで」
 囁くように、しかし語気を強めて、例の少女がそう言った。「彼等、」と繰り返したセリビアの目は、先程より一層懐疑的だ。そうして眼を細めたこの少年が、続けて呟いたその言葉を、ラトは聞き逃さなかった。
「里からの追っ手じゃないわけか」
 追っ手。確かにそう言った。
(――何かに、追われているのか?)
 先程からの会話といい、彼等は一体何者なのだろう。しかしそう口を挟むより早く、セリビアと呼ばれた少年にまた突き飛ばされるようにして、ラトはその場に尻餅をついた。先程取り落としたのだろう、ラトの荷から溢れた、薬草の束が指先に触れる。
 同時に怒りが湧いて出た。何故見ず知らずの彼等に、こんな目に遭わされなくてはならないのだ。しかし声を上げようとしたラトを見て、いまだ警戒を解かずに歩み寄るセリビアが、頓着しない足取りで、落ちた薬草の一片を踏んだ。
「あんたが誰かを庇うなんて、珍しい」
 見下す視線はラトを貫いても、その言葉は彼の背後に立つ、例の少女に向いている。相手の都合など一切構わぬ、他人に従属を強いる声。
――おまえが何もできないなら、このまま川へ落としちまうっていうのも良いかもしれねえな。
 どくりと胸が、鈍く疼いた。すると脳裏にとりとめもなく、聞き覚えのある声が甦る。
――見せ物小屋でも何にでも、とっとと売られちまえばいいのに。
――答えによっては、私のところで使ってあげるわ。私、強い人間は大好きなの。
 指の先に震えが来た。それがラトの心に巣くう、
 昏い何かを呼び起こす。
 一方で少女は今更気づいた様子で、肩に落ちていたマントをまた頭から被りなおし、「黙りなさい」とぴしゃり、震え声でそう言った。
「元はと言えば、おまえとバルカスが悪いのよ。わたくしをこんな所へ置いていったりするから」
「時間のないのがわかっていて、やれ疲れた、脚が痛いと騒いだのはどこのどなたでしたかね」
「休ませてくれるつもりだったのなら、せめて、椅子と気の利いた飲み物のあるところでお願いしたかったわ。こんなに遠出をするのは初めてなのよ。疲れるのは当たり前のことじゃない」
 独りで居た際の不安げな様子とは打って変わって、味方を得た少女の態度は高慢である。しかし彼女がラトの居る方へと顔を向けた途端、それを遮るように、セリビアと呼ばれた少年が割り込んだ。「お嬢様」と呼びかける声は、慇懃だ。
「ではご希望通り、椅子と飲み物のあるところへお連れしますよ。今後の事を考えましょう。明日にはこの町を出なくては、今度こそ兄上様からのお咎めが下ります」
「わかっているわ、でも、……。そこをどいて。その人に少し用があるの」
 意志を含んだ堅い声に、セリビアがちらと振り返る。その場に座り込んだまま、何故だか立ち上がれずにいるラトを見ると、彼はその表情にあからさまな侮蔑の笑みを浮かべ、「彼に?」と少女へそう問うた。
「そうよ。おまえ達の勝手な振る舞いのおかげで、わたくしにも収穫があったわ。ねえそうでしょう。そこのおまえ、わたくしに、『彼等』の声が聞こえるのかと問うたわね、――」
「お嬢様。相手は得体の知れない旅人です。田舎くさい、小汚い身なりの男ですよ。お嬢様がお言葉を交わされるような相手ではございません」
 ラトの耳の内に、いつの間にやら表の喧噪が甦っていた。一層声を張り上げて、品を売り込む商人の声。人を避けながら車を引く音の背後には、時を報せる鐘の音も響いていた。だが左右を高い壁に挟まれた、この薄暗い横道にあってはその全てが、薄い皮紙で隔たれるかの如く不明瞭だ。
「黙れ」
 始めはぽつりと、呟くように。
 幾らか驚いた様子で、セリビアがふと言葉を途切れさせる。「あんたは黙ってろ」ラトが続けてそう言えば、この少年は今度こそ、ラトの事を頭の先から爪先まで、舐めるようにじろりと見回した。少女がなにかを期待するように、しかし小さく唾を飲み込んだのを見て、ラトもゆらりと立ち上がる。
