吟詠旅譚

太陽の謡 第二章 // 影、追う『影』

025 : Puteulanus lucis -3-

 遠目で見ても、なんて綺麗な人なのだろうとそう思った。線が細くてか弱げなのに、内面にはどんな猛者でも敵わないような、ピンと通った強さを感じた。物言いは横柄なのに、それすら当然だと思えるような、不思議な魅力が彼女にはあった。
 その当人が、今、ラトの目と鼻の先にいた。上目遣いでラトを見つめて、その頬にはうっすらと、柔らかな笑みを浮かべている。
 銀色の髪に、松明の灯りが照っていた。薄桃色の唇は、暗闇の中でさえ暖かな膨らみを帯びて見える。その膨らみが、ラトに言葉を囁いた。
「あら、お前……。洞の入り口で、話を立ち聞きしていた子ね?」
 問われて、ラトは思わずびくりとした。しかしそうして、ふと気づく。
 手足が自由に動かない。
 背から冷や汗が吹き出した。動け、動けと必死に手足へ命令するのに、手応えなんて少しもない。気づけばラトの体は今、この女の視線に捕らわれていた。まるで蛇に睨まれた蛙かのように、ラトには、目を逸らすことも出来ないのだ。
 緊張感と、得体の知れない事態への恐怖が募っていく。それに反してリストンは、ラトが少しも動かずただ彼女を迎え入れたことに、何の不思議も感じてはいないらしかった。
「あの木こり達、子供一人見張れないなんてね。あとでお仕置きしなくっちゃ」
 そう呟くリストンの声は、内容とは裏腹に弾んでいる。そうして彼女は目を細め、ラトに向かってこう言った。
「私を追ってきたのかしら? いい目ね。獲物を見つけた獣のようだわ。絶望を恐れ立ち回る、それなのにどこか諦めのある、……深く、強くて、穏やかな」
 白い指先が、ゆっくりとラトの頬に触れる。細い指はひんやりとして艶めかしく、まるで触れた相手を瞬時に凍り付かせてしまう、悪魔のそれのようでもある。ラトは小さく息を呑み、しかし女の指が肌を這うようにこめかみにまで伸びたのを感じて、思わず奥歯を噛みしめた。
 拾った布を巻き付けただけの額。この額の眼を見たら、彼女はなんと言うだろう。
――こんな事ならあのリストンって女がいるうちに、あいつの額を確認しておけばよかった。あいつが三つ目の化け物だと知ってたら、あの女だって、すぐ始末が出来るように手配してくれただろうに。
 木こりの言葉が脳裏を過ぎる。ラトの顔から血の気が引いた。そして、それから。
 柔らかく頬を這う指を払い、咄嗟に彼女を突き飛ばす。
 信じられないという顔で、リストンが幾度か瞬きした。一度視線が逸れたせいだろうか。急に体に自由が戻ったのを感じて、ラトは慌てて後ずさる。
 先程の、あの束縛感は、いったい何だというのだろう。しかしそれを考えるより早く、ラトは思わずぎくりとした。くすくすと笑う明るい声が、すぐ隣に聞こえたからだ。
「随分荒っぽいのね。せっかく額のボロ布を剥いで、風采を整えてあげようと思ったのに。――なあに、それ? お洒落かなにかのつもりなの?」
 言って微笑む彼女の表情に、もはや先程垣間見られた、驚きの色はどこにもない。しかし人を食うような、嘲りの色が消えたのもまた確かである。表情をいささか引き締めた彼女は片方の手を自らの腰に当てると、もう片方の手で、その細腕からは想像もつかないような力でラトの右腕を掴んでみせた。
「おまえ、どうして自由に動けるの」
 問うた声は、先程までの、麗しい女性の声音とは異なっていた。
 艶やかなのに強かな、優しげなのに、相手に有無を言わさぬ声。聞いて、ラトは黙って彼女に従っていた、兵士達のことを思い出す。
「答えによっては、私のところで使ってあげるわ。私、強い人間は大好きなの」
 そうだ。――これは、支配する者特有の声だ。
 背筋に何か、冷たいものが走っていった。いけない、このままでいては、いつか彼女に捕らわれる。彼女を信奉し、主と仰ぎ意のままに動く、そんなふうにされてしまう。
 ああ、いけない。ここで圧し負けてはならない。ラトの鼓動がどくりと鳴った。
 そうして反射的に、その細腕を掴み返す。
「――!」
 女が小さく息を呑む声。しかしラトは構わずに、かえって彼女に詰め寄った。
「鈴を渡せ。あの青い石を、もうこれ以上傷つけるな」
「何を言っているの。おまえ、一体何者なの」
「何者かなんて関係ない。鈴を渡せ! あれは、」
 あれは石を傷つけるために使うものではないのだから。
 むしろ守るためにこそ、『彼女』に与えられたものなのだから。
 不意に脳裏を過ぎったその考えが何なのか、ラトにはついぞ、わからなかった。しかし彼女の手から鈴の入った箱を奪い取ると、即座に背を向け、走り出す。
「待ちなさい! その箱を、――ソル・オリスの鈴をお返し!」
