吟詠旅譚

太陽の謡 第一章 // 忘却の風土

016 : Plaudite! Acta est fabula. -2-

「あの、私……私は」
 俯き、ハティアが口ごもる。ラトはそれを見ると小さく苦笑して、それから彼女へ背を向けた。ここでじっと見ていたら、彼女が本当に言いたいことを言い出せずに終わってしまうかもしれない。恩人を、ハティアを困惑させるようなことは、できうる限りしたくない。ラトの中の、冷静な部分がそう告げる。
 偽りの町で元の世界のことを話したとき、ラトはハティアに、「一緒に行こう」とそう言った。その言葉に迷いはなかった。あの時は何の根拠もなく、元の世界へ帰れば何もかもがうまくいくような、そんな勝手な思いこみをしていたのだ。
 だが、今はもう違う。
――マカオの町の占い師は、お前の行いの責任をとるために、自ら黄泉路の旅を選んだ。
――罪は、そこで償えと?
 元の世界へ戻ったところで、ラトが人々にとって三つ目の『化け物』であることに変わりはない。丘には既に、心許せる家族もいない。棺の先は茨の道だ。独りで行くのがいいはずだ。これ以上、彼女を巻き込むべきではないのだ。
 そうだ。そのはずだ。――それなのに。
 どくん、と、低い鼓動の音が聞こえてくる。ああ、あの棺が呼んでいるのだと、ラトには何故だかすぐにわかった。行かなくては。どうやら、時が迫っている――。しかしそう感じたのとほぼ同時に、また低い鼓動の音が聞こえてきた。だが今度のこの音は、棺からしたものではない。
 どくん、どくんと、昏い想いに胸が焦れる。ああ、これは、この音は、臆病者の胸の音だ。口では平静を装いながら、独りで歩く未来を恐れる、小心者の胸の音。ラトはその想いを隠すように、自らの胸元を強く握りしめた。しかし、その時だ。
「ラト。……もう前みたいに、『一緒に行こう』とは言ってくれないの?」
 ぽつりと、心細げにハティアが言った。ラトがはっと振り返ると、そこには困惑した様子で、自らの手を手で包むハティアがいる。
「私、あのね、この前はちゃんと答えられなかったけど……。ラトが一緒に行こうと言ってくれた時から、ずっと考えてはいたの。自分が一体どうしたいのか、これからどうしていくべきなのか、って。そんなふうに考えたのは初めてだったから、凄く難しかった。だって私、今までは、この世界をただただ独りで旅することが当たり前だと思っていたから。それが全てで、他になんにも考える必要がなかったから。だけど」
 ハティアの声が、徐々に小さくなっていく。自信なさげに目を伏せて、また少しずつ俯いていく。
「だけどラトは、全ての物事には理由があるんだって教えてくれたでしょう。だから私、私の旅にも……、何か理由があったのなら、それを知りたいって思ったの。忘れてしまった昔のことを、思い出したいって思ったの。でも、」
 ぴしゃりと涼やかな音がした。洞のどこかをつたっていた水滴が、どうやら大地へ墜ちたらしい。しかしそれと気づく頃には、ラトの足は自然と、ハティアの方を向いていた。
 大股に歩み寄り、強く彼女の手を掴む。
 顔を上げたハティアの瞳が、ラトの三つ目を覗きこんだ。
 緊張に脈打つ鼓動の音が、耳の内に響いている。心が火照ってゆくのを感じる。
 ラトは一息に、ハティアに向かってこう問うた。
「でも、『独りで向き合うのは怖い』――?」
 ラトの手は、いささか熱を帯びていた。
 そうしてその熱に答えるかのように、――ハティアもそっと、頷いてみせる。
――私を置いていかないで。
 花園で見たハティアの幻は、そんなことを言っていた。高貴なドレスを身にまとって、澄んだ歌声を響かせて、……そうして酷く悲しげな顔をして、そんなことを呟いた。
――私を置いていかないで、――サニマ。
「一緒に行こう、ハティア」
 ハティアははじめ、驚いたように目を瞬かせて、じっとラトのことを見ていた。それから恐る恐る、「いいの?」と小さく問い返す。ラトは申し訳ないような思いに苦笑して、しかし、強く頷いた。ハティアが口にした問いは、正直なところ、ラト自身がハティアに問いたいことでもあった。
「君が一緒にいてくれるなら、僕もずっと心強いんだ」
 ハティアはそんなラトに微笑んで、それから伺いをたてるように、そっと精霊の長へ視線を移した。ラトもそれを追うように『長』の方を向くと、ハティアの手をまた握り直す。
 『長』はうっすら笑いかけ、こんなことを彼らに言った。
