吟詠旅譚

太陽の謡 第二章 // 影、追う『影』

029 : Tabellae

――お兄ちゃんへ
 
 今日であの大雨の日から、一ヶ月が経ちました。
 しばらくは毎日があまりに目まぐるしくて、私には一体何が起きているのか、自分が何をするべきだったのか、ちっともわからなかったのだけど、だけど今は、お兄ちゃんが丘へ帰ってきた時のために手紙を書きたいと思います。
 本当はお兄ちゃんの顔を見て、直接伝えるべきなのに、こんな手紙だけを置いていくことを、どうか許してください。
 
 お兄ちゃんに、伝えなくてはならないことがあります。
 母さんのことです。
 もしもお兄ちゃんが、どこかでマカオのことを聞いていたら、もしかして既に耳にしているかもしれないけれど、……母さんが、亡くなりました。
 あの大雨が止んだ翌日のことです。母さんは明け方、たった一人で丘へ帰ってきました。その時は既に真っ青な顔をしていて、歩くのもやっとというような感じだった。そうして家に着くとすぐに、沢山血を吐いて、倒れたの。
 隣町のお医者を呼んでこようと思ったんだけれど、母さんは、病気じゃないから要らないと言っていた。だけど非道いのよ。病気じゃないなら一体何なのとどれだけ聞いても、ちっとも答えてくれなかったの。母さんはただ笑って、「ごめんね」って繰り返した。
 そしてどんどん具合を悪くして、それでそのまま、その日の晩に――。
 
 母さんはさいごに、お兄ちゃんの話をしていました。
 ニナにはお兄ちゃんがいるから、独りぼっちにはならないから、だから安心ね、って、そう言って私の髪を撫でてくれました。少し時間がかかるかもしれないけれど、お兄ちゃんは必ず帰ってくるから、その時は二人仲良くねって、そんなふうにも言っていた。
 だけど私、お兄ちゃんにも、母さんにも、謝らなくてはいけないことがあるの。
 母さんが死んで何日か経って、町の人たちが影で、お兄ちゃんはあの雨の日に、死んでしまったのだと言っているのを聞いた時、私も、そうかもしれないって思ってしまった。あの雨の日に、もしかしたら町の人たちに殺されてしまったのかも知れないって、ほんの少しでも思ってしまった。
 この手紙を書いている今でも、本当は少し、自信がないの。
 だけど、お兄ちゃん、無事でいるよね? 元気でいるのよね?
 母さんが言ったことは嘘じゃないよね。いつか必ず、この丘に帰ってくるんだよね。
 この手紙、きっとお兄ちゃんに届くよね。
 
 この家でお兄ちゃんの帰りを待つことが出来なくて、ごめんなさい。
 次にキャラバンが来たら、私、その人達と一緒に、暁の都へ発つことになりました。今まであまり知らなかったのだけど、そこには母さんも通っていた、占い師になるための学校があるのだそうです。
 キャラバンの人と行くのも、砂漠を越えるのも、本当は怖いの。……だけどそれと同じくらい、今はマカオの人達と一緒に暮らすことも辛いから、私、都へ行くことにしました。
 お兄ちゃんも、どうか、この丘へ帰ってきても、マカオやバーバオにはけっして立ち寄らないでください。
 バーバオには、マカオの町から移住した人が沢山います。凄く悲しいことだけど、あの人達はみんな、あの大雨はお兄ちゃんの所為だと思っているの。
 だからどうか、行かないで。安全なところへ逃げてください。
 あの雨の日のようなことは、もう沢山だから。
 
 お兄ちゃんが、元気でいてくれますように。この手紙が、いつか必ずお兄ちゃんの手に届きますように。毎日欠かさず、シャディリヤの葉に祈ります。
 だからお兄ちゃん、もしこの手紙を読んでくれたら、どうか私にも手紙を下さい。
 無事だよ、元気でいるよって、それだけでいいから、教えてください。そうしたら私、都でも、きっと頑張っていけるから。
 
