吟詠旅譚

太陽の謡 第二章 // 影、追う『影』

022 : Homo homini lupus.

 金の稲穂の富に実った、それは美しい原であった。
 傾いた陽が、朱々と世界を照らし出している。そこを駆けると足下に張った透明な水たまりから、きらきら光る水滴が跳ねた。
 ああ、美しいな。
 目を細め、そんな事を考える。そうしてふと、気がついた。
 稲穂に一つ、大きな影が映っている。豊かなたてがみをなびかせて、悠々と駆ける獣の影だ。
(ああ、あれは僕だ、――僕の影だ)
 そうだ。こうしてずっと駆けていたのだった。休息も取らず、疲れも知らず、ずっと、ずっと駆けていたのだ。
 けれどいつから?
 何の為に?
 そのうち遂に蹴躓き、金の獣が地に伏した。しかし痛む足をかばいながら、すぐに体勢を立て直し、再びそこを駆け始める。
 そうだ、行かなくては。
 行かなくては。会わなくては。
 その為に獣と化してまで、――この力を、手に入れたのだから!
 
 なにやら音を聞いた気がして、思わず肩を震わせた。そうして自身が覚醒していくのを感じながら、ラトは後頭部に残る疼痛に呻き声をあげる。
(ここ、どこだ……)
 徐々にだが、視界がはっきりとしてきた。どうやらラトは今、ぼんやりとした灯りの入る、薄汚れた洞のような所にいるらしい。そういえば薄れゆく意識の中で、閉じこめておけとかなんとか、そういう言葉を聞いた気もする。
 そうだ。確か背後から何者かに殴られて、それで意識を失ったのだ。瘤でもできているのだろうか、傷はいまだに疼いている。しかしそれに触れて確かめようとして、ラトはようやく自らの置かれた状況を理解した。
 手足が、ロープで強く縛られていた。
 解けないものかともがいてみても、手足に縄目が食い込むばかりだ。その上やけに視界が広いことに気がついて、ラトの肌は粟立った。頭に巻いた布がほどけ、額の三つ目が露わになっていることに気づいたのだ。
(殴られて、そのまま、……捕まった)
 そして恐らく、いや確実に、町の人々が憎み恐れる、額のこの目を見られている。
 背筋を怖気が走っていった。バーバオの町の人間達は、どこの馬の骨とも知れない旅人にまで依頼をして、ラトを『退治』しようとしたのだ。こうしてラトを捕らえたからには、恐らく容赦はないだろう。
 多勢に無勢だ、勝ち目はない。
 そんな事を思えば思うほど、緊張に胸が萎縮していく。目を瞑れば目蓋の裏側に、手に武器を取ってラトの周囲を取り囲む、町の人間の姿が見えた。ラトを化け物と呼び災いの種とする彼らの中には、思わぬ再会をした木こりの二人も連なっている――。
 しかしそこまで考えて、ラトは思わずはっとした。そうして唐突に、なにがしかの違和感に行き当たる。
(僕はあの時、『三つ目の化け物』として襲われたのか?)
 ラトを襲った人物は、背後からラトに近づいた。ラトの顔まで、見えてはいなかったはずだ。
――リストン様、その、こそこそと聞き耳を立てている者を見つけたもので。
 必死に冷静であろうとしながら、ラトはなんとか体を起こし、近くの箱によりかかる。この洞は倉庫として使われているもののようで、どうにか辺りを見回すと、そこかしこに木箱やら、酒樽のようなものやらが積み上げてあった。見上げてみれば遙か頭上に、小さな穴が開いている。わずかに漏れ入る涼やかな光は、どうやらそこから零れているようだ。
(陽の光……。いや、あれは、月の光か)
 どうやらラトが気を失ってから、いくらか時間が経ったらしい。そんなことを考えながら、ラトはそっと目を伏せて、気を失う前のことを思い返した。
 タネット川の川岸で、誰かの話す声を聞いた。ラトが覗いた先にいたのは、若い女と二人の木こりだ。木こりはラトとも互いに面識のある、元はマカオの人間であった。
――いいわね。宰相閣下がいらっしゃる前に、お前達は町へ帰りなさい。『石』への案内は、私が一人で行います。
――宰相閣下は高貴なお方。お前達のようなものに、お姿を見せるわけにはいかないの。
 察するに、どうやらラトは彼らの話を聞いてしまったせいで襲われたのだ。彼らが一体何のことを話していたのか、ラトにはさっぱりわからないのだが、彼らにとっては不都合があったということだろう。
 しかし彼らは、こんなことも言っていた。
――話を聞かれたのか? なら、今回も丘から落として始末してしまえば。
 ラトの背筋が凍り付く。今回も、ということは、以前にも同じように、彼らの会話を耳にして、口封じをされた人間が居たという事だ。更に不安を煽ることに、ラトはそうして命を絶たれた、その人物の名を知っている。
(運び屋の、ソル・オーシェット――)
