吟詠旅譚

太陽の謡 第二章 // 影、追う『影』

019 : Subitus hospes

 ラトが目を覚ましたのは、その日の夕方のことであった。
 とは言えラトがそのことに気づいたのは、目を覚ましてからいくらか経った後のことである。ぼうっとした頭で窓の外を見て、ラトはまず、既に日が西に傾き始めていることに驚いた。ラトにはそもそも、寝入った覚えすらなかったのだ。そうして次に、今し方まで自分自身が伏して眠っていた机を見て、思わず顔をこわばらせる。そこには止血に使った包帯やら、薬の煎じ滓やらが、散らかったままになっていた。
(そうだ。僕は確か、昨日の晩……)
 背筋に怖気が走っていった。昨晩この目で見たものが、入れ替わり立ち替わり、ラトの脳裏に甦る。
 この世界へ戻るなり見せつけられた、刃のきらめき、響く遠吠え、ラトを守るように周囲を取り囲んだ獣達――。そうだ、すっかり思い出した。そうして廊下の奥へと視線を向けて、ラトは小さく唾を飲む。昨日確認した限りでは、この廊下の一番奥、昔、ラトが寝起きしていたその部屋は、ラトが最後に見たまま部屋の主が帰ってくるのを待っていた。質素なベッドと数着の服、そして小さな書き机があるだけの簡素な部屋。だが今はそこへ至るまでの所々に、血の滴った跡ができている。
 疲労感と眠気に負けて、気を失う直前の記憶が正しければ。あの時のラトの選択が、偽りの記憶でさえなかったなら。――その部屋には今、腕に大怪我をした男が一人、手当をされて眠っているはずだ。
 ラトが助けてやったのだ。ラトを化け物と呼び、出会い頭に刃を突きつけてきた、あの男を。
(呼吸は安定していた。応急処置もしてやった。命に別状はないはずだ。……腕も、今まで通り使えるようになるだろう)
 考えてみて、自らのお人好し具合に苦笑する。そうしてラトは手始めに、家の脇にある深い井戸へと足を向けた。まずは顔でも洗って、少しでも、この悶々とする思いを晴らそうと思ったからだ。
 しかしそうして外へ踏み出して、ラトは思わず立ち止まる。
 扉を開けると視界の内に、否が応でも、昨晩の争いの跡が飛び込んできた。
 複数の獣の足跡に、わずかに残る、血のにおい。獣避けに水を撒いておいたはずだが、こんなにもはっきりと、そのにおいを感じるのは何故なのだろう。おかげで精霊達は皆、今もこの家を避けて通っている。
(ああ、そうか。……彼らは、血の汚れを厭うんだっけ)
 そういえばラトが羊を捌くときも、彼らは確か、こんな様子で遠のいた。それが仕事なのだと、それが『暮らし』なのだとラトが何度言ったところで、彼らは理解を示さなかった。ただそんな時は何も言わずに、そっと、ラトから遠のいていったのだった。
 そんなことを思い出しながら、獣の足跡をなぞるようにそぞろ歩きする。そうしてまだ青さの残る空を見上げ、夕時の影に溜息をついた。
「だから君も姿を消したのか、……ハティア」
 誰もいない草原に、むなしく風が吹いていた。
 だがそう問う一方で、ラトの脳裏を一つの懸念が駆け抜けていく。同時に思い出すのは、昨晩、ラトを助けた狼のことだ。
 金の眼をした狼は、脇目もふらずに旅人の男へと襲いかかった。その狙いに迷いはなかった。その目は気高く美しく、怒りの色にぎらついていた。
 あの狼の狩りは、他の獣のそれとは違った。飢えを満たすためのものではなく、ただ、ただ、
 目の前の敵を倒すための狩りであった。
――お前、獣を操れるのか。
――出会ったときは、今みたいな色じゃなかったでしょう。
――ラトは、どっちがよかったの?
