吟詠旅譚

太陽の謡 第二章 // 影、追う『影』

023 : Puteulanus lucis -1-

 薄暗がりのただ中を、ラトは独りで駆けていた。
 拾った布を巻いただけの、手首の傷がひりひりと痛む。手探りでロープを切ろうとしたために、硝子で幾度かひっかいてしまったのだ。未だ乾かぬ傷口からは、時折血がにじんでいる。
 それでも、形振り構っていられなかった。
(早く行かなきゃ。……兵士達は武器を持ってる。いくら群れをなしてきたといっても、まともにやり合えば、狼だってきっとただでは済まないはずだ)
 ロープを解くのに手間取って、兵士達も、その灯りも、すっかり見失ってしまっていた。行かなくては。兵士達に追いつかなくては。しかしそうは思うのに、闇雲に駆けてみたところで出口は少しも見えてこない。
 洞は案外広かった。
 細い路が入り組んで、複雑に道が延びている。指で触れる壁には苔が蔓延り、時たま月光を差し入れラトを導く天窓は、遙か小高いところにあった。まるで横に広がる蟻の巣のようだが、恐らく人の手で掘られたものではないだろう。この洞は幾千もの長い歳月をかけて、自然と創られたものなのだ。
(タネット川のすぐそばに、こんなところがあったなんて)
 マカオの丘に住んでいた頃には、噂に聞いたことすらなかった。しかしラトには不思議なことに、初めて来たという気はしない。
 精霊の長と出会って別れた、あの洞にどこか、似ていたからだ。
 その静謐さが、心を満たす澄んだ冷気が、どこか記憶に新しい。長のおわしたあの洞は、タネット川をずっと上流へ遡ったところにあるはずだ。
(もしかすると、精霊の長とも何かゆかりのある場所なのかもしれない。――だけど、それにしては)
 考えて、思わず奥歯を噛みしめる。
 それにしては、――どんなに耳を澄ませても、精霊の声が聞こえてこない。
 思った瞬間、がんっと鈍い音がした。暗闇の中、壁へ正面衝突したのだ。既に瘤の出来ている、頭がぐらぐら揺れている。苛立ちを押さえてその場へ座り込むと、ラトは大きく舌打ちした。
 マカオの廃墟でそうしたように、精霊に道を尋ねることが出来たなら。彼らに導かせることが出来たなら、どんなに手っ取り早いだろう。
 疲労のためか、緊張のためか、ラトの片頬に汗が落ちた。ラトはそれを苛立ちに任せて袖でぬぐったが、額に巻いた布きれが落ちてきた時だけは、慌ててそれを結い直す。
 腕の傷口に巻いたのと同じ布だ。額の目は既に何人かに見られてしまったようだとわかっていたが、それでも、何も巻かずにいるのは落ち着かなかった。
――見せ物小屋でも何にでも、とっとと売られちまえばいいのに。
 疲れに浅く目を瞑れば、煩わしい声ばかりが脳裏を過ぎっていく。
――覚えてないか? ほら、先代の占い師が死んだ頃、あいつをどこか見せ物小屋へ売っちまおうって話があったろう。
――なんにせよ、お前が三つ目の化け物であることに変わりはないんだ。俺としては、おまえを全ての事件の犯人に仕立て上げたっていいんだぜ。
「……うるさい」
 力なく、ただ、ぽつりと呟いた。握りしめた手首の傷が、どくり、どくりと脈打っている。
――あの化け物のせいで、この町も終わりだ!
――俺はただ、こう頼まれたのさ。
「うるさい。……もう、黙れ。黙れよ」
――おまえは現実なんか、ちっとも望んでいないじゃないか。
「……、黙れ!」
 かすれた声で短く叫んで、思わずその場へ立ち上がる。
 ああ、駄目だと心が叫んだ。この暗闇を抜けなくては、光の下へ戻らなくては、今にも狂ってしまいそうだ。
(行かなきゃ、……)
 ラトを見上げたあの狼の、金色の眼を思い出す。そこに宿った不確かで微かな光でさえ、頼りにせずにはいられなかった。
(――、いつか見た夢の中でも、僕は独りで駆けていた)
 湿らせた指で風の向きだけ確認すると、再びふらりと歩き出す。
 あれはいつ見た夢だったろう。つい最近になって見たもののような気もするし、幼い頃から見続けた、見慣れた夢であった気もする。
(だけど状況は随分違うな。――あれは、黄金の田畑を駆ける夢だったけど)
