吟詠旅譚

太陽の謡 第一章 // 忘却の風土

017 : Pervesperi

「母さん。――どうか、私を守ってね」
 ラトの朧気な意識の中に、不意に言葉が落ちてきた。ラトが手探りするように身を動かすと、闇の向こうに小さな少女の人影が見える。
 ああ、ニナだとすぐにわかった。あそこにいるのは、震えているのは、もはや唯一のラトの家族だ――。
(ニナ)
 名を呼んだつもりであったのに、言葉が声に、ならなかった。
 見れば少女はすっかり旅支度をし、不安げに目を伏せ立っている。そうして見知らぬ女に声をかけられると、はっとしたように顔を上げ、馬を引く人々の方へと駆けていく。
 その一団は、恐らく砂漠のキャラバンであった。日に焼けて色の落ちた布を身にまとい、連れた馬には様々な荷を積んでいる。ラトがそれを目にするのは初めてのことであったが、しかし話には聞いたことがあった。
 剣を帯びた男たちは、おそらく護衛の人間だ。その中心でひときわ立派な騎獣に乗り、パイプの煙をくゆらせているのは、おおかた隊の長であろう。彼らはああして徒党を組んで、物を売買し、立ち寄った町での依頼を請け負うことで生計を立てるのだと聞いている。
 そんなことを考えながら、ラトはじっと歯がゆい思いをかみ殺していた。そうしてニナが隊商に迎え入れられる間、それを、ただ立ち尽くしたまま見送った。
――ねえ、でもニナは? いったい誰が、あんな子を養うっていうのさ。
――都へやるのがいいんじゃないか? ほら、もう数ヶ月もしたら、都で占い師になるための試験があるだろう。
――体のいい厄介払いだね。
 偽りの町で耳にした会話を思い出し、強く奥歯を噛みしめる。
「都は遠いよ。ちゃんと、故郷の人に別れは告げたのかい」
 隊商の人間に問われても、ニナは俯くばかりで答えない。
 しかしぽつりと、呟いた。
「お兄ちゃん……、きっと私を迎えに来てね」
 
 目を開く。すると暗闇の中に、ぽっかりと白い穴が空いているのを見てとれた。それが夜空に浮かぶ月であるということにラトが気づいたのは、そのすぐ後のことだ。
 ラトの今いるこの場所には、どうやら既に夜の帳がおりている。あっさりと乾燥した、涼やかな風の夏の夜。それが夏だと気づいたのは、耳を澄ませばいくらでも、夏虫達の鳴き声が聞こえていたからだ。
 そんな物音を聞きながら、そういえばあの偽りの町は、いつだって春の訪れを感じ始めた頃のままであったと思い出す。そうだ。あの町はラトが最後に見たマカオから、ちっとも季節が変わらなかった。
 ああ、ここはもう、あの偽りの町とは違う。
 変化のある道。色のある道。ラトの育った、懐かしい世界――。
「ハティア」
 体を起こし、呼びかける。雨でも降っていたのだろうか。ラトの横たわっていた草原も、気づけばいくらか湿っている。
「――、ハティア?」
 返事がないのをいぶかしみ、もう一度声をかけてみる。するとラトのすぐうしろから、「ここにいるわ」と声がした。
 振り返ってみて、驚いた。ラトの背後、声が聞こえたそこにハティアは確かにいたのだが、なにやら様子がおかしいのだ。
 草原にぺたりと座り込んだハティアの体は、うっすら透けて見えていた。
 ハティアを通して、向こう側の景色が見えている。そうして更に奇妙なことに、ハティア自身も夜空の月と同じように、仄かな光りをまとっているのだ。
 慌ててハティアへ手を伸ばす。しかしその手は、無為に彼女をすり抜けた。
「多分これが、精霊の長の言っていた、『この世界での形を失いかけている』っていうことなんだと思う」
「この世界での、形……」
 呟いて、ラトは小さく息をのむ。
 視線をあげるとすぐそこに、『洞』の入り口が見えていた。だがそれも、ラトの記憶にあったものとは随分勝手が違うようだ。入り口を覆い隠すように生えていた木々は腐り落ち、苔むした岩肌がすっかり露わになっている。そうしてその岩達が、鬱蒼と茂っていた樹々に代わって、洞を完全に閉ざしていた。
(長様――)
――もうお行き、ラト。何か知識を求めるのなら、まずは行動しなくてはね。
 精霊の長はそう言った。そうしてラトに、それ以上の問いを認めなかった。
