吟詠旅譚

太陽の謡 第二章 // 影、追う『影』

028 : Siccus lacrima

 杖をついて、坂道を下る。そうしておぼつかない足取りで歩くラトの隣には、金色の目の狼が付き従っている。
「そんなにぴったりくっついていなくても、大丈夫だよ。僕もこうして歩くのに、随分慣れた気がするし」
 しかし言った側からバランスを崩し、その場へ軽く尻餅をついた。呆れたような金の目が、じっとラトを見つめている。
 打ち捨てられたマカオの町。水害に地面が緩み、何もかもが散乱した中を歩みながら、ラトとハティアの二人は今、タネット川を目指していた。
 ほんの少しだけ短くなった、自らの後ろ髪に触れてみる。そうしてから、ラトは小さく息をついた。
(あとで、ちゃんと整えよう)
 髪の手入れに関していえば、ラトは自分の髪を自分で切るのも、誰かの髪を散髪するのも得意であった。タシャは手先が器用な方ではなかったから、家族みんなの分を整えるのは、いつだってラトの仕事だったのだ。
(懐かしいな)
 目を伏せる。乾いた夏の日差しは、ラトの足下をも照らし出していた。
 
「証拠?」
 ラトが思わず聞き返すと、キリは笑顔で頷いた。ラトの熱がようやくひいた、一昨日の明け方のことである。
 洞でのことを簡単にではあるが説明し終え、何か礼がしたいと言ったラトに向かって、キリは、こんな提案をした。
「俺が『丘の化け物』を、――お前を退治したっていう、何でも良いから何か、証拠になるようなものがほしいね。それを俺がバーバオへ持ち帰れば、お前はうまく消息を眩ませられるし、俺も礼金を稼げるだろ? どうだ、悪い話じゃないと思うんだけど」
「町の人を騙すの?」
 身を乗り出してハティアが問うと、キリはくっくと笑ってみせる。
「駄目か? じゃ、本当に退治した方がいいかい」
「そ、そうじゃないわ! だって、町の人は丘の声をラトのせいだと勘違いして、それであなたを雇ったのよね。だけど聞いたでしょう? あの声は、ラトとは何も関わりないのよ。なのにラトを退治した証拠を作るだなんて、なんだか変だと思うんだもの。……そもそも、ラトは化け物なんかじゃないのに」
 不満げに、ハティアが頬を膨らませる。一方でキリに視線で問われ、ラトは少し、逡巡した。
 『丘の化け物』を退治した証拠を彼に渡すということは、つまり、ラトがこの旅人の手にかかって死んだのだと、町の人々を欺くということだ。この丘で一年間、生死不明のままであったラトの存在を、葬り去るということだ。
 もし、ラトが死んだなら。そんなことを、あの暗い洞の中でも考えた。あの洞の中で兵士達の矢にかかり、ラトの命が絶えていたなら。素性の知れない行きがかりの旅人にさえ『退治』を依頼した人間達のことだ、それを聞けば迷いもなしに、町をあげて喜ぶのだろう。
 ラトの死を歓迎するのだろう。『丘の化け物』にいつ復讐されるかと恐々とせざるを得なかった日々から、ようやく解放されるのだと。
 ようやく自由になるのだと。
 しかしそこまで考えて、ラトは思わず瞬きをした。脳裏を過ぎった『自由』という言葉が、なんだかやけに滑稽で、眩しいものに思えたのだ。
「おい、ラト。聞いてるか?」
 問われてラトは、まず曖昧に頷いた。それから不意に目を伏せて、キリに対して問い返す。
「精霊達の叫び声は、……三日三晩続いた後、ぱたりと止んだと言ったっけ」
「ああ。それにあの後、例の兵士達が洞から撤退したのも確認した。それについては何が何だかよくわからんが、確かあの兵士達と、丘の叫び声には何か関係があったらしいって言ったよな?」
 聞かれてラトは、うんと頷く。
 あの兵士達が撤収したということは、やはり彼らは天淵石の採掘を終えたのだ。ならばもう、この丘で精霊達の叫び声が聞こえることもないのだろう。
 この化け物騒動にも、幕を引いて良いはずだ。
(そうだ。もう、終わりにしよう)
 そう考えればなんだかやけに、心の内が落ち着いた。