 マカオの町へ行ったきり、戻らず死体で発見されたという、あの男の事に違いない。キリと名乗った旅人から聞いた話を、ラトははっきり覚えていた。
 一人でマカオに通っていたその男が、ある日小高い丘から落ち、首を折って死んでいるのを発見された。否。おそらく丘から突き落とされて、永久に口を閉ざしていることを強要されたのだ。
(ソル・オーシェットは、話を聞いただけで殺された。なら、……それなら、僕は)
 どちらにせよ、ラトをよく知るマカオ出身の人間に、この額の眼を見られたはずだ。そう考えれば冷たく不快な冷や汗が、ぞっと背筋を伝っていく。そして同時に聞こえた音に、ラトは肩を震わせた。
 積み上げられた木箱の向こう側から、足音が近づいてくる。どうやら向こう側には道があるようで、二つの声が何事かを囁きあいながら、こちらへ向かってきているようだ。
 ラトはちらと逡巡して、しかし咄嗟に、元居たように身を横たえた。まだ意識が戻っていないのだと装うために目はつむったが、耳をそばだてるのは忘れない。するとその内、会話の中身が聞こえてくる。
「それで、例の宰相閣下ってのはいらしたのかい」
「いや、なんでも川を上るのに時間がかかって、予定よりも遅れてるらしい。今のタネット川は異常だから、陸路を使った方がいいって、あれだけ勧めてやったのに」
 聞き覚えのある二つの声。タネット川の川岸で、耳にしたのと同じ声だ。
(ダル・ホーキンス、……それにもう一人は確か、ザオ・シキとかいう名前だった)
 ようやく思い出した二人の木こりの名を、心の中で反芻する。彼らの足音は木箱のすぐ向こうで止まり、そのままそこへ座り込んだのがわかった。その際にラトの様子を覗き込んだようだったが、ラトが目を覚ましていることには、どうやら気づかなかったらしい。
「陸路は、」
 声が続けた。
「お忍びなんで、駄目なんだと。ちょっとばかりも他人に姿を見られるわけにはいかないんだとさ。だがそのおかげで俺たちは、この窓もない洞窟の中で、延々あの化け物と一緒に待機してなきゃならねえわけだ」
 聞いて、ラトは思わず唾を呑んだ。倒れたときに切ったのか、口内にはうっすらと、血の味が滲んでいる。
 ラトは音を立てないように一度大きく深呼吸をすると、彼らの話に聞き入った。ラトが既に目を覚ましていることを、彼らが知らないのは好都合だ。
「厄介なことになったもんだ。あの赤い髪を見た瞬間、まさかとは思ったが……。町の人間をマカオから遠ざけるために、化け物の噂を流しはしたが、当の本人が出て来るなんて」
 まずそう言ったのは、恐らくザオという名の木こりであった。体躯は良いが気の弱い男で、以前はラトに出くわす度、小さく叫んで青ざめていたのを覚えている。成る程、丘で起こった一連の騒動をラトのせいだと言い触らしたのは、どうやら彼らであったらしい。しかしあんなにもラトを恐れ、避け続けたその男が率先してラトのことを噂話にしていたのかと思うと、なにやら可笑しい気分になった。
「こんな事ならあのリストンって女がいるうちに、あいつの額を確認しておけばよかった。あいつが三つ目の化け物だと知ってたら、あの女だって、すぐ始末が出来るように手配してくれただろうに」
 溜息混じりにザオが言った。しかし、もう一人は楽しげだ。
「なに言ってんだ。あいつを殺されたりしちゃ、困る」
「はあ? お前こそ、一体何を言い出すんだ」
「まあ聞けよ。俺たちは、一攫千金の好機を得たんだぜ」
 そういってなにやら語り始めたのは、ダルという名の木こりである。木こりにしては細身で頼りない感じのする男だが、昔からどんな時にも瞳をぎらつかせていて、なんだか気味が悪かった。その男が下品な笑い声をあげながら、こんな事を語って聞かせる。
「覚えてないか? ほら、先代の占い師が死んだ頃、あいつをどこか見せ物小屋へ売っちまおうって話があったろう。あの時はタシャの反対にあってうやむやになったが、今からだって遅くはないさ。今までは商人が町に寄りつかなくなるのを恐れて、対外的にはあいつの存在を隠していたが、こっそりやれば問題ないだろう」
「け、けど……。そんな事をして、俺たち、祟られないか?」
「そんなもん。祟りだの呪いだのってのが本当にあるなら、あの石を売っ払った時点で、俺たちはもう祟られてるよ。それにお前も言ってただろう。マカオで起きている何もかもは、あいつの仕業になってるんだ。殺して口封じをしたところで、万一あいつの死体を発見されでもしたら、それこそ厄介なことになる」
 言って、男の笑う低い声。どうやらザオという名の木こりの方も、それであらかた納得をしたらしい。
 ラトはそんな二人の会話を、息を潜めて聞いていた。それから小さく、身じろぎする。