 よく見てみればすぐにでも、洞を塞ぐその地崩れが、最近起こったものではないことが知れた。恐らくは以前のあの雨のせいで大地が崩れ、そのままになってしまったのだろう。いずれにせよ、もうあの棺のある場所へまで戻ることはできないようだ。
 岩と土砂とですっかり埋もれてしまった、かつて道であった場所を目にして、ラトは生唾を飲み込んだ。そうして長を、マカオの占い師の姿をしたあの人のことを思い出す。
――もうお行き、ラト。
「私もまだ、精霊の長に聞きたいことがあったんだけど……」
 遠慮がちにハティアが言う。それから彼女は、優しくラトの手を取った。――否。ふわりと包み込むように、手を取るような仕草をしてみせた。握り返すようにラトもハティアの手を取るが、そこには相手の柔らかみも、体温すらも感じない。
「ハティア、あの、――体は何ともないの? 苦しかったり、辛かったり、しない?」
 彼女の姿を見るにつけ、自分はまた何かとんでもないことをしでかしてしまったのではないかと、臆病心がうずき始める。しかしおずおずと問うたラトとは対照的に、当の本人は楽しげだ。彼女は大袈裟に頷くと、笑顔でこんなことを言う。
「うん、大丈夫よ。むしろ体が軽くって、一度跳ねたらどこまでだって飛んで行けそう」
「でもハティア。君、体が透けて」
「そう、私も驚いたの! 不思議よね。それになんにも触れないの。なんだかやけにふわふわして、まるで綿毛にでもなったみたい。……あっ、でも、心配しないでね。私、ラトを置いて飛んでいったりはしないから」
「……。それは、ありがとう」
 今度の返事には、呆れ混じりの苦笑が浮かんだ。そんなふうに気丈に振る舞うハティアの指先が、小さく震えていることに気づいたからだ。
 彼女もきっと、本当は不安で仕方がないのだ。だがそれが不安であることに気づくまいとしているかのように、彼女はにこにこと微笑んだ。
 そばを流れるタネット川の支流ばかりがいやに濁った水嵩を増し、岩を打ち、音を立てて流れていく。
「ねえ、ラト。こんな体になったからなのか、それともあなたのおかげなのか、今は私にも、『精霊』の囁く声が聞こえる気がするの」
 ハティアがそう言い、ラトの顔を覗き込む。それから、「私たち、ラトが元いた世界へ着いたのね」と続けてみせた。
「なぜわかったの?」
「だって精霊達が、あなたを『おかえり』って歓迎しているもの」
 月のような仄かな明かりに、彼女の瞳が輝いた。
 それを見て、ラトはふと、こんな事を考える。
 もしラトに、精霊達の姿そのものが見えたなら。彼らはきっと、今のハティアのような姿をしているのではあるまいか。
 人間達とは一線を画した姿で、大地を潤わせ、熱と風と命を運び、こんなふうにラトのことを見守っているのではないだろうか、と、そんなことを思ったのだ。
――お前は随分長くこの世界に留まっていたせいで、あちらの世界での形を失いかけているわ。おまえがラトと共に行くのなら、当分の間、その事で苦労をするでしょう。
「……、君が自分のことを忘れてしまったのと同じように、この世界での姿を忘れてしまっているのなら」
 ラトが言うと、ハティアはきょとんとした顔で、まずは首を傾げてみせた。それを見て、思わずラトもにこりと笑う。
「行こう。君が忘れてしまった色々なことを、僕たち二人で探しに行こう」
 ハティアもふわりと、頷いた。
 そうして二人は、夜道を川に沿って下ることにした。真っ直ぐに下ればマカオの町外れへもたどり着くが、その手前で丘の方へと足を向ければ、ラトの育った丘の家へとたどり着く。ラトはまず、そこへ向かうべきだろうと考えていた。足元を見てみれば、野生の獣の足跡もある。この丘の辺りには、昔からたまに狼が出るのだ。月明かりより他に頼るもののないこの夜更けに、いつまでも出歩いていては危険だろう。
「ねえ、ラト。……私たち、これからどうしよう?」
 軽いステップでラトの後に続きながら、ハティアがそんなことを問う。ラトはしばし逡巡した後、「実はまだ、あんまり考えていないんだ」と素直に言った。