(こんな事、まさかと思うのに。でも)
 今すぐにでもあの狼を追って森へと向い、事実を確認すべきだろうか。しかし武器も持たずに獣達の棲む真っ直中へ向かっていくのは、いくらなんでも無謀すぎる。獣を避けて森をゆく術なら心得ているが、この状況下では意味がない。
――あっ、でも、心配しないでね。私、ラトを置いて飛んでいったりはしないから。
 あちらから再び出向いてくるのを、こうして待つしかないのだろうか。それとも昨晩のように獣達がうまく言うことを聞いてくれるはずだと信じて、賭けに出てもいいのだろうか。
 そんな事を考えながら、井戸の釣瓶へ手をかける。そうしてそれが見えた途端、ラトは思わず舌打ちした。ああ、何故こんなにも、何もかもうまく行かないのだろう。
 ラトがすくい上げた水には土が混ざり、濁っていた。
「……、精霊の加護がなければ、大地は育たない」
 呟いて、しかしラトは即座に、昨晩拵えておいた簡単な濾し器へ手を伸ばす。布と木炭、そして砂を使って作った即席のものだが、これを使えば飲める程度の水にはなる。昨晩、例の男の手当をするにも清潔な水が必要であったから、その時もこれを使ったのだ。
 こういう事は、お手の物だ。ラトはさっさと飲み水を確保すると、冷たい水で顔を洗う。そうしてじっと、空になった羊の柵を見た。
 飲み水の作り方も、羊の育て方も、薬草の効用も星の読み方も生活に関わることは何もかも、ラトは習って知っていた。ラトを育てた二人の占い師が、ラトに何でもよく教え、学ばせたからだ。
(二人とも、いつか僕が一人で生きざるを得なくなった時のことを思って、そうしてくれていたんだろうな)
 そうして、ラトを畏れ遠ざけようとする、町の人間たちから守ってくれた。
 家に残っていた古びた布で顔を拭うと、ラトは、水瓶を手に家へと帰った。そうして乾燥させてあった薬草を水で戻し、擂り鉢に取ってすりつぶす。これらの道具も皆、この家に残っていたものだ。恐らくは旅に出るニナが、全ては持ちきれずに残していったのだろう。
 いくらも経たないうちに、薬と水との用意ができた。そうしてラトはもう一度、廊下の向こうへ視線を向ける。――そろそろ、あの男の包帯を換えてやらなくては。
 男はまだ、気を失ったままでいるだろうか。どうかそうであってほしい。剣を始め、男の持っていた武器は全て戸棚へ隠してあったが、また暴れられてはかなわない。しかしそうして自らの部屋の戸を開けてみて、ラトは思わず息を呑んだ。例の旅人が既にすっかり目を覚まし、ベッドに腰掛け、窓の外を眺めていたからだ。
「よう」
「!」
 声をかけられ、後ずさる。手に持った水瓶から、幾らか水が跳ね、こぼれた。
「おいおい。零すなよ、勿体ねぇな。それ、井戸水をわざわざ濾過したんだろ?」
「……、見てたの」
「そこの窓から見えたんでね。――、一応聞くが、この手当はお前がしてくれたのか?」
 聞いて、ラトは思わず眉根を寄せる。
――俺はただ、こう頼まれたのさ。『マカオの丘の化け物を、退治してほしい』ってね。
 この男はもしかすると、昨晩自分がラトにしたことを、すっかり忘れているのだろうか。そんな事を思うほど、男の言葉は気安げだ。ラトが埃の積もった書き机に薬と水を置き、「他に誰がいる」と答えると、男は「へえ!」と明るい声をあげる。
「やっぱりそうか! まあ、そうだろうとは思ったんだけどよ。いやぁ、それにしてもこの薬、よく効くなぁ。昨日の今日なのに、思ったよりも痛くねぇや。これもお前が煎じたんだろ? 薬の調合とか、手当の仕方とか、一体どこで習ったんだ? こんなド田舎に、専門的に学べるところがあるとは思えないし、……それとももしかして、こういう事、よくあるのか?」
 あって、たまるか。
 思わず言葉が出かけたが、ラトは黙して語らなかった。自分に刃を向けた人間の問いになど、一体誰が答えるものか。それにむしろ、問いたいのはラトの方なのだ。マカオのこと、男の受けた依頼のこと、聞きだしたいことはいくらもある。しかしラトが口を開くより前に、男が今度はこう言った。