 大好きなお兄ちゃん。私のお兄ちゃん。
 お兄ちゃんが辛い目に遭わないように、悲しい思いをしないように、母さんがきっと守ってくれていると、信じています。
 私達、血はつながっていなくても、ちゃんと兄妹だったよね。
 離れていても、独りぼっちなんかじゃないよね。
 きっとまた会える日が来るって、ずっと、ずっと信じています。
 
  チュクチェの月、二の日に。  ――ニナ・ヘリオス
 
 そうして、手紙は締めくくられていた。
 それを何度読み返したことだろう。その手紙を持つ間、ラトの腕の震えは止まらなかった。喉が渇いて、言葉が出ない。立っているのも辛いのに、それでも少しも、動けなかった。その紙面から、目を逸らすことが出来なかった。
(『お兄ちゃん』――)
 何度も書かれたその言葉が、所々、涙の跡に滲んでいる。
 お兄ちゃん。
 ばあさまが死に、ラトがこの家で独りぼっちになった時、占い師が連れてきた小さな少女は、迷わずラトをそう呼んだ。
 その言葉が、どんなに暖かいものに感じられたことだろう。
 その言葉に、どれだけ心を救われたことだろう。
(なのに僕は、ニナに何もしてあげられなかった。それどころか、こんな)
――ねえ、どうしたらいいの。母さんは、お兄ちゃんは必ず帰ってくるって言ったでしょう。だけど、それは一体いつなの? 私が都へやられてしまう前に、お兄ちゃんは助けてくれるの?
――人殺し! お兄ちゃんをどこへやったの、何故お兄ちゃんは帰ってこないの――。返して! あたしのお兄ちゃんを、返してよ!
 偽りの町で聞いた、ニナの言葉を思い出す。
 あの雨の日のことがあったから、ニナはタシャが死んでからも、町の誰にも頼ることが出来なかったに違いない。そうして町の人間を恨んで、人殺しだと罵って、寄る辺のないまま暁の都へ旅立った。
 手紙を読む間も離せずにいた、額当てを握りしめる。彼女は一体何を思って、これを残していったのだろう。一体どんな思いをしながら、ラトの分の旅支度を調えたのだろう。
(僕がニナから奪ったんだ。故郷も、母さんも、……それなのに)
 いつの間にやら、陽はすっかりと落ちていた。耳を澄ませば月明かりに歌う、彼女の声が聞こえてくる。
 
   足りない足跡を探して
   風に行方を確かめる
   このまま進むとどこへたどり着く?
   このまま進めば誰に会えるの?
   問うても問うても
   応えはないのに
 
 杖をついて、家を出る。すると微笑む精霊達の行く先に、彼女の纏う光があった。
(地上に、――月の欠片が落ちたみたいだ)
 草をかき分け進んでいく。その覚束ない足取りには苛立ちが募ったが、それでも歩みを止めはしない。
 胸元へ差し入れた、ニナの手紙がかさかさと鳴る。
「――この前のとは、別の歌だね」
 話しかけると、ハティアははっと振り返った。そうして彼女は不安げに眉根を寄せ、戸惑いがちに手を延べる。
「ラト。あの、……顔が真っ青よ。少し、休んだ方が」
「いいんだ。続けて」
「えっ?」
「歌を。今、歌っていたでしょう」
「でも、」
「続けて、ハティア」
 ぴしゃりとそう言ってから、ラトはうっすら、微笑んだ。
「君の歌があれば、少しは、――冷静になれる、気がするから」
 ハティアは不安げな表情のまま、微笑みかけてはくれなかった。ただどこか悲しげに目を細め、ラトの頬を撫でるかのように手を伸ばす。
 そうして静かに歌い始めた。
 月を見上げて、独り流離う旅人の歌を。
――ソル・オリスのうたはいつもきれいだ。
――こころがやすらぐ。なぜだろう。
 ああ、そうだ。精霊達も言っていた。
 ハティアの歌は、この夏の夜にしんしんと降り積もる雪のようであった。静かに、そっと、大地を包む雪のようであった。
(……、行かなくちゃ)
 心の中で、そう呟く。
(一刻も早く、都へ行かなきゃ。今ごろバーバオでは、僕が殺されたという話が広まっているはずだ。そんな知らせが都へ届けば、ニナをまた悲しませることになる。その前に、何としてでも会いに行かなきゃ)
(母さんが死んだ理由も何もかも全て打ち明けて、それで、ニナに謝らなくちゃならない。許してはもらえないかもしれないけど、それでも)
(ニナは手紙に一言も、会いに来てほしいとは書かなかった。都がそれほど遠い場所だと知っていたからだ)
(わかってる。闇雲に行って辿り着けるような場所じゃない。けど、それならどうする? うまくキャラバンに潜り込んだとしたって、僕の素性が知れたらそれで終わりだ)
(考えろ。考えろ、ラト。できる事は限られているんだ、――)
 
