吟詠旅譚

太陽の謡 第二章 // 影、追う『影』

027 : Suus carmen

   足りない足跡を探して
   風に行方を確かめる
   このまま進むとどこへたどり着く?
   このまま進めば誰に会えるの?
   問うても 問うても
   応えはないのに
 見知らぬ無限の花園に、彼女の歌声が響いていた。
 ああ、いつかとおんなじだ。その歌声は寂しげに、しかしただそれを嘆くわけではなく、まるで自分自身を鼓舞しようとでもするように、強さを帯びて響いている。
――ソル・オリスのうたはいつもきれいだ。
――こころがやすらぐ。なぜだろう。あの子はただの人間なのに。
 精霊達の、声がした。
   進んでいくほど真っ暗になる
   私の視界が濁っていくの
   あなたに会いたいだけだったのに
   どうしてこんなに悲しいの
――それならあの子を選べばいい。あの歌があれば、『城』の主も目をさます。
――ソル・オリスはサニマを追うよ。
――それでいい。会いたいと強く思えば、どんな事をしてでも会おうとする。それが人とゆうものだ。
   涙の広がる虚しい大地
   私の足跡 掻き消していく
   このまま進むとどこへたどり着く?
   このまま進めば誰に会えるの?
   わからないまま
   ただ歩いていく
 彼らは一体、何を話しているのだろう。ぼうっとしたままろくに物も考えられないのに、それでもラトは、その歌と声にじっと耳を傾けていた。
 ソル・オリス――、ソル・オリス。聞いたことのある名前だ。
――ソル・オリスの鈴をお返し!
――あなたは誰? 私は、
 その時不意に、ラトを呼ぶ声が耳に届いた。涙まじりに呼ぶ声が、ラトの手を取り導いていく。
(ああ、そうだ。聞いたことのある名前だと思ったら)
 紛れもない、彼女の名だ。ラトを幾度も導いた、かけがえのないあの人の名だ。
――私の名前はハティア。ハティア・ソル・オリス。お会いできて嬉しいわ。私、もう随分長い間、この世界を一人で旅していたの。
 
「――ト、ラト」
 泣き声のような囁きが、ラトの耳にも届いていた。その背後には木々が涼やかにさざめきあう音と、夏虫たちの奏でる音色とが折り重なって響いている。
 ああ、一体どうしたというのだろう。体がやけに重く感じた。ラトは気怠さを掻き分けるように意識の暗闇の中を進み、ふと、たどり着いたそこで息をつく。
 酷く汗を掻いていた。だが、
「ラト!」
 呼ばれてラトは、弾かれるように目を開けた。そうして咄嗟に体を起こし、刺すような痛みに目を細める。するとすぐ隣から、慌てた声が聞こえてきた。
「あっ、だ、駄目よ。怪我してるんだから、動かないで! キリ、……キリ! どこまで行ったの、ラトが目を覚ましたわ!」
 自分の置かれた状況が、ラトにはよくわからなかった。足が疼いて異様に痛む。柔らかな草を敷き詰めた上に眠っていたようだが、それでも少し悪寒がした。熱でも出しているのだろうか。背筋を汗がつたっていく。
 ここは一体どこだろう。ぼんやりとした頭で、そんな事を考えた。月明かりしかない深い夜だ。濃い緑のにおいから察するに、どこか、森の奥だろうか。しかしそこまで考えて、ラトは自らのすぐ隣に座り込んだその人に気づき、思わず小さく声を漏らす。
 夜空の月と同じように、仄かな光を纏う体。うっすらと透けて見えるのは相変わらずだが、それでもその白い肌も、明るい栗色の髪色も、ラトが見紛うはずはなかった。