 終わりにしよう。『丘の化け物』さえ殺してしまえば、全てが丸く収まるのだから。
「証拠があればいいんだね」
 ラトが頷き、そう答えると、ハティアが戸惑うように眉根を寄せる。
「でも、ラト」
「いいんだ。……死んだことにした方が、多分この先、僕も、生きやすいと思うから」
 ふと、木こりたちの事を思い出す。ラトのことを良い金蔓だと言い、見せ物小屋へ売ろうと提案した彼らの事も気になってはいたのだが、ラトが行きがかりの旅人に殺されたようだと聞けば、それも諦めてくれることだろう。
 それに。
「キリ、ナイフを貸してくれる?」
「いいけど、何に使うんだ?」
「うん、『証拠』を作ろうかと思って」
 まだ納得がいかない様子で膨れっ面をするハティアを見て、ラトは、穏やかに目を伏せる。そうしてキリからナイフを預かるや否や、その切っ先を躊躇いもなく、好き放題にしていた自らの髪に押しあてた。
 切れ味の良い切っ先が、ラトの首元を薙いでいく。ざくりざくりと、小気味の良い音がする。そうしてラトは無造作に一束を断つと、長く切れた髪を選び、それで残りを束ねてみせた。
「このあたりで赤毛は珍しいから、これを見せれば、僕と実際に会った事の証明になると思う。あとは、適当に話を捏造してくれる?」
「器用な手だな」
「それはどうも」
 にこりともしないままラトが返すと、キリは笑って、「助かる」とまず言った。
「そろそろ資金が底をついてたんだ。せいぜい高い値をふっかけてくる」
「そうして。安売りされるのは、ごめんだ」
 言って、ようやくラトも笑んだ。
(『丘の化け物』さえ殺してしまえば、『ラト』が死んだことにすれば)
 夜空の星が消え始めていた。
(きっと終わる。終止符が打てる。この目のせいで人々を怯えさせる事にも、――怯える声に、悲しむ事にも)
 そう信じていたかった。だから少しも躊躇わなかった。
 それが、『マカオの丘の化け物』の最期であった。
 陽が昇り、空が焼け、朝露に草木が潤いを見せる。そうして森に光が射すにつれ、ハティアの姿は薄れていった。まるで月の満ち欠けを見るようなその姿は幻想的で、どこか、儚げだ。
「怪我が治るまで、無茶して動かないでね」
 彼女は名残惜しそうにラトのことを見据えて、そう言った。
「昼間は喋れないだけで、ラトの側にいるんだからね。傷に悪い事したら、怒るわよ」
 同時に彼女の姿が消え、眠るようにうずくまっていた狼がぱちりと目を覚ます。そんな様子を見て、キリはおどけて口笛を吹いた。
「さて、と。それじゃあ俺も、行きますかね」
 言って、キリが大きく伸びをする。それからこの旅人は、束ねたラトの髪と、丘の家から取ってきたらしい薬草とをいくらか自らの鞄へ詰め込んで、ラトへ颯爽と背を向けた。
 彼はこれから一度バーバオの町に立ち寄り、大捕物の作り話を吹聴してから、再び旅の生活に戻るのだという。この丘では訳の分からないことばかり体験しただろうに、それを詳しく言及することなく、ラトがある程度回復するまで何も言わずに待ってくれたこの旅人に、ラトは心の中で深く礼を言った。
「そういえば」
 不意に、キリが振り返る。
「お前達がこれからどこへ行くにしろ、あの丘の家には、一度帰った方がいいぜ」
 聞いて、ラトはきょとんとした。この男が一体何故そんなことを言うのか、皆目見当もつかなかったのだ。
 何故と問うと、キリは困ったように頬を掻いて、それからうーんと腕を組む。
「いや、前に手当をしてもらった時、お前に武器やら荷物やらを隠されただろ? それで俺も、期せずして家捜しをする羽目になったというか……。まあ、うん、行けばわかるようにしといたから、四の五の言わずに行っとけ」
「なんだ、それ」
「別に俺が持ってきてやってもよかったんだけどさ。あれは、お前が自分で受け取った方がいいんだよ。多分」
 ラトが何を聞き返しても、彼にはそれ以上、最早何も答える気がないようだった。
 キリは「またどこかで」と言ってにやりと笑うと、自らの旅へ帰って行った。
 
