吟詠旅譚

太陽の謡 第二章 // 影、追う『影』

021 : Vox vocis quod umbra

 丘の家からマカオの町へと向かうのに、道らしい道が無いのは昔からの事だ。とはいえ獣道を延々と行かなくてはならないというわけではなく、起伏のある開けっぴろげな草原が、そこにはただただ広がっている。そんなふうであったから、方向さえ見誤らなければ、丘からマカオへ向かうのにも、逆にマカオから丘へ向かうのにも、そう大した手間はかからないはずであった。
 否、そのはずだったのだ。たったの一年前までは。
 泥濘に足を取られて転倒しそうになるのを、辛うじて踏みとどまった。そうしてラトはほんの一瞬足を止め、大きく深く息を吸う。
――精霊の加護がなければ、大地は育たない。
――去年の春、町を大雨で押し流したのも、町の人間達の言いがかりなのか?
 黄色く変色し、それでも大地に蔓延る草花を見る度に、叫び出したい気になった。当たり散らしたいような思いもあった。だがラトはその暗澹とした衝動を、全て駆ける力へ変えた。
 赤く染まる夕闇の中を、走って、走って、走り続けた。
 呼吸を求めて胸が焼け付く。
 火照った頬に髪が張り付く。
 足場の悪さに膝が軋んだが、それが、今のラトには嬉しかった。
 狼の遠吠えが、少しずつ近づいてきた。さあ、ここを越えればマカオの町だ――。
 しかしそうして丘を越えると、ラトは途端に足を止めた。そうして眼下に広がるマカオの町を、以前は町であったその土地を、言葉のないまま見下ろした。
 身を顧みずに走り続けたためだろうか。酸欠で、視界がいくらかぐらついている。不意に、風がまるで支えるかのようにラトの背に向かい吹き付けたので、ラトは思わず苦笑した。
「大丈夫だよ」
 答えはしたが、その目はまるで何かに魅入られでもしたかのように、マカオの土地から離れない。そうしてラトは再び、以前は町であったそこへ向かって、歩き始めた。
 惨憺たる、有様であった。
 吹き飛ばされてきた大木にでも当たったのだろう。支柱を失い、ひしゃげてしまった家があった。看板やポストは大半が吹き飛ばされ、それを支えていたらしい金具だけが、そこかしこにあてもなく取り残されている。
 何かを踏みつけた音に目をやると、川渡しの船であったらしい木片が、周囲にばらばらと落ちていた。町の中程だというのに、こんなところへまで川から乗り上げてきたのだろうか。少し歩けば壁の高い位置まで水へ浸った跡を残し、家具を散乱させたままになっている家もある。
(――酷い)
 心の中で、呟いた。
(酷い、……あの偽物の世界で見たよりも、もっと、ずっと……)
 ああ、この町は死んだのだ。そんな言葉が唐突に、ラトの心に落ちてきた。
 この町は、雨に、そしてラトの力に、かくも凄惨に殺されたのだ。
 しかしそうは思っても、不思議と胸は痛まなかった。それどころか、ラトはその有様を、当然のように受け入れてさえいた。それがマカオを恨み続けた自らの心を自覚したせいなのか、それとも無我夢中で走り回るうちに、何かそういう感覚をどこかへ忘れてきてしまったのか、今のラトにはわからない。しかしラトは町を凝視したまま、無感情に、足下に落ちた古びた桶を踏みつけた。すっかり腐った木材は、ぐしゃりと小気味のよい音を立てる。
 死んだ。町が一つ、すっかり滅びた。
 ここには、誰もいなくなった。
 言葉が胸に染みていく。なにやら愉快な気になって、ラトの片頬が不意に緩んだ。だが、その時。
 町中に、狼の声がこだまする。
 はっとして、ラトは思わず目を瞬かせた。間違いない。ラトが追ってきた、あの狼の吠え声だ。
(そうだ、僕はあの声を追ってきたのに)
 こんなところで、何をぐずぐずしていたのだろう。そう考えてラトは俯き、首を軽く横に振った。胸に渦巻いている、悶々とする気持ちを追いやりたかった。
 耳を澄ませてみれば、いつの間にやら、丘にまで響いていたあの恐ろしい叫び声が止んでいる。そして獣の吠え声も、それきりすっかり絶えてしまった。
