吟詠旅譚

太陽の謡 第二章 // 影、追う『影』

026 : Puteulanus lucis -4-

(僕は、死ぬのか?)
 ラトの心は静まったまま、奇妙にどくりと脈打った。
 ラトの眉間を貫くかのように、すぐ目の前にまで矢が迫っている。避けようがない。もし運良くかわせたとしても、この足だ。体を起こすのだってやっとなのに、一体どうやって逃げ切るというのだろう。
(ここで、死ぬのか? この暗闇の中で、このまま?)
 沢山の矢に貫かれ、鈴を奪われ、為す術もなく土に還るのか。
 鈴を握りなおすと、ちりんと軽やかな音がした。ああ、もしここで自分が死んだなら、この鈴の音と共に現れた、彼女は一体どうするだろう。そんなことを考える。
――ねえ、ラト。……私たち、これからどうしよう?
 指先の震えを隠しながら、気丈に振る舞いそう尋ねた、ハティアのことを思い出す。そうだ。彼女の失った過去を取り戻すために協力すると約束したのに、ここで何も果たせぬまま死ぬしかないのだろうか。
(ここで、僕が死んだなら)
 鈴はリストンと呼ばれたあの女の手に戻り、天淵石なるあの石は、これからも傷つき精霊達を悲しませるに違いない。木こり達は良い金蔓を失ったといって嘆くだろうか。町の人間達は、化け物が死んだと喜ぶのだろうか。
 では丘で出会ったあの旅人は? 一人で都へ向かったニナは?
(ああ、厭だ)
 心の奥が、鈍く軋んだ。胸の疼きは乾いていた。
 厭だ。
(いつか事実を知ったニナに悲しまれるのも、町の人間達に喜ばれるのも、――それになにより)
 このまま、ハティアに会えなくなるなんて。
 遙か頭上の大地の割れ目から、月の光がこぼれていた。その光の下に一瞬、狼の遠吠えを聞いた気がする。
(行かなくちゃ)
 そうだ。そのために、――出来ることがあるではないか。
 迫り来る矢を見据えると、ラトは小さく微笑んだ。そうしてそれらを凝視したまま、静かな声でただ一言、「邪魔をするな」と呟いてみせる。
 それは感情のこもらない、最早何の熱もない、ぽつりと零した言葉であった。その小さな声はおそらく、ラトを追う兵士達の誰の耳にも届くことはなかっただろう。だが。
 ラトの言葉には力があった。
「僕に構うな」
 もう一言だけ呟くと、洞の空気が、一変する。
 ラトのポケットに放り込んであったあの石が、青く冷たい光を放った。先程拾ってそのまま手放せずにいた、天淵石の欠片の石だ。ラトに向かっていた幾つもの矢は全て光の中へと取り込まれ、まるで一瞬で燃え尽きてしまったかのように、瞬く内に消え失せる。
 兵士達が息を呑む。ようやく追いついたのだろうリストンという名の女の顔も、ラトと兵士達を隔てる壁かのように屹立する、光の向こうへ並んで見えた。
 誰もが言葉を失っていた。しかしラトだけが彼らを尻目に歩き始めたのを見て、女が金切り声をあげる。
「お前達、一体何をしているの! さっさと捕らえて鈴を奪い返しなさい!」
 今の内に逃げなくては。しかし力を入れる度、まるで体中に熱を廻らせるかのように、右足の傷が悲鳴を上げる。それでもラトは半ば這うように傷を庇い、進み続けた。
「リストン様、しかし、あの青い光が」
「矢が一瞬で消え失せた! リストン様、あいつ、一体何者なんですか!」
「お黙り! 何者でもないわ、ただの子供よ! それを恐ろしいとでも言うつもり? さあ、ここであの光へ飛び込むか、後で私に殺されるか、今すぐこの場で選びなさい! どうせ、たいしたことはないわ。天淵石を扱えるのは、『城』の主だけなんだから!」
 ヒステリックに叫ぶ声。次いで幾人かの兵士が光に飛び込んだのを見て、ラトは壁をつたい、やっとの事で深呼吸した。
 急がなければ。見ればラトを守ったあの光も、段々と霞が晴れるように薄れてきている。兵士達が平気な顔をしてそれを越えてくるのを見て、ラトは奥歯を噛みしめた。
