吟詠旅譚

太陽の謡 第二章 // 影、追う『影』

020 : Tumulosus

 キリと名乗った男の話をまとめると、大体こんなところであった。
 ひと月前の、まだ夏の日差しが照り始めた頃のことだ。人々に打ち捨てられて久しいこのマカオの丘に、一人の男が訪れていた。
 男の名前はソル・オーシェット。以前はマカオで床屋を営んでいたそうだが、ついぞ関わり合いのなかったラトには、その男の噂話すら耳にした覚えがない。だがともかく、昨年の大雨を機にバーバオに移り住んだこの男は、居住の地を移してからも、度々廃墟と化したマカオを訪れていたのだという。聞くところによれば、男はなかなか故郷の地を踏みたがらないマカオの人々に代わって、マカオとバーバオとを往復し、町に残されたままになっている様々のものを運び出していたのだそうだ。そうしてその持ち主から運び賃を得、運び屋として細々と生計を立てていた。
「町の人々がマカオを避けていたのは、僕に会うのを恐れたから?」
 ラトがそう口を挟むと、キリは頷きかけ、しかしすぐに首を横に振る。そうして続けて、こんな事を言った。
「いや。町の人間は、丘の『声』を恐れていたらしい」
「声?」
 聞くと、キリは「そうさ」と続ける。
「まあ、町ではその『声』も、お前の仕業だって事になってたけどな。――なんでも去年の洪水以降、夕方にこの丘へ訪れると、どこからともなく泣き声か、叫び声か、そんなふうな何かが聞こえるらしくてね。町の人々はそれを気味悪がって、マカオに近づかなくなったらしい」
 「ふうん」と興味なげにラトが答えると、キリはにやりと笑って、「それがお前の仕業じゃないって事は、よくわかったよ」とまず言った。それから続けて、「お前は泣き寝入りなんかしそうにないもんな」とも。
「で、まあ、その運び屋の話に戻るんだけどよ、――」
 そうして物を運び、日銭を稼いでいた男であったが、そのうちマカオの町へ行ったまま、二日も三日も戻らないという事が増えてきた。町の人間が理由を尋ねても、男は青い顔をするだけで、ちっとも答えようとはしない。
 そうしてちょうど一月前、男が唐突に姿を消した。
 マカオの町へ向かったきり、遂にバーバオの町に姿を見せなくなったというのである。
 いつものように、その内ひょっこりと顔を出すだろうと考えていた町の人間達も、七日、十日と日が経つうちに、様子がおかしいと思い始めた。そうして男を捜す為、渋々マカオへ訪れた町の住人達が見つけたのは、既に腐り始めた彼の死体だったという――。
「男の死因は転落死。ぬかるみに足を取られて、丘の高いところから落ちたらしくてな。首の骨がぽっきりさ。だけど事件がそれで終わっていれば、ただの事故死って事で片付けられる可能性も大いにあった。ただし、話には続きがあってさ。その後も荷物を取りにマカオへ戻った人間が、何人か怪我をして帰って来ることがあったんだと。それも、どいつも、妙な人影に襲われたって口を揃えて言うんだよ。――それで町の誰彼も、『マカオの化け物』の事を思い出した」
「……。『化け物』が、町の人間への報復を始めたに違いない、って?」
 ラトが淡々とした口調で続けると、男はにやりと笑い、一度素直に頷いた。それを見てラトは、思わず俯き、溜息をつく。
――ざまあみろ。
 マカオの町が大雨に呑まれる姿を見て、ラトは確かにそう思った。マカオに大雨が降ったのに乗じて、精霊の長を滅ぼしにかかったのも他でもない禍人――ラトの『力』そのものであった。しかし。
(町の人間達も、僕に恨まれてるっていう自覚はあるわけだ)
 心の中で吐き捨てた。そうして静かに、体重を預けていた壁から体を浮かす。