 女の声が響いたが、振り返ることはしなかった。彼女の向かっていた方へ走れば必ず出口があるはずだと信じていたし、周囲は相変わらずの暗闇であるにしろ、道に惑うことはなかったからだ。ラトの握りしめたその箱が、そしてその中にしまわれた鈴が、ラトを導くかのようなのだ。
(『ソル・オリスの鈴』、――)
 リストンが最後に叫んだ言葉が、ラトの脳裏にこだまする。しかしその言葉の意味を、深く考えている時間はなかった。ラトの背後、リストンを置き去りにした方から高い笛の音が聞こえたと思うと、途端に空気がざわめき始めたからだ。
 精霊達のざわめきではない。これは、――人間の足音だ。
(追ってくる……!)
 手に武器を携えラトを追う、兵士の姿が目に浮かぶ。ラトは滑り込むように暗闇の中へ身を隠すと、まずは前方から何事かと様子を見に来た兵士達をやりすごした。彼らがすぐに訪れたことから見るに、恐らく出口が近いのだろう。後方の兵と合流して、追いかけられたら厄介だ。今の内に少しでも、距離を取っておかなくては。
 そうして幾らかまた走って、ラトは再び身を隠した。鼻を利かせれば夜露の湿った、しかし風通しの良い夏の夜の香りがする。出口だ。だがその手前には、やはり数人の兵士が待ちかまえていた。
(行かなきゃ)
 あの笛の音を号令とでもしていたのだろうか。彼らは皆武装して、刃を鞘から抜きはなっている。
(ここから逃げさえすれば自由だ。でも)
 奪った箱から鈴だけを出し、冷たいそれを握りしめる。しかしそうして、ラトが出口を睨め付けた、その時だ。
「出口を塞げ、絶対に逃がすな!」
 背後から聞こえたその声に、ラトは思わず息を呑む。覗いてみれば思ったよりもずっと早く、そしてずっと多い人数で、洞の奥から兵士達が駆けてきたのが見て取れた。先程石を削っていた兵達が、全て動員されたのではとさえ思うような人数だ。彼らの声を聞き、出口を守っていた兵達も、即座に隊列を組み直す。楯を敷き詰め刃を押し出すその様は、さながら人の壁のようだ。
「隊長、一体何事です!」
「何者かに、リストン様の鈴を奪われた! まだこの辺りにいるはずだ。必ず捕らえろ、殺しても構わん! あの鈴を取り返すんだ!」
 思わず言葉が詰まったが、しかし鈴を握りしめる手の力は、ただ増してゆくばかりである。土壁に置いていたラトの右手にも、気づけば力がこもっていた。生した苔と冷たい土が、爪の間に入り込んでいる。夏だというのに冷えた指先はかじかみ震えたが、それでも鈴は放さなかった。
 この鈴だけは、なんとしてでも渡さない。あの兵士達全員を敵に回すことになったとしてもだ。しかし自分が何故そんな風に思うのか、ラトには正直わからなかった。
 この鈴があの女の手に戻れば、天淵石と呼ばれたあの石は、恐らくまた傷つけられる。あの石が傷つくと、どうやら精霊達も傷つくのだ。彼ら精霊達と共に生き、その長に命を救われたラトに、そんな行為を見過ごすわけにはいかなかった。そして何より、――
 あれは石を傷つけるために使うものではないのだから。
 むしろ守るためにこそ、『彼女』に与えられたものなのだから。
 リストンから鈴を奪う直前、脳裏に過ぎった思いが甦る。
(『彼女』……、『ソル・オリスの鈴』……)
 土壁から手を放し、そっと出口へ背を向ける。多勢に無勢だ。正面突破など出来るはずもない。しかしそうして、ラトが闇へと向かった、その瞬間。
 不意に差し込まれた松明の灯が、ラトのいる場を今、煌々と照らし出す。
「いたぞ、捕らえろ!」
 言葉が終わるその頃には、ラトは迂路へと駆けだしていた。あの鈴のおかげか、暗闇に惑わないのを良いことに、身軽に段差を駆け上がる。しかし心は戦いていた。
(逃げろ。ここで逃げ切ることが出来れば、ここから、ただ逃げ出すことさえ出来たなら)
 自分自身を鼓舞するように、心の中で繰り返す。そうする内にも、ラトの背後に怒号が響いていた。
「矢を番えろ、足を狙え! なんとしてでも取り返すんだ!」
(どうにかして地上に出られたら、あの丘にたどり着いたなら)
 嫌な汗が背筋に落ちる。ふと、ラトのすぐ隣で風を切るような音がした。矢だ。矢を射かけられているのだ。だがラトがその恐怖に戦くよりも先に、ラトの肩口を、耳の先を、腕の隣を、幾筋もの風が過ぎていく。
「あっ――!」
 その時思わず言葉が漏れた。急に体のバランスが崩れたのを感じて、ラトは胸から倒れ込む。裂くような痛みが走っていた。何事かと見てみれば、ラトの右足に深々と、一条の矢が突き刺さっている。
 舌打ち。そして瞠目する。振り返ればラトの眼前に、幾筋もの矢が勢い込んで迫っていたのだ。

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