吟詠旅譚

太陽の謡 第二章 // 影、追う『影』

024 : Puteulanus lucis -2-

「このお祭を成功させたら、ラトの願いは叶うかも知れないのね」
 色のない、偽りのあのマカオの町で、ハティアはラトにそう言った。
「確かな事ではないけど」
「ううん、きっと上手くいく。理由はないけど、そんな気がするの」
 そう言って、ラトの歌姫はにこりと笑った。そうして彼女はラトの手に、小さな鈴を握らせたのだ。
「……これ、鈴?」
「そう、お守り! ここへ帰って来た時に、下でこの鈴を鳴らして。そうしたら私、すぐに梯子を降ろすから」
 言ってハティアは、「いってらっしゃい」とラトを見送った。

(あの鈴、ハティアのものと同じ……!)
 暗がりの中、ちらりと見えただけだというのに、何故だかラトには確信があった。それがハティアの持っていた鈴そのものなのか、それとも似ているだけの別物なのかはわからなかったが、それでもしかし一瞬聞こえたその音に、なにやら確かに『同じ』ものを感じたのだ。
 ハティアと初めて出会ったとき、ラトの足を止めさせた音。偽りのタネット川の中で、ラトの手の内から遠ざかっていった音。
(それに、――マカオの丘で精霊達の笑い声や叫び声に混じって聞こえた、あの音)
 ラトの背筋を怖気が走る。そうだ。確かキリと名乗った旅人と、押し問答をした後の事だ。あの時は確か、鈴の音の後に笑声が満ちた。そして、それから。
 女の腕が、鈴を鳴らす。
 それとほぼ同時の事だった。静まりかえっていたその場所に、笑い声が木霊する。精霊だ。先程までは露程もその存在を感じさせなかったのに、一体どこに潜んでいたというのだろう。
 それはマカオの丘で聞いたのと、よく似た奇妙な笑い声であった。楽しくて仕方ないというようでもあるし、あるいはたがが外れて抗いようがないとでもいうような、狂おしさに溢れた声でもある。
 不意に足から力が抜けて、ラトはその場へ座り込んだ。
(しまった)
 丘で聞いたときと全く同じだ。視界がぐらぐらと波打つ水面のように揺れ、手にも足にも力が入らない。せめて見つからないようにと体を低く伏せはしたが、それ以上に、ラトにはどうすることも出来なかった。体の自由がきかないのだ。
(ああ、でも、――丘でこの声を聞いたときと、同じ事が起こるのなら)
 丘でのことを思い出し、ラトは思わず身構えた。その目は松明の灯りを反射する、ツルハシの先を凝視する。
 カツン、と刃の振り落とされる音。
 それは先程までとは打って変わった、確実に、石を削りとる音であった。
「っ――!」
 鋭く高いその声が、ラトの耳孔を貫いた。先程まではあれほどに楽しそうだった笑い声が、突如として、悲痛な叫びに取って代わったのだ。咄嗟に耳を塞ぎ、壁に身を寄せるようにして蹲ってはみたものの、それでも音を防げやしない。
(これは)
 奥歯を噛みしめ、顔をしかめる。洞中が声で満ちていた。例の石へ向けてツルハシが振り下ろされる度に、精霊達が叫ぶのだ。
――厭だ、やめて。
――痛い、身が、灼ける。
 脳裏が、苦悶の声でいっぱいになる。
 身が捩れるような思いであった。ラトを襲う痛みはないのに、精霊達の嘆きの声を聞くにつれ、まるでその身に刃を突き立てられたかのように、全身から汗が吹き出すのだ。
 天淵石、鈴の音、採掘場と兵士達、……マカオの丘の、叫び声。
 ようやく何かが一つに繋がったように思うのに、視界が歪んでまともに物が考えられなかった。一方、兵士達は素知らぬ顔で、石を削り続けている。
(丘でこの声を聞いたときも、……キリとかいうあの旅人は、なんでもない顔をして歩き回っていた)
 日頃から精霊の声を聞くラトだからこそ、こんなにも彼らの声が堪えるのだろうか。こんなにも、苦痛で胸がいっぱいになるのだろうか。
 壁に寄りかかるように座り込み、ラトは大きく深呼吸した。体が辛いのは確かだが、いつまでもここで屈んでいるわけにはいかないことも、また重々承知している。見つかる前に去らなくては。早く出口へ向かわなくては。
(あのリストンとかいう人が来た道を使えば、外へ出られるかも知れない)
 上手く外まで逃げおおせることが出来たら、あとはハティアを探して丘を去るだけだ。だが、しかし、その前に、――。
――厭、厭、厭!
――何故こんなことをするの、やめて、やめて!
 声が聞こえる。視界が泳ぐ。自らの胸元を掴むその指に、いつしか力がこもっていく。
 ラトの目は自然と、リストンと呼ばれた女の腕を追っていた。
(石の硬化がどうとか言ってた。急に石が削れやすくなったのには、……多分あの鈴が、何か関わってる)
 ならばあの鈴さえなければ。
 あれさえ奪えばこの土地の精霊達は、苦しまずに済むのではないか?