「ハティア」
 呟くようにそう呼ぶと、彼女はほっと安堵の溜息をつき、同時ににこりと笑って見せる。
 急に、脳裏がはっきりとした。すると胸の内へ押さえ込んでいた取り留めもない言葉が、ラトの喉を締め上げる。
「ハティア。一体、今までどこにいたんだ。どうして突然消えたんだ。丘で、金色の目の狼に会った。初めて会ったときの君の目と、同じ目の色の狼だ。あの狼は君だったの? そうだとしても、何がどうして、」
「ラト。あの、あのね」
 慌てた様子でハティアが何か言いかけたが、ラトは少しも耳を傾けはしなかった。自ら問うた言葉にすら、答えを望んではいなかったのだ。しかしハティアへのばした腕は、相変わらず、彼女の肌をかすめもしない。
 この世界での彼女の姿は、まるで幻のようだった。姿はこうして目に見えるのに、触れることなどできやしない。それでも彼女の笑みを見れば、不安が少し、和らいだ。
「ラト、私ね」
「いい」
 彼女の言葉を遮って、素直な音が、ぽつりと落ちる。
「君が無事ならなんでもいい。――すごく、心配した」
 ここが一体どこなのか、状況がどうなっているのか、問うべき事はいくらもあった。だが今はその問いのどれもが場に的外れな、どうでも良いことのように思われた。
 ラトが俯き目をそらすと、ハティアは一瞬躊躇うような素振りを見せ、それからラトへ手をのべる。しかしその手がやはり、ラトを擦り抜けたのを見て、「ごめんなさい」と項垂れた。
「心配かけてごめんなさい。でも、私だって心配したのよ。ラトったら随分うなされて、三日も目を覚まさないんだもの。ラトに触れられない私には手当も出来ないし、精霊達の様子もおかしくて、丘は異様な雰囲気だし、どうしたらいいかわからなかった……」
 聞いて思わずはっとした。丘。それに精霊達。それを思えばあまりに自然に、あの洞の中での出来事が思い出される。
 蒼い光を放つ天淵石。それを削り出そうと兵士達がツルハシを振るう度、精霊達が悲鳴を上げた。
「まさか、……あの後ずっと、精霊達は泣いていた?」
 聞くとハティアは困り顔で、一度小さく頷いてみせる。ラトの腹の内を、冷たい何かが通っていった。
「ええ。ずっとよ。今朝方まで、絶え間なくずっと叫んでいたの。その度にラトも酷くうなされるから、私、生きた心地がしなかった」
 耳を澄ませてみて気づく。今はかえって奇妙なほどに、精霊の声が聞こえない。
(僕が、――あの鈴を落としてしまったから)
 ラトがあの鈴を奪ったとき、リストンという名のあの女は、血相を変えてラトを追うように指示をした。それもそのはず、あの鈴――ソル・オリスの鈴は、天淵石と呼ばれた青い石を削り出すために、どうやら不可欠な物のようなのだ。
――急げ、作業が遅れているぞ! 宰相閣下のご期待を裏切る気か!
――何者かに、リストン様の鈴を奪われた! まだこの辺りにいるはずだ。必ず捕らえろ、殺しても構わん! あの鈴を取り返すんだ!
――ここであの光へ飛び込むか、後で私に殺されるか、今すぐこの場で選びなさい! どうせ、たいしたことはないわ。天淵石を扱えるのは、『城』の主だけなんだから!
 叫び声が消えたのは、兵士達が石の採掘を終えたということだろうか。
 ソル・オリスの鈴、天淵石、『城』の主。わからないことばかりだ。だが。
――おや。お前、『天空の城』のことを覚えていたの?