(――見せ物小屋)
 それが一体どんなものであるのか、実のところ、ラトは詳しく知らなかった。しかし幼い頃、町の誰かの口からも、同じ言葉を聞いた覚えがある。
「見せ物小屋でも何にでも、とっとと売られちまえばいいのに」
 吐き捨てられたその言葉が、憎々しげにそれを口にした町の人間の表情が、幼いラトにはひどく悲しく思えたことを覚えている。悲しくて、そして何故だか恥ずかしかった。なにやら屈辱的なことを言われたようだと、その事だけが腑に落ちて、その日の晩は眠れなかった。
 そんな様子であったから、それが一体どういうものであるのかなど、誰かに問おうとは思えなかった。町の誰にも、勿論、タシャにだって。
 だが同じ言葉を聞いたはずの今のラトは、ただ、ただ、冷静であった。
(てっきり、なぶり殺しにでもされるかと思ったけど)
 そう考えて、ラトは小さく笑ってみせた。
 怯える気など、少しもなかった。
「眠っていれば、ただのガキさ」
 木こりの男が言い捨てる。つい先程までラトの背筋を冷やしていた汗は、最早すっかりひいていた。代わりにラトの胸の内を、場にそぐわない、少年らしい悪戯心にも似た高揚感が占めていく。
(誰が黙って、従うものか)
 なんにしろ、彼らにラトを殺す気がないことも、町の人間へ引き渡す気がないことも、ラトにとっては好都合であった。相手が彼ら二人だけなら、逃げおおせる機会はあるはずだ。
(それに、余所へやられるわけにはいかない。――まだ、この丘でやらなきゃならないことがあるんだ)
 不安げに金の瞳を揺らしていた、狼のことが脳裏にちらつく。あの獣を追わなくては。会って、そして、確かめなくては。
 しかしそう考える一方で、ラトはそもそもマカオの町へと自らを急き立てた、叫び声のことをも思い出していた。精霊達の悶えるような、あの悲痛な叫び声。結局あれは、一体何であったのだろう、――。
 頬に触れるこの洞の土は冷たく、どこか湿っぽい。ラトはそこへ横顔をうずめるようにして、じっと、耳を澄ましていた。こうしていれば地の精霊か、それとも大気の精霊かが、ラトに何もかも全て耳打ちしてくれるのではと、虫のいいことを考えたからだ。
(でも、まさかな)
 一年前、土砂へ埋もれかけた学校から、妹を助け出したときのことを思い出す。彼らはいつも気まぐれだ。ラトに親しげに話しかけてくることもあるくせに、冷淡なときは恨めしいほど酷薄なのだ……。
 ラトはうっすら目を開けて、ぼんやりと月明かりの漏れ入る洞を、少しの間、眺めていた。しかし、唐突に、
 洞に響いた叫び声に、思わず首を持ち上げる。
 それは確かに耳をつんざくような叫び声であったが、ラトが追ってきた、あの不思議な声ではなかった。人間の声。誰か知らない、男の声。するとその直後、こちらへ向かって走ってくる足音が聞こえてきた。
「大変だ、狼だ! 洞の外に、狼が群をなしているぞ!」
 狼。
 無駄なこととは知りつつも、ラトは咄嗟に体を起こし、縄を引きちぎるかのように力を込めた。いささか物音を立ててしまったが、そんな事にはお構いなしだ。
(狼。……きっと、あの狼だ!)
 もどかしい。行かなくては。それなのに、ああ、どうにも体が動かない。
 幸運なことに木こり達は、今やすっかり狼のことに気を取られて、ラトのことなど眼中にない様子であった。それどころか荷の向こう側で、知らせに来た兵士と怒鳴りあっている。
「狼の群れ? まさか! 奴らがこんなところまで出てくるなんて、今まで一度もなかったことだ!」
「だが、実際にすぐそこまで来ている! おい木こり、お前達も奴らを追い払うのに力を貸せ。じきに宰相閣下がお見えになるのだ、それまでには始末をつけなくてはならん!」
「ば、馬鹿言うな! 俺たちはあんたら兵士と違って、武器の一つも持っていないのに!」
「あまりこちらへ人員を割けないのだ。お前達だって食い殺されたくはないだろう! さあ、早く!」
 木こり達はそれでもしばらく異議を唱えていたが、結局は兵士の強制力に敵わない。ラトは木こり達の声が遠ざかっていくのをその耳に聞いてから、地を這うように、暗闇の中を見回した。
(なんでもいい、何か、このロープを切れるもの)
 不自由な手足で、積み上げられた荷物をあさる。そうして古びた麻布と、空になった瓶を発見すると、一度大きく深呼吸した。
 空き瓶を布で包みこみ、音を殺して瓶を割る。そうして出来た硝子の破片を、固く縛り付けられた縄へ押し当てた。
 行かなくては。――早く、ラトを助けた獣の元へ!

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