「……、残念だけど、その騒動の犯人は僕じゃない」
 さして熱意も持たぬまま、ラトはぼそりと主張した。何を言っても、どうせ彼らは学ばないのだろうと、諦めに近い思いがあった。
 大雨の時とおんなじだ。マカオの町の人々は、何か未知の出来事に遭遇する度、それをラトへの恐れと混同するのだ。
 ラトの異形に、得体の知れない恐れを抱いているから。
 そうしてラトを冷遇してきた自分たちの行動に、少なからず負い目を感じているから。いつ仕返しをされてもおかしくない立場なのだと、心の底では気づいているから。
「信じるかどうかはあんたの自由だけど、僕も丘へは帰ってきたばかりなんだ。事件の話も知らなかったし、丘の声のことも初耳だ。……だけど安心してくれていい。こんな町、今すぐにでも出て行くから」
 もしもラトがこの場で、キリと名乗ったこの旅人に『退治』されたとしたら。そんな事を考える。それでも町の人々は、何か身の回りに異変が起こる度、今後も口を揃えてこう言うのだろう。「死んだあの化け物が、仕返しに厄を運んできたのだ」と。自分たちを苦しめるため、地獄の底から舞い戻ってきたのだろう、と。今でさえ、彼らは一年以上も姿を消していたラトの影に怯えているのだから。
 馬鹿馬鹿しい。怒れば怒るだけ、――虚しい。
「町を出て、その後一体どうするんだ?」
 旅人の男にそう問われ、ラトは小さく息をつく。できる限り何でもないふうを装ったが、この旅人にはそんな思いを見透かされているような気になって、なにやら気分が落ち着かなかった。
「あんたには関係ない」
「そういうわけにはいかない。俺も、金を貰ってお前の『退治』を請け負ってる」
「あんたの事情なんか知るもんか。ともかく、僕にはもうマカオやバーバオに近づくつもりは少しもない。あんた達に迷惑はかけないよ。町の人間にはこう言ったらいい。丘を捜したが、『化け物』はどこにも見つからなかった。そうこうしている内に森で獣に襲われて、命からがら逃げ帰ってきたんだ、ってさ」
 そうだ。この町から旅立つのだ。ハティアを探して、二人で行くのだ。しかしそうして男に背を向けて、ラトは不意に強く腕を掴まれた事に驚き、振り返る。見ればキリが静かな笑みを浮かべて、ラトのことを見上げていた。
「そう急ぐなよ。俺からも聞きたいことがある。昨日の狼は、お前が操ったのか? 今回の事件には関わりないと言っていたが、なら、去年の事件のことは? 去年の春、町を大雨で押し流したのも、町の人間達の言いがかりなのか?」
 男の声は静かながらも、その目は確信にも似た好奇の色に輝いていた。それを見ると、ラトの胸の内にむかむかとした、言いようのない苛立ちが募っていく。
「それに答える理由がない」
「理由ならあるさ。冤罪に問われたくはないだろ?」
 キリの目が笑う。同時に、ラトは小さく息を呑んだ。
 この旅人の腕には、一体どこに隠し持っていたのやら、小さなナイフが握られていたのだ。
(――!)
 掴まれた腕をひねりあげられ、壁に背中を打ち付けた。次いで聞こえたキリの言葉に、ラトは思わず臍を噛む。
「なんにせよ、お前が三つ目の化け物であることに変わりはないんだ。俺としては、おまえを全ての事件の犯人に仕立て上げたっていいんだぜ」
「っ……!」
 怒りのためだろうか。脳裏に熱い何かが走った。
 何も知らないくせに、何故そっとしておいてくれないのだ。
 何故自由にしてくれないのだ。
 要らないのなら、せめて、棄ててくれればいいものを。
(僕に居場所をくれとは言わない。『化け物』と呼ばれるならそれでもいい。だけど)
 苛立たしい。何もかもに腹が立つ。
 町の人間にも、この男にも、ああ、――何もかもに!