 不意に、そう言って笑った精霊の長の事を思い出す。
 『城』。
 しかしはっとしたラトが顔を上げた、その時だ。
「おっと、ようやくお目覚めか」
 聞き覚えのある男の声に、ラトは思わず瞬きした。そうして声を振り向けば、丘で出会ったあの旅人が、カンテラを手に頓着のない様子で立っている。
「おまえは」
「キリ!」
 ハティアが名を呼ぶ明るい声。その声の親しげな様子にラトは何故だかむっとして、しかし彼女を振り向きざま、慌てて周囲を見回した。気づけばラトのすぐ側から、忽然とハティアの姿が消えていたのだ。
「ハティア、……?」
 呼んでも答える声はない。だがキリという名のあの旅人だけは、なにやら合点がいった様子で「ああ」と呟くと、手に持ったカンテラの明かりを吹き消してみせた。
「心配しなさんな。ほら、お前の隣にいるよ」
 言って、キリがラトの隣を指さす。素直に従うのは癪に障ったが、しかし示されるまま顔を向け、ラトは思わず息を呑んだ。そこには先程と少しも変わらぬ様子で、ハティアが座り込んでいたのだ。
「どうも、ハティアがその姿でいられるのは、月の光の下だけらしいぜ」
 男の言葉にハティアが頷く。そうして彼女は困り顔で、ラトにこんなことを言った。
「火や太陽の光があると、駄目みたい。はじめに丘の家へ行ったときにも、ラト、カンテラに灯りを点けたでしょう? そうしたら急に、私の声、届かなくなっちゃって……」
 言われてみれば、確かにそうだ。丘へ帰ってきたあの夜、ラトが埃の積もったカンテラに灯を点け、振り返ると、ハティアの姿が消えていた。
「でも、……あの、じゃあ、その後に僕を助けてくれた、あの金色の眼の狼は? あれは君じゃなかったの」
 尋ねると、ハティアは些かばつが悪そうにキリを見て、「あれも私よ」と困り果てた口調でそう言った。その表情が、ハティア自身にも、あまり詳しいことはわからないのだということを物語っている。
「あのね、ラト。私、なんだかこの姿になってから、他の生き物の体を借りられるようになったみたいなの。相性の善し悪しはあるんだけど、相性さえよければ、その体で行動するのも、仲間を従えるのも、自由に出来るようになった。……あの晩、ラトがキリに襲われたのを見て、私、どうにかしてラトを守らなきゃって思って。そうしたらいつの間にか、森にいた狼の体を借りていたのよ。それで群れを巻き込んで、ラトのことを助けに行った」
「これだけ血の臭いがぷんぷんしてるのに、この森のど真ん中で、獣が寄ってこないのもそのおかげさ。ハティアが追い払ってくれたんでね」
 そんなふうに口を挟んだキリを、ラトが軽く睨め付ける。するとこの旅人は気にする様子もなくにやりと笑い、ラトのすぐ目の前で、手にした袋を手放した。濃い薬草の臭いがする。
 入れた袋に見覚えがあった。恐らくは、丘の家に残っていた薬草をとって来たのだろう。見れば矢を射られたはずのラトの右足には、不格好ながら包帯が巻き付けられている。
「それで、あんたはなんでここにいるんだ」
「おや、随分なご挨拶じゃねえの。命の恩人に向かってさあ。ラト君が大ピンチの時に、この俺が助けてやったんだ。忘れたとは言わせないぜ?」
 ラトにとってしても、忘れているわけではなかった。あの洞の中、兵士達に追い回され、もう駄目かと思った時にこの男の声を聞いた。足の傷の手当てだって、恐らくはこの男が施してくれたに違いない。だがしかし、それだけで警戒を解くわけにはいかないこともまた確かである。
「あんたは元々、僕を退治するように言われてきたんじゃなかったの」
 自然と言葉に棘が立つ。するとハティアが取りなすように、二人の間へ割って入った。
「待って、ラト。あのね、私がキリに、力を貸してほしいってお願いしたの。私、この姿の時は物に触れることも出来ないし、生き物の体を借りただけじゃラトを助けられないと思って……。あの叫び声が聞こえ始めた頃から丘は様子がおかしかったし、精霊達も、ラトが危ないって騒いでいたから。それにこの人、悪い人じゃないのよ。意外と」
「おいおい……、一言余計だよ」
