吟詠旅譚

太陽の謡 第二章 // 影、追う『影』

018 : Novus itineris coepi.

 ほんの一瞬、気の逸れた相手の腕を押しのける。しかしそうして肩で息をしながら後ずさり、ラトははっと息をのんだ。
 もう一度、森の方から遠吠えをする獣の声が聞こえてきた。しかしそれが、――先程よりも確実に、近づいているように思われたのだ。
 以前なら、家のあるこちらの丘へまで獣が現れることは滅多になかった。だが町や丘の現状がわからない、今は。
「ちっ。この辺りには、狼まで出やがるのか」
 鋭い刃をラトの方へと向け直し、男が小さく舌打ちする。それを見て、ラトは思わず言葉を呑んだ。そうだ、今は獣のことよりも、この男をなんとかしなくては。
 この旅人風の男が持つ、欠けた月のように反り返った剣の刀身が、闇夜の中にぎらついていた。それが今にも自らの首にかかる姿を想像すれば、体から血の気が引いていく。
 それでもラトは強く拳を握りしめ、男を睨みつけると、言った。
「どうして、……なんのために、僕に刃を向けるんだ」
 よくよく見れば、月明かりの下へ立つ相手の男も、まだ若い。日によく焼け、得物を帯びたその姿にはいくらかの貫禄を感じたが、それでもラトの三つ、四つ上といったところだろう。
 しかし男は慣れた手つきで刃をくるりと回してみせると、それこそまるで獲物を見つけた獣かのように、にやりと不敵な笑みをうかべる。
「なんでかって、そりゃ、路銀稼ぎをするためさ。俺はいわゆる何でも屋ってヤツでね。旅をしながら、頼まれ仕事を請け負ってる。それで今回は、バーバオの町の人間から依頼を受けてきたってわけだ」
 軽い口調で、男が言った。
「依頼? 一体、どんな」
 問いながら、ラトの背筋を冷たいものが通っていく。
 どくん、どくんと、緊張感に胸が鳴る。バーバオと言えばマカオの隣町の名に違いないが、ラトにとっては訪れたこともない見知らぬ町だ。噂に漏れ聞いていた町。ただそれだけの町。だがそんなラトでも、恐らく、そこで暮らす住人のことは、多少なりとも知っている。
――やっぱり地盤が軟化してる。このままこの町にいたんじゃ、いつ、地崩れで町ごと流されるかわからんぞ。
――じゃあ、このマカオの町を捨てろというの?
――諦めろ。ここじゃ、もう作物だって作れやしない。バーバオへいけば、もう少しましな生活ができるはずだ。
(ああ、そうだ)
 今のバーバオはそうだった。マカオの町の人間達が、――ラトに死を望んだ人々が、移り住んだはずの町なのだ。
 目の前に立つこの男が、するりと何かを取り出した。見れば井戸の釣瓶にかけるような、太さのある一条のロープを持っている。彼がそれを何に使うつもりかなど、問いただして確認するまでもない。
――こんな化け物を生かしておいて、一体何になるんだよ!
「俺はただ、こう頼まれたのさ」
――あの化け物のせいで、この町も終わりだ!
「『マカオの丘の化け物を、退治してほしい』ってね」
 想像はついた言葉であったのに、ラトの心がずきりと痛む。しかし男はお構いなしだ。彼はにやりと笑ってみせると、それからこんなことを言う。
「安心しろよ。お前を捕まえて連れ帰れば、俺の仕事はそれで終わりさ。お前がおとなしく捕まってくれさえすれば、それ以上には危害は加えん」
 だがそうして町の人間たちに引き渡された後、一体何をされることか。考えて、ラトは奥歯を噛みしめる。
 旅人風の男がロープを掴み、距離を測るように片目をつむる。さっさと決着をつけてしまおうという魂胆なのだろう。ラトは思わずまた一歩後ずさったが、そのままその場へ立ちつくした。
 逃げるにしろ、戦うにしろ、結果は目に見えている。ならば一体どうすればいい。
(相手は剣を持ってる。距離を詰められたら負けだ。その前に、なんとかしないと)
 ラトの心は冷静だった。こうして刃を突きつけられても、ただ怯える気にはならなかった。
(ハティアの姿が見えないのは、今は逆に好都合だ。……危険な目には、遭わせたくない)
 だがこうしている間にも、どこかで不安な思いをしているかも知れない。それなら早く、探しに行かなくては。……そうだ。探せばきっと、見つかるはずだ。