 ああ、重い足音が追ってくる。わかっているのにこの足が、鉛のようでもどかしい。
(逃げられない)
 しかしラトがもたれ掛かるように壁に体重を預けた、その時だ。
 不意にラトの遙か頭上から、聞き覚えのある声がした。
「ラト、どこだ! ――おい、居るならさっさと返事をしろ!」
 思わず耳を疑った。知った声だが、だがしかし、何故この声の持ち主が、ラトを探しているのだろうとちっとも理解が出来なかったからだ。
「ラト……?」
 リストンという名のあの女が、訝しげに眉をひそめている。
 兵士が徐々に、距離を詰める。
「ラト、いないのか! どこだ、どこにいるんだ!」
 急いた荒々しい男の声。その背後には高らかな、狼の遠吠えが響いている。
 何が何だかわからなかったが、天佑なのには違いない。ラトは微塵も躊躇わなかった。
「ここだ! 僕はここだ、――キリ!」
 遙か頭上に点在する、天窓のような割れ目に向かってそう叫ぶ。キリ。丘で出会った、あの旅人の男の名だ。彼が何故ここにいるのかも、どこでラトの名を知ったのかすらもわからなかったが、それでも声がラトを探していることだけは確かであった。
「ラト!」
「――ここだ!」
 直後、天窓の一つへ影が差した。誰かが穴を覗き込んだからだと、気づくのに時間はかからない。そこへロープが放られた。
「何やってんだ、早く掴まれ!」
 石のかけらと一緒に例の鈴をポケットに詰め、放り込まれたそのロープを、しっかり両手で握りしめる。そうして引き上げられるのを見て、ラトは小さく息を呑んだ。ロープを引き上げる人影の隣に、一瞬、よく見知った栗毛色の髪を見た気がしたからだ。
「ハティア?」
 呟く。引き上げられたラトの体が、湿った暗い地面を離れた。だがそれと同時に、ラトを追うように射られたその矢がロープを掠めて飛んでいく。キリの舌打ちが聞こえてきた。
 もう一矢、ラトの足先を矢が掠める。天井との距離が近くなる。キリの腕が、ラトの腕を強く掴んだ。その時。
 矢が、ラトの腹を掠める嫌な音がした。それはラトの服を浅く裂き、
 そこからこぼれた例の鈴が、地面に落ちて高らかに鳴る。
「鈴が――!」
 思わずロープから手が離れたが、キリの腕はラトを掴んで放さない。
「馬鹿、暴れんな! 落とされてえのか!」
「五月蠅い、放せ! ……っ」
 引き上げられたその瞬間、いまだ右足に突き刺さっていた矢が地面に擦って傷をえぐったのを感じ、口の中だけで小さく叫ぶ。痛みに、気が遠くなる。
「立てるか? 肩を貸すから、今はともかく森へ逃げるぞ」
「なんで、こんなところへ来たんだ」
「話は後だ! お前を無事に助けねえと、そこの狼に食われちまう」
 言われてラトははっとした。見ればラトに寄り添うように、そしてラトを気遣うように、ラトの顔を覗き込む、一頭の狼がそこにいた。
 間違いない。丘でラトのことを助けた、――金色の眼の狼だ。
「だけど鈴を取り返さなきゃ。……あの鈴を、僕が」
 引きずられるように歩きながら、うわごとのように繰り返す。しかしキリも、あの狼も、ラトの言葉には応えなかった。痛みのせいでそのうちラトにも、自分が今どこを歩いているのやら、段々とわからなくなっていた。
 朦朧とする意識の中で、ラトは再び、精霊達の嘆き悲しむ声を聞いていた。ああ、またあの石が、彼らに傷つけられているのだろうか。ラトが鈴を奪うのに失敗したせいで、彼らはまた、苦しまなくてはならないのだろうか。
(僕は、――禍人に奪われていた、あの力を取り戻したんじゃなかったのか)
 そうだとしたら一体なぜ、こんなに無力で役立たずなのだろう。
 ああ、また、精霊達の声が聞こえる。
 彼らの悲痛な鳴き声が、今はまるで自分に向けられた恨み言のようだと、ラトには思えてならなかった。

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