 だがあの夢の中でさえ、ラトは何か言いしれぬ苛立ちを感じていた。某かに対する怒りと、もどかしさにも似た狂気。その想いだけがただ、ただ、ラトをひたすら駆けさせていた。
(行かなきゃ。あの、狼のもとへ)
(だけど僕に何が出来る? 狼に加勢して、兵士達と戦うのか?)
(そもそもあの狼が、何者なのかもわからないのに)
(何者でも構うもんか。裏切られたなら、その時はその時だ。だって僕には、僕には、今)
――私は幻じゃ、ないわ。
――気味悪いなんて思わないわ。その目があってもなくても、私にとってラトはラトだもの。
 拠り所など、他のどこにもないのだから。
 進めば進むほど、洞の空気が湿っていく。幽かに月の明かりを漏らしていた天窓すら、随分とその数を減らしていた。もしかすると出口に向かうつもりが、その全く逆、洞のより深みに向かってしまっているのではないか。そう考えると、気分の悪い汗が背筋を伝っていく。
 しかしそうしてラトがいくらか歩みを鈍らせた、その時だ。
「さあ、急げ!」
 不意に聞こえてきた声に、慌てて息を飲み込んだ。人の声だ。この暗闇によく通る、威厳を持った男の声。ラトは息を殺して身を潜めると、そっと声へと歩み寄る。
「急げ、作業が遅れているぞ! 宰相閣下のご期待を裏切る気か!」
 出口へ追いついたのだろうか。しかし声の響き具合から察するに、外へ出たとは思えない。耳を澄ませばカツンカツンと、何か堅いもの同士を打ち付けているかのような、不思議な音も響いている。
 進んでいくと、そのうち火が見えてきた。松明の灯りだろうか。しかしそうして様子をうかがって、ラトはその場へ足を止めた。
 思いがけない光景が、ラトの目の前に広がっていたのだ。
(あれは)
 大きな石がそこにはあった。丘の家がすっぽり収まる程度の空間に、柱のように聳えた石だ。その石に群がるようにして、何人もの兵士がツルハシを振り上げている。しかしラトの目を奪ったのは、彼らの存在などではない。
 石だ。その石はこの暗闇の中、
 青い光を纏っていた。
(あの光は、――精霊の長の持っていた、あの棺と同じ色)
 腕に鳥肌がたっていた。土壁に触れる指先が、緊張にひどく冷えている。自分の両目を疑ったが、どうやら見間違いではなさそうだ。
 何故あの棺と似た石が、こんなところにあるのだろう。よほど問うてみたくはあったが、答えがあるとは思えない。ここへ来ても、やはり精霊達は黙りを決め込んだまま気配を感じさせもしないのだ。しかし意図せず聞こえた声に、ラトは灯りから距離を取る。
「隊長。表に狼が出たと聞きましたが、私どもは加勢しなくてよろしいので?」
 一人の男が声を潜めて、もう一人へとそう尋ねた。どうやら声から察するに、先程兵士達に指示を出していたあの男だろう。するとそれまで黙ってその場を監督していたもう一人の男は、動じた様子もなく答える。
「それは外の者がどうにでもする。我々はともかく、宰相閣下がおいでになる前に少しでも、天淵石を採掘しておかなくては」
「しかしいずれにせよ、また石の硬化が始まっています。そろそろ鈴を使わなければ、いくらやっても埒があきません」
「問題ない。リストン様がおいでになる頃だ」
 話し合う二人の背後には、ツルハシで石を打つ音が絶えず鳴り響いている。恐らくは、そうしてあの輝く石――天淵石とやらを切り出そうとしているのだろう。
(そういえば、木こり達は何かの石を『宰相閣下』へ売ると言ってた)
 あれはこの石のことだったのだ。しかしそこまで考えて、ラトは慌てて息を呑む。どこかすぐ近くから、高い靴音が聞こえたからだ。どうやらラトが身を隠しているすぐ隣にも、何処かへ続く通路が存在しているらしい。
「作業は順調に進んでいるかしら?」
 そう問うた声に覚えがあった。この声は、――洞の入り口でも確かに聞いた、あの若い女の声だ。
「リストン様。作業は仰せの通りに行っております。ただ、また天淵石の硬化が始まりましたので」
「ええ。私も、そろそろこれが必要だろうと思ってきたの」
 悪戯っぽく笑う、場にそぐわない明るい声。覗き込んでみて驚いた。リストンと呼ばれた女が取り出したのは、見覚えのある鈴だったのだ。

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