「まずは現状を把握しなくちゃいけない。マカオの町がどうなったのか。それに今が、一体いつなのか、とかね。僕があの世界にいたのは大体一年くらいの間だったと思うんだけど、あの夏虫の鳴き声を聞くに、季節が少しずれているみたいだし……。だけどその辺りのことが一通りわかったら、『暁の都』へ向かいたいと思ってる」
「アカツキノミヤコ?」
 ハティアが問い返したのを聞いて、ラトは小さく頷いた。
「そう。この国、レシスタルビアの王都のことだよ。僕は行ったことがないけど、国中の物と知識が集まる場所なんだって聞いたことがある。それなら君のことも何かわかるかもしれないし、……あの偽りの町で聞いた話が本当なら、僕の妹が、そこへ向かった可能性が高いんだ」
 いずれにせよ、もうマカオにはいられない。町の住人に見つかる前に、一刻も早く旅立たなくては――。
 そうしてその内、二人は月明かりの下にぽつりと建つ、丘の家まで辿り着いた。ラトが町へと思いを馳せながら、長く暮らした占い師の家だ。その家の柵に既に羊たちの姿はなく、無人になって幾ばくかの月日を経た家屋は随分古びて見えている。それでもラトは、その家の扉に手をかけたとき、「ただいま」と誰に言うでもなく呟いた。
 扉を開ければすぐにでも、床につもった綿埃が目についた。近くにあったカンテラを軽く手で払い、灯を点ければ、やはり埃の焼ける焦げ臭いにおいが充満する。
(ニナが都へ向かってから、一体どれだけ経ったんだろう)
 しかしそうして窓の外へと目をやって、ラトは思わず瞬きした。ほんの一瞬の事だったが、何かが、窓の外を通り過ぎた気がしたのだ。
(外に、何かいるのか……?)
 慌てて窓へ駆け寄って、その周囲へと目を配る。そうしてラトは、息を呑んだ。そこに人影はなかったが、しかしぬかるんだ地面には、まだ新しい靴の跡が残っていたのだ。
 人間だ。誰かが今、ここにいた。
「ハティア。僕が様子を見てくるから、君は家の中にいて」
 そう声をかけて振り返り、ラトは再び息を呑む。つい先ほどまでそこにいたはずのハティアの姿が、すっかり消えてなくなっていたのだ。
「……、ハティア?」
 慌ててカンテラを手にとって、それから再び外へ出る。しかしいくらあたりを見回しても、彼女の姿はどこにもない。
(急に、どうして、――)
 しかしそう問う一方で、まるで朧気な月明かりのように、淡くそこにいた彼女のことを思い出す。すると一気に不安がふくらんで、ラトの心を締め付けた。
(ほんの一瞬、目を離しただけなのに――、でも)
 息が詰まって、冷や汗をかく。しかしそうしてハティアへ呼びかけようとした、その時だ。
「『丘の化け物』ってのは、あんたのことかい?」
 見知らぬ男の声と共に、唐突に腕を捕まれた。ラトが咄嗟にそれを振り払うと、同時に足払いをかけられる。
「っ……!」
 ガチャリとカンテラの落ちる音。したたかに腰を打ち付けて、小さな呻き声を漏らす。次の瞬間。
 間髪入れずに強い力で押しつけられて、ラトは身動きがとれぬまま、あっという間にねじ伏せられた。それでもなんとか拘束から逃れようと身をよじれば、ぎらりと光る何かが、視界の内を過ぎっていく。
 ぞくりと一気に鳥肌が立った。あれは、――刃物のきらめきだ。
「おっと、無駄な抵抗はやめときな。俺もできる限り、手荒なことはしたくないんでね」
 ラトに覆い被さるその男が、笑みをたたえてそう言った。しかし男は何の躊躇いもなくラトの額へ手をやって、ぎくりと肩を震わせる。
 男の腕は迷いなく、ラトの前髪をかき分けていた。そうしてそこから覗く額の目を見て、思わず言葉を詰まらせたのだ。
 ラトの額の瞳は今、この得体の知れない男のことを、しっかと睨み、捉えていた。
「三つ目の化け物だってのは、町の奴らの出任せじゃあなかったわけか」
 男の笑みが、畏れを帯びた苦笑に変わる。その表情に一瞬戸惑いが走ったのを、ラトは見逃さなかった。
「っ……、放せ!」
 叫ぶ。同時に、
 マカオの丘に、獣の遠吠えが響き渡った。
-- 第二章「影、追う『影』」へ続く --
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