「ああ、そうだ。せっかくだから、自己紹介でもしておこうか。……、俺の名前はキリ・ブラウ。何でも屋というか、うん、根無し草の旅人だ。ここしばらくは北を旅していたんだが、訳あって、今は都へ向かってる。で、その道すがら、偶然この辺りを通りかかったってわけだ」
 『都』――。ラトにとっての目下の目的地でもある、暁の都のことだろう。しかしラトが「へえ」と身のない相槌を打つと、男は「取り付く島もないな」と苦笑した。しかし、その直後。
「どうして助けた」
 鋭い声が、ラトの横顔に見えない刃を突きつける。
 咄嗟にラトが振り返ると、男は先程の姿勢のまま、いまだベッドに腰掛けていた。しかしその表情に、親しげな笑みは既にない。
「怖い顔をしてくれるなよ。これも何かの縁だ。仲良くやろうぜ」
 いまだに土気色をした男の口元が、わざとらしくつり上がる。だがそれを見ると、ざわついていたラトの心は、逆にいくらか落ち着いた。なにも、自分ばかりが怯える必要はないのだとわかったからだ。
――お前、獣を操れるのか。
 そう問うた時の、この男の青ざめた顔を思い出す。
 ラトが警戒しているのと同じように、恐らくはこの男も、内心空恐ろしい思いをしているのに違いない。考えてみればこの男は、ラトの額も見ているのだ。
 ラトが三つ目の化け物だと、既に十分知っているのだ。
「……。あんたは確か、僕を退治しにきたんだと言ってたね」
 唐突に、ラトの方から声をかけたことに驚いたのだろうか。キリと名乗った男は一瞬きょとんとした顔をして、それから「ああ」と曖昧に頷いた。
「いやぁ、まあ、そうなんだけど。その」
「そして偶然、『野生の』狼に襲われて重傷を負った。あのまま放っておけば、出血多量で死んだかも知れない。――結果的に僕はあんたの手当をしたけど、そのまま捨て置くことも、薬の代わりに毒を塗って、腕を腐らせてやることだってできたんだ。正直なところ、助けてやる義理なんてどこにもなかった。何せ、僕はあんたに『退治』されかかったんだからね」
 低い声で遮るようにそう言うと、キリも渋々言葉を切った。それを見ると、ラトは、今度は唸るようにこう言った。
「だけど、気紛れで助けてやった。これであんたには貸しがある。――質問に答えろ。バーバオの住人から、僕のことをどう聞いた? マカオの大雨があった日から、もう随分経ったはずだ。なのに町の人間は、今でもそう毎日のように、……僕が再び災いをもたらすとでも思って、警戒し続けているの?」
 問いながら、ラトの鼓動は緊張の音に高鳴った。一方でキリは驚いたように瞬きして、しばらく言葉を返さない。しかしそのうち眉をひそめて、長く深い溜息をつく。
「じゃ、それに答えたら、借りは帳消しにしてくれるのか」
「それは、あんたの返答次第だ」
「手厳しいね、……わかりましたよ。『命の恩人』の言うことじゃ、逆らうわけにはいかえねえもんな」
 首をすくめてそう言って、「とは言え俺も、詳しいわけじゃあないんだけどね」と補足する。
 強い風にでも吹かれたのだろうか。締め切った窓が、がたりと小さく音を立てる。ラトは目の前にいるこの旅人の指先が、びくりと音へ反応したのに気づいていた。しかしキリは平静を装って、こんな事を語って聞かせた。
「俺の聞いたところじゃあ、バーバオの町の人間は、少なくともこの夏を迎えるまで、お前の事なんて忘れていたらしい。いや、忘れようとしていたそうだ。だけどこの丘で事件が起きてからは、そういうわけにもいかなくなった」
「……、事件?」
 ラトが興味を示したことに、いささか気をよくしたようだ。キリはにやりと笑って、頷いた。
「そう。一月前にこの丘で、男が一人、死んだのさ」

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