 しかしそこまで考えて、ラトは思わずはっとした。一体、何を考えているのだ。あの女の周りには兵士がいる。下手に手を出したところで、返り討ちに遭うのは目に見えているのに。
(――だけど)
 もう一度、空洞の中心へと目を移す。こうしている間にも、悠然と聳え立つその石は薄ぼんやりとした青い光を放ち、悲しみを湛えるかのように、そして涙を落とすかのように、ぎしぎし軋んでその身を削り取られてゆく。
 その時ころりと、青く輝く石の欠片が転がってきた。
 指の先程もない、それは小さな欠片であった。しかしその表面に触れて、ラトは小さく息を呑む。
 不意にラトの目の前へ、丘の景色が広がった。
(ああ、これは)
 ラトのよく知るマカオの丘だ。しかしラトの視界はいつもとは違い、随分高い位置にある。まるで空を飛ぶ鳥にでも乗って、丘を見下ろすかのようだ。
(これはまさか、……精霊達から、見た世界?)
 けっして豊かであるとは言えない土地に、濁った河水、人のいない町。しかしそんな中を彷徨いながらも、彼らの視界は軽やかであった。
――精霊達が、あなたを『おかえり』って歓迎しているもの。
 ああ、そうだ。彼らはいつも人間以上に、ラトのことをも受け入れてくれた。
――お前の言った通りかもしれないね。
――この『器』はきっとまだ、昔のことを覚えているのだわ。……そうでなければ、この私が、こんなふうに人の子を愛しく思うはずはないもの。
 長の言葉が、ラトの脳裏を過ぎっていく。
(ああ、そうだ。このマカオの精霊達は)
 どくん、とラトの鼓動が鳴る。
(僕にとっては古くからの友人だ。僕にとって彼らの存在は、町の人間達よりずっと身近なところにあった)
 その彼らに、害を加える者達がいる。彼らの領土を踏みにじり、刃を立てて、荒らす人間達がいる。
――厭だ、痛い、やめて。
――どうして、どうして。
(あの鈴さえ奪えば、)
 心の中で、問いかける。
(そうすればおまえ達は、もう、苦しまずに済むの?)
 拾った欠片を握りしめると、急に辺りが静まった。
 精霊達の叫び声も、石を打つツルハシの音も、全てが、ラトの耳から遠ざかっていく。
「――そろそろ、閣下を迎えにあがる時間だわ」
 女がそう言う声が聞こえて、ラトは思わずはっとした。そうして咄嗟に、闇の中へと身を縮める。
「ではリストン様。わたくしめが出口まで随行させていただきます」
「要らないわ。洞の中まで、狼が徘徊しているわけでもないし」
「しかし」
「私に二度、同じことを言わせるつもり?」
 言って、女が石に背を向ける。兵士達はしばし戸惑う素振りを見せていたが、それでも、あの線の細い女の言葉に従うことにしたようだった。
 そんな様子を、ラトは酷く冷めた目つきで眺めていた。兵士達を敵に回したところで、おそらく勝ち目はないだろう。だが、あの女から鈴を奪うだけならば。
――痛い。助けて。
 助けて、ラト。
 奥歯を噛みしめ、息を殺し、そっと様子を窺った。そうしてリストンが元来た道へ戻っていくのを、闇に紛れて追いかける。
(もう少し、出口に近づいてから……。鈴はあの人の持った箱の中だ。あれだけ奪って、すぐ逃げれば)
 思わぬ好機に胸が鳴る。女は灯を掲げ、迷いのない様子で洞の中を歩いていた。その背中にはなんの警戒心も、注意深さも感じない。
 そうしてラトはしばらくの間、女の後を追っていた。見れば彼女は確実に出口へ向かって歩いているらしく、頭上にはまた少しずつ、月の明かりを差し入れる、洞の割れ目が見えている。
 心が安堵にいささか揺れた。これできっと、あの狼の元へ行く事が出来る。身を裂くような叫び声からも、解放されるかもしれない。しかしラトが息をついた、その時だ。
 からんと乾いた音がした。
 聞いて顔を青くする。足下の石を、蹴飛ばしてしまった。
 慌ててその場に足を止め、曲がりくねった道の陰に、ラトは咄嗟に身を潜めた。そうしてこっそり様子を窺えば、あのリストンという女はラトに背を向け、先程と変わらぬ様子で歩いている。
 音に気づかなかったのだろうか。そう考えたラトは軽く目を伏せ、小さく胸をなで下ろし、――そして、異変に気がついた。
 女の高い靴音が、先程よりも早足になる。その上、その音は真っ直ぐに、
 ラトへ向かってきていたのだ。
 息を呑んで、顔を上げる。するとラトを覗き込んだ艶やかな双眸が、好奇の色に輝いた。
「ねえ。お前、そこで何をしているの?」
 囁くような女の声が、洞窟の中へ静かに響く。
「私のこと、ずっと尾けていたでしょう。どうせならこっちへいらっしゃいよ。私とお喋りでもしましょう? ちょうど、退屈していたの」

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