「二人でお行き。お前達の行く道は、独りで行くには難儀な道だろうからね……。けれど、ハティア。お前は随分長くこの世界に留まっていたせいで、あちらの世界での形を失いかけているわ。おまえがラトと共に行くのなら、当分の間、その事で苦労をするでしょう。それでも、構わないね?」
 聞いてハティアは、思わず、といった様子でびくりと肩を震わせる。どうやらこの『長』の事は、今でもいささか苦手なようだ。しかし彼女は精一杯に胸を張って、「大丈夫です」とそう言った。
 ラトもそれにかぶせるように、「その時は僕が支えます」と『長』に告げる。
「僕も力を全て取り戻したわけではないそうだし、マカオより先のことは何も知らない世間知らずだけど……。だけど今までハティアに助けられていた分、僕も何かを返したいから」
 そうしてじっと『長』を見て、ラトは思わず、息を呑んだ。
 精霊の長が満足そうに、ふわりと二人に笑ってみせる。その占い師然とした深い笑みに、ラトには確かに、覚えがあった。
「――母さん?」
 呟いた。しかし呼ばれたこの占い師は、答えずラトに背を向ける。そうして何気ない仕草で再び棺を叩くと、元通りに、精霊の長としての顔で振り返った。
「ハティア。お前の言った通りかもしれないね」
 見れば石棺の表面が、また一段と大きく波打っている。同時に聞こえる鼓動の音も、更に音量を上げていた。
「この『器』はきっとまだ、昔のことを覚えているのだわ。……そうでなければ、この私が、こんなふうに人の子を愛しく思うはずはないもの」
 精霊の長がそう言った。そうして、次の瞬間。
 石棺の表面に立つ波が、不意に頭をもたげてみせた。
 そう、『頭をもたげてみせた』のだ。たった今まで四角い石棺であったそれは、今まさにラトの目の前で、その姿を巨大な獣に変えていた。新しく命を得たそれは、まるで産声でも上げるかのように洞いっぱいに体をうねらせ、そして――。
 ラトの姿を目にするや否や、彼をめがけて大口を開く。
(……、呑まれる!)
 叫びはしなかった。その光の波の前に、即座に声は出なかった。けれど咄嗟に片方の手で、ハティアの腕を掴み直す。
「ら、ラト?」
「ハティア、放さないで!」
 「さあ、お行き。二人とも」悠長な声を耳に聞き、『長』の側へと視線を戻す。波の向こうに見える彼女は、今も静かに笑っていた。
「ラト、覚えておいで。何事も等しく、事の善し悪しなどわからないもの。あの占い師が死んだのも、ただ、彼女にとってのその時がきただけの事とも言える。お前がその娘と共に行こうと選んだ道も、正解ではなく間違いでもない」
「長様、……!」
 もう一方の手を、ラトは無意識に、精霊の長へと差し出した。しかし波のうねりに阻まれて、精一杯に腕をのばしても、『長』へは遠く、届かない。
「――それにおまえがあの占い師の命を奪ったのと同じに、あの占い師も私から、『城』へ向かう折角の機会を奪ってしまった。お前の禍人と対峙した時、今度こそ、私も『長』の使命を果たしたのだと思ったのに」
 聞いて、ラトの鼓動がどくりと鳴った。
 『城』。
 何故か唐突に、まるで矢にでも射抜かれたかのように、急に心がざわついた。
「おや。お前、『天空の城』のことを覚えていたの?」
 精霊の長が楽しそうに、小さく笑ってラトに問う。
 『城』。――『天空の城』。
 
――ラト、君の夢は? まさか一生羊飼いを続けるつもりなの?
 朧気だった一年前の記憶が、幻のような世界で出会った友人との会話が、不意に脳裏へ蘇る。
――……、夢ならあるよ。僕は、冒険者になりたいんだ。
 
「待って下さい」
 迫り来る波を前に、懇願する。
「長様……、待って下さい! まだ、聞きたいことが」
 精霊の長は答えなかった。そうして静かにかぶりをふった。
「もうお行き、ラト。何か知識を求めるのなら、まずは行動しなくてはね」
 波に呑まれる。取り込まれてゆく。
 視界の内に、――光が散った。
 
「冒険者になりたいんだ」
「冒険者?」
 ラトがそう話すと、数少ないラトの友人は、――ツキは、頓狂な声で聞き返した。一年前、マカオの町である晩見た、夢の中での事である。ラトはあの晩、しつこく質問を浴びせかけるツキに観念して、生まれて初めて人に対して、自らのあこがれを語って聞かせた。
「それで?」
「それで、って?」
「笑われると思うのには、もっと他の理由があるんだろう?」
 ツキの言葉は的確だった。だからラトは逡巡した後、呟くようにポツリと言った。
「――僕は、天空の城へ行きたいんだ」

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