 迎えに行こう。探しに行こう――この男の事を片付けてから、堂々と。
 気づけば口元が笑んでいた。それが何故かはわからないが、やけに愉快な気分であった。
 ああ、この高揚感には覚えがある。
 月明かりで出来た自らの影を踏むように、ラトは一歩進み出た。そうしてふと、一年前、マカオの人々の手でタネット川へ投げ込まれそうになったときの事を思い出す。あの時も、ラトには誰かに屈する気など少しもなかった。
 男が剣を振りかざす。しかしラトがそれを睨みつけた、その時だ。
 ラトの佇むすぐ脇を、一陣の風がすり抜けた。それは鋭さのある、切りつけるような風であった。しかしその行方を目で追って、ラトは思わず目をみはる。
(違う、風じゃない――! あれは、)
 獣だ。獣が駆け抜けていったのだと、気づくのに時間はかからない。同時にラトの目の前で、その遠吠えが響きわたる。
(……、狼!)
 月明かりの下に浮かび上がったその姿を見て、ラトは思わず息を呑んだ。しかし突然の出来事に顔を青くしたのは、たった今までラトに刃を向けていた男も同じ事だ。それも、その狼は、脇目もふらずその男にのみ襲いかかったのだ。
「っ、なにしやがる!」
 言って、男が剣をなぐ。狼はすんでのところでそれをかわすと、しかし怯えた様子もなく、再度男へ襲いかかった。
 その牙が、男の左腕を切り裂く。
「……ぐっ!」
 声にならない叫びをあげ、男が剣を振りかざす。しかし狼は身軽な動作で刃を避けると、すぐに男から距離をとった。
 続いて再び、軽い足音。複数のそれを耳にして、ラトは、思わず言葉を失った。
 見れば気づかぬうちに、ラトは見知らぬこの男と共に、十数匹の狼に取り囲まれていた。狼達は皆一様に牙を剥き、今にも獲物に飛びかからんと、戦意を露わに唸り声を上げている。
 飢えている。ラトには何故か、それがわかった。すっかり痩せてしまった丘をまたいで、彼らは狩りをしに来たのだ。人の肉を、食みに来たのだ……。だが、それにしては様子がおかしい。
 緊張にすっかり冷え切った、自らの腕を握りしめる。そうしてから、ラトは誰にともなくこう問うた。
(一体、どうなっているんだ)
 そうしてもう一度、周囲を取り囲む狼たちへ視線を配る。狼たちは今もそこに立っていた。――しかし、立っているだけなのだ。真っ先に駆けてきたあの狼以外は距離を狭めようとする様子もなく、ただ唸り声を上げるだけ。その上、おかしなことにどの狼も、じっと旅人の男のみを見据えて逸らさないのだ。ラトに向かって牙剥く者は、一頭たりともいなかった。
 まるで、ラトを守るかのようなのだ。
 腕の痛みと、そして出血の量に耐えかねたのだろう。旅人の男が膝をついた。その腕はいまだ抜き身の刃を握りしめており、彼が戦意を失っていないことは明白だが、額には既に玉のような汗をかいている。顔もすっかり土気色だ。しかし男はじっとラトを睨みつけ、それからこんなことを言った。
「お前、獣を操れるのか」
 どくりと、ラトの鼓動が脈打った。「まさか」と、即座に返したいのに、言葉を形にできなかった。
 それを言うのは、そう言葉にしてこの狼たちと自分を切り離して考えることは、何故だか酷い裏切りのように思えてならなかった。
 ラトのそんな思いをよそに、真っ先にこの場へ駆けつけた一頭の狼が、唸りながら牙を剥く。その目が再び旅人の男を見定めたのを見て、ラトは奥歯を噛みしめた。
 放っておけば今にでも、あの狼が旅人の喉元へ食らいつき、彼にとどめを刺す事だろう。殺すだろう。何の躊躇もなく。手負いの旅人など、狼にとっては獲物以外の何者でもないのだから。
(でも――、駄目だ)
 言い表しようのない落ち着かなさが、不意に脳裏を過ぎっていった。駄目だ。あの男を殺してはいけない。――あの獣に、そんな事をさせてはいけない。そんな思いが心を占めた。
 獣が地を蹴る力強い音。真っ先に駆けつけたあの狼が、狙いを定めて駆けだしたのだ。だがその勇ましくしなやかな姿を見て、ラトは思わず目をみはる。目の前を駆ける狼の瞳に、見覚えのある色を見た。
 静かな怒りを湛えた色。仄かに輝く、月の金色――。ああ、知っている。
 あの色は。
 