 憮然とした様子でキリが言ったが、大して気にしたふうでもない。それから彼はちらりと自らの腕を見ると、「まあ、俺も手当の借りがあったからな」と付け加える。
「流石に初めてハティアの姿を見たときは驚いたけどさ。あんだけボロボロ泣きながら頼まれたんじゃ、断りようがないっていうか」
「キリ! そ、それは言わないでって言ったでしょう」
「はいはい。あぁ、それにしても、どこぞの狼に噛まれた腕が痛むなぁ」
 そう言われては返す言葉がないとばかりに、ハティアが頬を染め、俯く。そんなやりとりを眺めながら、ラトは小さく唾を飲み、それから幾度か瞬きした。
 何故だかこうしていることに、妙な違和感を覚えていた。あの薄暗い洞の中で、死にかけるような目に遭ったせいだろうか。それで、こんな風に穏やかに会話をすることに、抵抗にも近い違和感を覚えてしまうのだろうか。
「それにしてもこんな田舎の川岸で、一体何があったってんだ。結局あの兵士が何者なのかもわからねえし、丘の叫び声……その、精霊? とやらの声だって、なんで俺や町の人間にまで聞こえたんだか」
 言ってその場へ座り込み、キリがやれやれと溜息をつく。それを見て、ラトは再び唾を飲みこんだ。そうして右の手で、そっと、自らの額に触れてみる。
 ああ、違和感の理由に気がついた。
「キリは、怖くないの」
 問えば相手はきょとんとして、ラトの方へと視線を向ける。ラトは続けてこう言った。
「僕といて、気味が悪いと思わないの」
「ああ。おまえの額の目のことか?」
 今度は即座に聞き返されて、ラトは浅く俯いた。この男は、既にラトの目のことも、ラトが町の人間達から化け物として扱われていることも知っているはずなのだ。それなのに、こんな風に頓着せず、ともすれば親しげに話しかけてくる理由が、ラトにはちっともわからなかった。むしろ初めて出会ったときのように、いきなり襲いかかられた方が、よほど自然なことのように思われたのだ。
「そりゃ、確かにちょっと気味は悪いし、ハティアのことも含めて、得体の知れない奴らだとは思ってるけど」
 億劫そうに腕を組み、キリが首を傾げて言う。その視線がちらりと、怪我したラトの右足を見た。
「お前に出来ることも、高が知れてるらしいってわかったしな。そうしていれば、ただのガキじゃねえか。別に町の人間みたいに、闇雲に恐れちゃいねえよ」
 その言葉に、ラトの鼓動がどくりと鳴った。
――眠っていれば、ただのガキさ。
 木こり達に言われた同じ言葉が、今は少しだけ違う色を帯びて、ラトの胸の内を通っていく。
「精霊の声やら、三つ目やら、実体のない体やら、生で見聞きしちまったからな。もうこれだけ立て続けだと、『世の中には色んなケースがあるらしい』ってことでザックリ納得するしかねえっつうか」
 キリの話すその言葉は、軽くはあったが飾らなかった。おそらくは本心からそう思っているのだろうと、妙な安心感さえ抱けるほどだ。
 気づけば瞬きすら忘れていた。そうしてゆっくりと言葉を咀嚼して、思わず、といった様子で尋ねる。
「そんな適当な性格で、人生困らないの」
「お前、さらっとシビアな事言ったぞ、今」
「他人事ながら心配になった」
「意外といい性格してやがる」
 眉根を寄せてキリが返す。そんな二人を見比べて、ハティアがくすりと小さく笑った。キリはラトを睨むように目を細めて、しかしラトと目が合うなり、くっくと含み笑いする。
 ラトは一緒には笑えなかった。ただいつの間にか、肩の力は抜けていた。
 まさかこんな風に返されるなんて、思ってもみないことであった。
(ハティアといい、キリといい、……旅をする人は、みんな、異端にも鷹揚になるのかな)
 そんなことを考えると、胸の内が萎縮する。
 何故だか胸が痛かった。
 ハティアが笑っている。キリも笑っている。ここで一緒に笑えたら、どんなにか気が楽になるだろう。たわいのない会話で笑う自分の姿を想像しながら、ラトは無理に微笑んだ。せめてそうしてさえいれば、何故だか、今までに受けてきた誹謗も、洞で感じた無力感も、一瞬だけでも忘れてしまえるような気がした。

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