 そうして二日後、どうにか歩けるようになったラトがまず向かったのは、タネット川のほとり――あの石があった、洞であった。
 ハティアにはまだ動くのは早いと再三止められていたのだが、それでもラトは聞かなかった。幾らか時間をかけ、昼過ぎにようやく川沿いまでたどり着くと、ラトは爛々と照り輝くタネット川を眺め、まずは浅く目を伏せる。
 数日前、この岩陰から木こり達と、そしてリストンと呼ばれた女の会話を聞いた。しかし辺りには既に人の姿も、誰かがそこにいたという気配も感じない。
 腰に下げてきたカンテラにあかりを灯し、洞に向かって掲げてみる。そうして奥へと進む道には、ひたひたと歩くハティアの足音と、杖をつく音だけが響いていた。
 静寂の暗闇の中。しかし以前訪れた時のような、気高さを感じる静謐な空気は既に失われている。
 幾らか歩みを進め、ふと、ラトはぴたりと足を止めた。金の目をした狼が、尋ねるようにラトを見上げる。それを見て、ラトは、呟くようにこう答えた。
「ここに、天淵石と呼ばれた石があった」
 ぽっかりと空いた洞の中に、柱のように聳えるあの青い石の姿はなかった。
 見れば足下には微かに人々の足跡が残っていたが、石自体はそれがあったという痕跡すら残さぬほど、深くえぐり取られている。ふと思い出して、ラトはあの時拾った石の欠片を取り出してみた。ソル・オリスの鈴と一緒にポケットへしまってあったこの石は、あの混乱の最中、服にかかってラトの手元に残ったのだ。
――あの後ずっと、精霊達は泣いていた?
――ええ。ずっとよ。今朝方まで、絶え間なくずっと叫んでいたの。
「……、守れなくて、ごめん」
 呟く。精霊達は応えなかった。
 手元の石の欠片だけが、微かに青い光を湛えていた。
「もう、行こうか」
 足下の狼に向かい、呟くように話しかける。しかしそうして石の欠片をしまい込み、ラトは思わず、「えっ?」と小さく声を上げた。
 暗闇を見つめる自分の視界が、一瞬歪んで見えていた。
 そうかと思った次の瞬間、その場へ強く尻餅をつく。手に持ったカンテラが地面に落ちて、がしゃんと派手な音をたてた。薄いガラスが砕け散り、ラトの手の甲を浅く裂く。
 状況が理解できぬまま、ラトはその場で瞬きした。ハティアが慌てて振り返ったのを見て、首を小さく横に振る。
「大丈夫。あの、少し、……眩暈がした、だけだから……」
 貧血だろうか。そんなことを考えながらやっとのことで起きあがり、ガラスの割れたカンテラに火を入れる。手の甲にできた傷口を舐めると、口の中につんとした血の味が広がった。
(最近、怪我してばかりだな)
 足の傷もそうだが、捕らえられたときにロープを切ろうとして作ってしまった傷だって、まだ治りきっていないのに。
 しかしハティアをふと見下ろして、ラトは思わず微笑んだ。この金の目をした狼は、尾を垂れ、心底心配そうな顔をして、じっとラトの顔を覗き込んでいたのだ。その表情にも仕草にも、獰猛な狼のそれなど微塵も感じさせはしない。
(どっちかっていうと、犬みたいだ)
 そんなことを口にしたら、彼女は怒るだろうか。それとも笑うだろうか。
「他の狼に会った時は、ナメられないようにしないと駄目だよ」
 真顔で言うと、彼女は不可解そうに首を傾げてみせる。ラトは答えなかった。だが一人で、小さく笑った。
 そうして二人は洞を出て、一直線に丘を登った。ラトの育った丘の家を目指したのだ。
――お前達がこれからどこへ行くにしろ、あの丘の家には、一度帰った方がいいぜ。
 キリの言葉が気にかかる。この世界へ戻って初めての晩、ラトも丘の家へは寄っていた。だがあの時はあまりに立て続けに事が起こったものだから、家の中のことになど、ろくに注意を払わなかったのだ。
――別に俺が持ってきてやってもよかったんだけどさ。あれは、お前が自分で受け取った方がいいんだよ。多分。
 一体何だというのだろう。しかし実際に丘の家へ辿り着いたラトは、まず、自身の目を疑った。家はまるで空き巣にでも入られたかのようで、床には様々な物が散らばり、引き出しという引き出しが開けたままになっていたのだ。よくもまあ、物の少ないこの家を、こんなにも散らかせたものだと目をみはる。
 確かに出会い頭のキリの手当をした時、彼の武器や荷物を隠したことは覚えていた。だが、それにしても。
(ここまでしないと、見つからなかったのか……)
 散らかった家に立ち入って、ラトは呆れて溜息をつく。だが少しでも物を片付けようと手を伸ばし、ラトは思わずはっとした。机の上にぽつりと置かれた、小さな肩掛けの包みに気づいたからだ。
 藍鉄色の小さな包み。数日前にこの家へ戻ったときには、こんな物は置いていなかった。「行けばわかる」と言ったキリの言葉が、ラトの脳裏に蘇る。
 そっと包みに手を伸ばす。まずはその下に置かれた鶸茶色の布を広げてみて、小さく息を呑みこんだ。
 それはいつしか本で見た、砂避け付きの額当てであった。
 昔タシャが持ち帰った、砂漠の物語を綴った絵本。挿絵のついたそれをいたく気に入っていたラトは、ニナと二人で毎晩のように、その物語を読み合っていたものだった。砂漠の旅人を自らの姿に置き換えて、空想に耽ったりもした。
 ラトの背筋に、冷たい何かが走っていった。そうして慌てて包みをほどき、言葉のないまま、手を止める。
 包みの中に詰められていたのは、こぢんまりとした旅支度であった。火打ち石にコンパス、それから軽い木のコップ。薬剤は丁寧に小分けされ、用途毎にまとめてある。
 包みの中には一通、封筒が差し入れられていた。
『シャディリヤの葉は』
 封筒の表に宛名はなく、ただその一言だけが添えられている。シャディリヤの葉が人の思いを運ぶという言い伝えに則って、この地方の人間は、手紙に必ずその言葉を添えるのだ。
 見覚えのあるその筆跡に、ラトは小さく身震いした。
(ニナの字だ)
 よく見知った、妹の字。それを見るだけで、悔恨の思いが胸を過ぎる。
――ねえ、でもニナは? いったい誰が、あんな子を養うっていうのさ。
――体のいい厄介払いだね。
――タシャも死んで、一人になっちまったんだしね。
 手紙を持つ手が、震えていた。
――都は遠いよ。ちゃんと、故郷の人に別れは告げたのかい。
 記憶の中の、声が騒いだ。

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