 次の瞬間、ラトは自由な方の手で躊躇いなく、包帯を巻いた相手の左腕に殴りかかっていた。ただでさえ血のにじんでいた包帯が、またじんわりと赤く染まっていく。せっかく縫合してやった傷が開いたのかも知れないが、もはやラトには関わりのないことだ。
「痛っ、……てぇ!」
 キリが叫んだのを聞き、咄嗟に腕を振り払う。しかし痛い痛いと喚きながらもんどり打つ男の背中を振り返って、ラトは思わず舌打ちした。
 この男は、――キリは、ラトに反撃されるのをわかっていて、あんな言葉を口にした。何故だか、そんな思いが脳裏を過ぎったのだ。否、彼はあえてラトを逆上させ、ラトがどう反応するかを窺っていた。そうしてその反応を見て、この三つ目の化け物が、本当に恐れるに足る相手であるのかどうかを判じようとしていたように思えたのだ――。
「……おまえなんかを、助けた僕が馬鹿だった」
 奥歯を噛みしめながらそう言うと、なにやら鈍い音がする。
「さあ、ここから、さっさと出て行け!」
 壊れるのではというほど乱暴に、扉を閉じて立ち去った。そうしてラトは何も持たずに家を出て、森に向かって呼びかける。
「ハティア、――ハティア、どこだ! 出発しよう、どこに隠れているんだ!」
 怒鳴るように、喚き散らす。それでも彼女の答えはない。
「行こう、一緒に行くと言ったじゃないか! 昨日助けてくれたのも、君だったんだろう? どうして答えないんだ、――ハティア!」
 呼んでも呼んでも、その声は虚しくマカオの丘を撫でてゆくだけ。夏の西日は丘の草木を赤々と染め上げて、熱でラトの心を焦らしている。ラトは遠く連なる森を強く見据えると、羊の柵へととって返し、錆び付いた鍬を握りしめた。森へ獣を、――ハティアと同じ瞳の色をした、あの狼を、探しに出かけるつもりであった。
(もう陽も落ちる。あの狼を見つける前に、他の獣に見つかったら危険だ。……でも)
 困り果てた様子でラトを見上げた、狼の眼を思い出す。そうだ。あんな男になど構わずに、すぐにでもあの狼を探しに行くべきだったのに。しかしそこまで考えて、ラトは、はっと顔を上げる。
 熱の残る夏の風に紛れて、どこからか、鈴の音が聞こえた気がした。
(この音は、……)
――これ、鈴?
――そう、お守り!
 偽りの世界の雨の中、ラトを導いた鈴の音。タネット川に揉まれる内に手放してしまい、見つけることも諦めていた鈴の音が、今、確かにマカオの丘に響いている。そしてそれに続いて、誰かの笑い声が聞こえてきた。
 精霊だ。精霊達が、笑っている。
 聞いて、ラトは思わず鍬を握る手から力を抜いた。この丘に立つことも、精霊達の声を聞くことも、確かに久しいことではあった。だがそれにしたって、彼らがこんなに楽しそうに笑うのを聞くのは初めてだ。
(この音、一体どこから)
 ハティアにもらった鈴の音。この音を追ってさえいけば、あるいは、ハティアの元に辿り着けるのではあるまいか。そんな淡い期待を抱いて、そっと耳を澄ましてみる。ああ、音が、また大きくなった――。
 鈴の音が、マカオの丘いっぱいに鳴り響いている。それはまるで夕日の朱にとけ込むように、草花に向けて囁くように、そしてラトに触れ、何かを伝えようとでもするかのように、辺り一面にその音色を響かせていた。けれどどんなに耳を澄ましてみても、音の出所は一向に掴めない。音同士がぶつかり合い、反響して、感覚を狂わせるかのようなのだ。
 必死になって、音に耳を貸しすぎたせいだろうか。ラトは視界がぐらつくのを感じて、そのままその場へ膝をつく。しかしそうして目を細め、一度耳を塞ごうとした、その瞬間。
 唐突に、夜がやってきたのかと錯覚する。