「変わった? ――私の瞳の色が?」
「そうだよ。出会ったときは、今みたいな色じゃなかったでしょう」
 偽りの町でハティアと暮らすようになって、幾日か経った頃のことだ。ラトは興味本位で、ハティアに彼女の瞳の色のことを問うた事があった。ハティアの瞳は大抵空のような蒼であったのだが、初めて会った時にはそれが目を疑うほど美しい金色をしていたことを、ラトはずっと不思議に思っていたのだ。
「どうして変わったのかしら。……不思議ね」
 聞いて、ラトは苦笑した。はじめから彼女に答えを期待していたわけではなかったのだが、「そもそも今は何色なのかしら」とでも言いたげに鏡を覗き込む姿を見ると、知らずの内に笑みが漏れた。しかし、その直後、問い返されて言葉に詰まる。
「ラトは、どっちがよかったの?」
 ハティアの言葉は邪気がない。「どちらでも」と辛うじて答えると、今度は、「どうでもいいのね」と不満を言われた。
「違うよ。どっちも似合うよ。……、これでいいの?」
 ラトが渋々そう言うと、ハティアは満足そうに微笑んだ。
 
 金の目をした狼が、旅人の男に向かって勢いをつけ、飛びかかる。男も一度はそれを凌いで見せたが、ひらりと身をかわし、再び牙をむいた獣には追いつけない。
 「駄目だ」とラトは呟いた。そうして一歩進み出る。
 男が息を呑み、恐怖に顔をこわばらせた。狼が再び地を蹴る。それから。
「だ、――駄目だ、やめろ!」
 自分でもそうと気づく前に、大声でラトは叫んでいた。まさかという思いが先に立ったが、それでも叫ばずにはいられなかった。止めずにいることなどできなかった。
 ラトの言葉へ応えるように、狼の耳がぴくりとゆれる。男へ飛びかかった狼は、しかしその牙を使わぬまま、すとんと地面に降り立った。そうしてぬかるみに足を立てて立ち止まると、静かにラトを振り返る。
(まさか、でも)
 ラトの首筋に汗が落ちる。金の目の獣が顔を上げる。
 目があった。すると狼は困り果てた様子で、そっと首を竦めてみせる。それは狼自身にも、これがどういう状況なのか、ちっともわからないのだとでも言いたげな仕草であった。
(まさか)
 すぐには言葉が見つからなかった。それでもラトは戸惑いながら、そっと狼へ手を伸ばす。しかし、その時だ。
 旅人の男がふらりと立ち上がったのを見て、ラトは思わず息を呑んだ。傷を庇いながらではあったが、男が迷わず、狼に向かって刃を振りかざしたからだ。
「――、危ない!」
 狼が即座に振り返り、間一髪で身を翻す。同時にラトは自らが取り落としたカンテラを拾いあげ、男に向かって投げつけた。そうして男に飛びかかると、それを渾身の力で押さえつける。やけに脳裏がぐらついたが、構っている余裕はなかった。
「っ、放せ! みすみす獣の餌になって、たまるか!」
「黙れ、暴れるな! ――いいか、お前達も、今は僕に従うんだ」
 周囲の狼達を威嚇するように睨みつけ、ラトは低い声で叫ぶように言った。いつの間にやら、全身に汗をかいていた。何故だかやけに息苦しい。妙な疲労感に視界が揺れる。ラトは肩で息をしながら、しかし声を荒げて言った。
「今は、森へ帰れ! これ以上ここで、血を流すな!」
 その時ラトには、自らを取り囲む狼たちの、更にその先が見えていた。
 丘の空気が張り詰めていた。精霊達が恐々として、ラトから距離をとっていく。流れ出した血のにおいに、獣たちが目を覚ます。
 近くで行われているのであろう狩りの臭いに、ある者は恐れ逃げ出し、またある者は漁夫の利を得ようと腰を上げる。
 もしもこのまま、血に飢えた他の獣たちまで寄ってくるような事があれば。そう考えるとぞっとした。そうしてラトはもう一度、狼たちを睨みつける。
(そんなことになったら、――もう、僕には抑えきれない)
 しかしそんな事を思ってから、ラトは自らの脳裏を過ぎった考えに首を傾げた。一体何を、抑えるというのだ。誰が、何を、抑えているというのだ。
 ふと見れば、金の目の狼だけが、じっとラトの事を見ていた。
 悲しげに、そして戸惑うように、金色の瞳が揺れている。しかし狼はきびすを返すと、森へ向かって走り去る。
 それが合図のようだった。金の目の狼を筆頭に、周囲の狼たちもまた、その後ろについて駆けていく。――狼たちが、帰って行く。ラトがそう命じた通りに、彼らは真っ直ぐ、森へ向かって駆けていた。
(そうだ。今は、静かに帰れ――)
 心の中で、そう呟く。
 そうして狼たちの姿が見えなくなってから、ラトは旅人の拘束を解き、その場へふらりと立ち上がった。
 なにやら疲れ切っていた。本当は今すぐにでも、その場へ崩れ落ちたい程であった。だがその前に、剣を杖にし、再び立ち上がろうとする男を振り返る。
「やめろ。……僕に、戦うつもりはない」
 男が何か話そうと、口を開いた。だがそれが言葉になる前に、どすりと重い音がする。例の旅人が、意識を失い倒れたのだ。見れば切り裂かれた左腕から、おびただしい量の血が流れ出している。これだけの出血だ。今まで意識を失わずにいただけでも、ある意味感心してしまう。だがこのまま放っておけば、恐らく命に関わるだろう。
(……くそっ)
 旅人のその血の気の引いた顔を見て、ラトは内心悪態をついた。
 空は、白み始めていた。

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