「『彼等』っていうのは、精霊のこと? その月の色の目、その目はまさか、……精霊の姿を映すのか」
 それを聞いた精霊達が、また楽しそうに笑い出す。だがけっして、少女の代わりに答えようという様子ではない。
 ラトの問いに答えようと、少女が小さく口を開く。しかしまたそれを遮るように、セリビアという少年が立ち塞がった。邪魔をするなと言うつもりで、ラトが一歩前へ出る。しかし、それと同時に。
「遅かったな、バルカス」
 セリビアの言葉と共に、ラトの足元に影が落ちた。咄嗟に振り返れば、まだ明るい市場の明かりを背に、いつの間にやらラトの背後に佇む人影があった。目の前の二人と同じ、厚い紺のマントを羽織った大柄な男。薬屋ですれ違った、あの三人目だ。男はセリビアの言葉に応えず、しかしその大きな手で唐突に、ラトの頭を鷲掴みにし、口を塞ぐようにもう片方の手でラトを再び壁へ押しつけると、セリビアに向けて一つ明確に頷いてみせた。何事かと慌てて身を乗り出した少女のことは、セリビアがすぐに押しとどめる。
 呻き声が漏れたが、しかし男の手を離そうと両手で藻掻いてみても、拘束力が弱まる気配は少しもない。そうこうする間にも、セリビアという少年は少女の背を押し、追い立てるように歩き出す。
「さあ参りましょう、お嬢様」
「待ちなさい、わたくし、話があるのよ」
「はいはい、俺が代わりに答えましょう。この旅人は、お嬢様の求める『果』など持ってはおりません」
「何故おまえにわかるの。わからないじゃない、精霊の加護を持つ人よ」
「わかります。お嬢様はご存じないかもしれないが、視覚から得られる情報というのは、とても多いものなんですよ」
 ふと、ラトの口元を塞いだ男の手に力がこもる。ラトがぎくりと身体を強ばらせれば、セリビアという少年はちらと振り返り、意地の悪い笑みを浮かべてこう言った。
「なるほど、荷を見る限り薬師のようだ。東の薬屋で見た顔だな。だが荷が減っていないところを見ると、商売は上手くいっていないらしい。それもそうだろう。こんな自信なげな薬師から、一体誰が薬を買うというのかね」
 刃物のようなその言葉が、ラトの心を貫いた。
 この横道へ逃げ込んだその時、ラトの胸中に渦巻いていた惨めさが、失望感が、無力感が、むくりと頭をもたげていた。口を塞がれていることを差し引いても、返す言葉が見当たらない。
「でも薬師なら『果』について、……天果について、耳にしたことくらいあるかも知れないじゃない。それに」
 少女が尚も食い下がる。しかし続いた言葉を耳にして、ラトの心は今度こそ、鈍い痛みに凍てついた。
「『彼等』の姿がこんなにはっきりと視えたこと、今までには一度もなかったの。だけどこの人の後ろには、とても優しそうな……女性の姿をした精霊が、じっと付き従っている。彼のことを護っているのよ」
――ラト、薬売りの仕事も頑張っているものね。今回も砂漠の植物をいくらか採ってきたし、それも薬にするんでしょう?
 耳の内に甦ったその声が、明るい彼女の声がかえって、積もり積もったラトの引け目を揺り起こす。
――タトリーズの町でも、薬、沢山売れたわよね。私もお手伝いできたら良いんだけど、狼の姿じゃ町には入れないから、悔しいな。
(ハティアだ)
 そう思うと、何故だか肌が粟立った。狼の身を借りる彼女は町中に踏み入ることを許されず、今頃は町の外で、ラトを待っているはずであった。だが何らかの方法を得て、仮初めの姿を外へ置き、ラトの後をついて来ていたのかもしれない。
 ならばここに至るまで、全てを見られていたのだろうか。ただ黙々と薬屋を渡り歩き、言い値を突きつけられるばかりでろくに交渉もできないラトの姿を、人々の喧噪を避けてこの横道に逃げ込んだ、不甲斐ないラトの姿を、
 彼女にも全て見られていたのか。
――ラトだって、きっとすぐ上手に、商売できるようになるわよ。
 じわりと昏い罪悪感が、ラトの脳裏を滲ませた。

:: Thor All Rights Reserved. ::