 ほんの一瞬、目の前が暗闇に閉ざされた。同時に精霊達の笑い声も、鈴の音も、まるで何か得体の知れないものに飲み込まれてしまったかのように、ぷつりと聞こえなくなってしまう。
(違う、夜じゃない。これは……)
 閉ざされたときと同じように、視界は唐突に戻ってきた。夕日に染まる丘、風にそよぐ草花。全て元通りだ。しかし鈴の音は、既に丘には響いていない。代わりに聞こえてきたのは、
 耳をつんざくような、叫び声であった。
――町の人間は、丘の『声』を恐れていたらしい。
――なんでも去年の洪水以降、夕方にこの丘へ訪れると、どこからともなく泣き声か、叫び声か、そんなふうな何かが聞こえるらしいんだ。
 身の毛のよだつ思いがした。明らかに人のものではないその声は、先程の鈴の音と同じようにかしましく、このマカオの丘に満ちている。できることなら今すぐにでもこの声の出所を突き止めて、口を塞いでやりたいのに、足が震えて立ち上がることすら出来やしない。
 ラトが膝立ちのまま呆然としていると、すぐ後ろで、扉の開く音がする。
「な、なんだ、この声!」
 不自由な左手をぶら下げて、飛び出してきたのはキリだった。彼は顔面蒼白になったラトへ駆け寄ると、思わず、といった様子で手を差し伸べる。
「おい、立てるか」
「……あんた、なんで歩いてられるんだ」
「なんでって、お前の方こそ一体どうしたんだ。顔が真っ青だぞ」
 言ってキリが、聞こえてくる音を鬱陶しがるように目を細める。それを見て、ラトは自分を襲うこの不快感に奥歯を噛みしめた。どうやら目の前に立つこの旅人にとって、こうして聞こえてくる叫び声は、ただ何か得体の知れない声であるのに過ぎないようなのだ。ラトのように、体の自由を奪われるほどのことではないらしい。だが、それにしても。
(この叫び声……。精霊の声に、そっくりだ)
 先程まであんなに楽しそうに笑っていた精霊達が、急に怯えて叫び始めた。そんな感じの声なのである。呪いの声。嘆きの声。一度でも耳を貸してしまった人間を、食い殺すかのような悲痛な叫び――。浅い呼吸で息を繋ぐ。胸をかきむしってみたところで、楽になれそうな様子は少しもない。
 苦しい。ラトの頬を、冷や汗がつたっていく。
 息が出来ない。何か巨大な力に、全身を圧迫されているかのようだ。
 キリが何かを話しかけてきているようだったが、ラトには最早、その言葉に耳を傾けられるほどの余裕すらも残ってはいなかった。脳裏が、悲鳴に支配されていく。何も考えられなくなっていく。――しかし、その時。
 何処かで、獣の吠え声がした。
 遠く近くに木霊して、高らかに響く獣の声。ああ、これは狼だ。狼の遠吠えだ。その吠え声が丘に渦巻く呪いのような叫び声を、霞の向こうへ追いやっていく。
「また、狼の声――!」
 キリが舌打ちするのがわかったが、ラトはそれに構わなかった。獣の遠吠えが響く度、そして叫び声が追いやられる度、少しずつ体が楽になっていく。これなら、なんとか歩けそうだ。
 差し出されていたキリの手を、まずは邪険に振り払う。そうしてやっとの事で立ち上がると、ラトは額に浮いた玉のような汗をぬぐいながら、マカオの町のあった方へと視線を向けた。
(狼の声が、移動していく)
 よくよく聞けば獣の声は、どうやら森を出てある一定の場所へと向かいながら、度々遠吠えをしているらしいと知れた。
 町だ。狼の吠え声は着実に、町のあった方へと向かっている。
「あっ……、おい、ちょっと!」
 背後からキリに呼び止められたが、振り返ることはしなかった。
 ラトは町へと続く一本道を、ただひたすらに駆けていた。

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