 マカオに静寂が戻っていた。これでは声を追おうにも、何の手がかりもつかめない。しかしラトには、それで引き下がる気など少しもなかった。その日差しの内側に、樹々のさざめきの只中に、ラトを導くべきものがいることを知っていたからだ。
「教えて。聞いてるんだろう」
 誰にともなく、呟いた。すると微かに応えがある。姿無き声、言葉無き声、――マカオに棲まう、精霊達だ。
「今すぐ僕を導いていけ。……あの叫び声がどこから聞こえていたのか、あの狼がどこへ向かったのか、お前達は知ってるはずだ」
 長の力が弱まったからだろうか。彼らの存在は、以前マカオの町で感じていたそれよりずっと稀薄になっている。それでも彼らは戸惑いながら、まるで秘め事を耳打ちするかのように、ラトに向かって囁きかけた。
 明確な言葉ではない。だが、それを感じ取るのはお手の物だ。
 ラトはくるりときびすを返すと、再び一目散に走り始めた。今度は町の東側、タネット川へと向かってだ。
 打ち捨てられたマカオの町を、ただひたすらに駆けていく。パン屋の角を一つ曲がれば、あの偽物の町でラトが暮らしていた家があった。――そういえば、元は誰の家であったのだろう。ちらりと窓から中を覗きこむと、床に少女の持つような、色あせたぬいぐるみが落ちていた。
 更に行くと、ハティアの歌った鐘楼が見えてくる。煉瓦造りのこの建物は、流石にしぶとく残っていたが、そのてっぺんに、鐘は既にかかっていない。
(あれじゃ、既に『鐘楼』とは言えないな)
 ハティアはとりわけ、あの鐘楼で歌うことを好んでいたのに。あの有様を目にしたら、残念がるに違いない。
 そしてそうこうしているうちに、ラトは家々の間を抜け、田畑の跡地に並んで流れるタネット川の側へとたどり着いた。見ればすっかり水嵩を増し、囂々と音をたてて流れるこの川にも、井戸と同じ濁った水が満ちている。だがその荒れ果てた姿にやけに生き生きとしたものを見て、ラトは思わず微笑んだ。死んでしまった町の中、この川だけが生きていた。魔に姿を変え爛々と目を輝かせながら、この川だけが、ラトの帰りを待っていた。――ラトにはなぜだか、そんな気がしてならなかったのだ。
「だけどもう、お前に喰われてはやらないよ」
 川に一瞥をくれ、呟いた。濁流に呑まれ、生死の境を彷徨う経験なんて、偽物の世界で味わった一度きりで十分だ。しかしラトが川へと背を向け、辺りを見て回ろうと歩き出した、その時だ。
「いいわね。宰相閣下がいらっしゃる前に、お前達は町へ帰りなさい。『石』への案内は、私が一人で行います」
 人の話し声が聞こえてきた事に驚いて、ラトは思わずぎくりとした。川下の方からだ。しかしそれだけ確認すると、ラトはすぐさま、近くの岩場へ身を隠す。
「宰相閣下は高貴なお方。お前達のようなものに、お姿を見せるわけにはいかないの。さあ、わかったら早く準備をなさい」
 若い女の声だ。妖艶な柔らかさがあるが、しかし抗いようのない、力を持った強い声。いやに高慢な話し方だが、それにも何故だか正当性を感じさせる。
 あれは他人をかしずかせ、命令することに慣れている声だ。
「で、でも、……一人も残っちゃならないってのは、一体どういう事なんでさぁ。あれを見つけたのは俺たちだ。あんたには、まだ金だってもらってないのに」
「あら。つまり私たちが、あれを盗んで逃げるとでも?」
 不機嫌に、女の声がぴしゃりと言った。しかし相手が怯んだ隙を見て、女は更にこう続ける。
「安心なさい。お前達のような草の根にも、閣下は正当な対価を支払うと仰っているわ。けれどそれも、あの石が本物だった場合の話。それを今日確かめるのだから、黙って私に従いなさい」
 ラトはそっと岩影から顔を覗かせると、声のする方へ視線をやった。そうして、目を丸くする。