 いっそ清々しい程にじりじりと焼ける夏の陽が、森の奥にも届いていた。
 夏虫達がけたたましく鳴き合う音に耳を澄ませ、そっと微かに目を伏せる。そうして自らの頭部にぴたりと身につけた額当てに触れ、ラトは足下を見下ろした。
 持っている中では比較的厚手のズボンに、羊の放牧で遠出をする時にだけ使っていた編み上げのブーツ。右足にはまだ包帯が巻き付けてあったが、杖はすでに持っていない。まだ自由に走れる程ではないにしろ、歩くことに不自由しない程度には、傷も随分よくなった。
 そうしてふと、藍鉄色の包みに手を添える。
 ニナの残した旅支度。いくらかの木の実と小さなナイフを新たに詰め込まれたそれは張り裂けんばかりに膨らんでいたが、それでもぴったりと、ラトの肩へ沿うように掛かっている。その掛け紐をぎゅっと握りしめると、ほんの少し、気分が落ち着いた。
 その時ふと、茂みをかき分ける音を聞き、ラトは咄嗟に腰掛けていた切り株から立ち上がった。そうしてひょこりと頭を出した金の瞳の狼に微笑みかけ、その後へついてきた男へ視線を移す。
「へえ。旅支度、なかなか決まってるじゃねえの」
 日に焼けた肌に短い癖っ毛。手には馬の手綱を引いている。軽い調子で首を傾げ、にやりとしたのはキリだった。
「突然呼び出して、悪かった」
「別に構わないけどさ。街道へ向かった途端、狼が手紙を咥えて寄ってきたのには驚いたぜ。俺以外の奴に見られたら、一体どうする気だったんだ?」
 からかうようなその言葉に、ハティアが不満げに鼻を鳴らす。そんな失敗はしないと言わんばかりのその様子に、キリは声をたてて笑ってみせた。
「そんで、用件はなんだい? 『化け物退治』の件なら、計画通りに済ませてきたぜ。報酬もたんまりせしめたし、お前もすっかり死んだことになった。思ったほど、感謝はされなかったけど」
「でも、町の人達は喜んだでしょう」
「ん? まあ、……うーん、そうだな」
 曖昧な様子で頷いて、キリが大きく欠伸をする。そのいい加減な様子に苦笑して、それからラトは、「一仕事終えたわけだ」と呟いた。
「キリは前に、何でも屋だって名乗ってたよね。……つまり代償を払えば、どんな依頼も聞いてくれるの?」
「ああ、まあ大抵のことならな。何か、俺に頼みごとでも?」
 問われて、ラトは小さく頷いた。そうしてちらりとハティアを見て、それからじっとキリを見据えると、緊張のある堅い声で、しかし真っ直ぐにこう話す。
「仕事の依頼をしたい。――都まで、僕達を同行させてほしいんだ」

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