 見ればまずラトに背を向ける形で、漆黒のフロックを身につけた女が一人、立っていた。恐らくは、先程相手をなじっていた声の主であろう。そしてその目の前には、ラトにとっても見覚えのある、二人の男が立っている。
(あの二人、……マカオの町の、木こり達だ)
 丘の家で何度か鉢合わせた事のある顔を見て、ラトは思わず目を疑った。こんなところで再び彼らと会うことになろうとは、思ってもみない事だったのだ。
 マカオの町には古くから、しきたりがいくつか存在していた。木を伐採する際に行う、占い師のまじないもその内の一つである。木こり達は数日をかけてその仕事に臨む際、まずは必ず占い師の家へと立ち寄り、そのまじないを得るべしという決まりがあった。そうして森を守る精霊達に伺いを立て、加護を得なくては、いざという時に身を守る事ができないだろうと語り継がれていたからだ。
 ラトを育てたタシャも、ばあさまも、彼らに請われて護りのまじないを施していた。それでその際、ラトも彼らと顔を合わせることがあったのである。
 しかし、それにしても――。ラトは視線を木こり達からその手前に立つ女へと移し、警戒するように眉根を寄せた。木こり達がここで何をしているのかはさておくとしても、彼女に関してのみ言えば、一体何者なのかすら、ラトには見当もつかなかったからである。
 少なくとも、土地の人間ではなさそうだ。顔立ちや肌の白さはマカオの人々と雰囲気が異なっているし、身にまとったその衣服も、随分上質なものと見える。それになにより目を引くのは、彼女の髪の色であった。
 女にしては短く切りそろえられたその髪は、月のような銀色に輝いていたのである。
(確かあの人、宰相がどうとか言っていた。それがどの程度の地位かは忘れたけど、少なくとも、貴族にしか与えられない役職だったはず。……なら、あの人も?)
 ラトにとっては貴族など、噂に聞くことすら少ない雲の上の人間だ。だがそれでも、もし彼女がその貴族とやらだというのなら、何故だかやけに合点がいった。そんなことを思うほど、彼女は特別に見えたのだ。
 綺麗な女性だ、と素直に思った。声には人を従わせる力があったが、体つきは随分華奢で、支えてやらねば今にも風に飛ばされてしまうのではないだろうかと、おかしな心配までしてしまうほどだ。喪服のように真っ黒な衣服は場にそぐわず、しかし高貴な様相で、その笑みには冷ややかながらも見る者を魅了する何かがあった。
(だけどあの人は、こんな田舎の――、それも水害で人の消えた町へ、一体何をしに来たんだ)
 それも、マカオの町の人間達と、訳ありの様子で何かを話しあっていた。『石』がどうとか言っていたようだが、一体何のことだろう。
 ラトは自分でも気づかぬうちに、一歩、また一歩と、岩に隠れて彼らに近づいていた。彼らのしていたその話に、何故だか心が惹かれたからだ。しかしそうして更に一歩を踏み出そうとして、思わず肩を震わせる。
 ラトの背後で精霊達が、急にざわめき立ったのだ。
(……!)
 振り返ろうと身をよじる。一足遅く間に合わない。
 ラトの視界の端に、一瞬黒い影が映った。薪に使うような、太く重い木の枝だ。気づいたときには鈍痛が、ラトの後頭部を襲っている。
 途端、視界が真っ暗になった。
「何の音?」
 女がそう問う鋭い声。その問いへ、ラトの背後へ立った誰かが慌てて答えた。
「リストン様、その、こそこそと聞き耳を立てている者を見つけたもので……」
「話を聞かれたのか? なら、今回も丘から落として始末してしまえば」
「駄目よ。ラフラウト閣下の滞在中に、目立った事件を起こす訳にはいかないもの。ひとまずどこかへ閉じこめておきなさい。それから、……」
 話し合う声はどうやら続いているようだったが、ラトの耳には届かなかった。
 意識が急に遠ざかっていく。まるで暗闇へと続く、階段を駆け下りるかのようだ。
 そうして最後の一段へ足を置いたとき、ラトの意識は暗闇へ消えた。

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