吟詠旅譚

太陽の謡 第一章 // 忘却の風土

015 : Plaudite! Acta est fabula. -1-

 「ついてらっしゃい」とまず言われ、ラトはタシャの姿をした、その女性の後を追うことにした。ついてこいと言っておきながら、彼女は歩き始めたきり、一度もラトを振り返らない。そんな様子を眺めながら、ラトは、自分を育てた占い師も、せっかちな歩き方をする人だったと思い出す。
 ハティアはいつしか町でタシャと顔を合わせたときと同じく、明らかに身構えている様子ではあったが、それでもラトについてきた。だがどこか怯えた顔をして、必死にこの占い師から距離をとって歩いている。
(長の気迫に、気圧されているんだろうか)
 しかしそう考えて、ラトはそっと視線を落とした。
 目の前を歩くこの占い師のことを、ラトは確かに『長』と呼んだ。彼女をそう呼ぶことに確信があった。けれどその確信が、――ラトの心を、後悔とも罪悪感ともつかぬ感情で満たしてゆく。
「さあ、お入り」
 気づけば三人は川沿いをずっと登って、ラトにとっては見覚えのある、深い渓谷を訪れていた。
 この一帯の、地脈の中心。精霊の長の住まうところ。そうしてそこを歩いていると、一年前、タシャに手を引かれてやってきた時のことが脳裏に浮かぶ。白い霧と暗闇の世界。あの頃のラトには、それは死者の国の入り口のように思われた。
(あながち、間違いではなかったかもしれない)
 氷の張った壁をつたって歩いていけば、例の石棺のある水晶の洞へ辿り着いた。そこへ来て、ようやくタシャの姿をしたそれが、足を止めて振り返る。
「急かしてごめんなさいね。まだあまり長く、ここを離れられないものだから」
 言って彼女は小さなため息をつき、ちらりとハティアを一瞥する。そして、「怖がらなくていいのよ」と何の愛想もなく言った。
「ここはまだ、ラトの望みを映す世界。ラトがそれを望まない限り、私もおまえに危害は加えない。おまえが私を怖がる理由も、わかるような気はするけれど」
 それでもハティアは答えぬまま、ラトの背後から離れない。ラトは彼女を庇うようにそっと前へ出ると、目の前に立つこの占い師をじっと見据え、こんなことをまず問うた。
「どうか、質問にお答えください。母さん……マカオの占い師の姿をしたあなたは、精霊の長様、なのですか」
 問えばその瞬間だけ、占い師の女はうっすらと微笑んでみせた。それからすとんと石棺に腰掛けると、「ええ」と静かな口調でラトに答える。
「そうよ。つい先刻、おまえが呼んだとおりにね。けれど、なぜ一目でわかったの」
 『長』の言葉はそう問いながら、実のところ、既に答えを得ている様子であった。だからこそラトもそれに逆らうことはせず、望まれているのだろう答えを、ただその通りに返す。
「ご存じでしょう。僕は、精霊を感じることができますから」
「名を取り戻すことで、『力』の片鱗が戻ったの」
「……おそらく、そういうことなのだと思います」
 言ってラトは目を伏せた。そうしてそれから、自らが長と呼んだその人の言葉を待たずに、ただ訥々と話し出す。目の前に立つこの人に、聞きたいことがいくらもあった。それを知らぬままでいたら、きっとここから抜け出せない。その確信がラトにはあった。
「長様、……あなたがその姿をしているのは、もしや禍人が、僕の力が、一年前、あなたに危害を加えたせいですか。あの時瀕死の長様と、母さんを洞に残したまま、僕は棺に捕らわれました。その後、洞で何かがあったのですか」
 精霊の長は感情を感じさせない表情で、じっとラトを見つめていた。ラトに言葉を続けるようにと、促しているようでもあった。
「ハティアの歌で現実のマカオを垣間見たとき、僕は、母さんが死んだことを知りました。ニナを遺して、たった一人で死んだのだと、そう聞きました。……それは真実なのですか。そうだとしたら、あなたが母さんの姿をしていることも、それに関係しているのですか」
 『長』はそれに答えなかった。しかしラトの言葉の一つひとつを拾い上げ、受け入れるように、穏やかな様子でこう告げた。
「それで?」
 忘れもしない占い師の声が、澄んだ声でラトに問う。そうして瞳がこう語った。「問いたいことは、もっと他にあるのでしょう?」と。
 ラトは少しの間、じっと占い師の眼を見ていた。睨みつけていたと言った方が、あるいは正しいかもしれない。しかしそうして『長』と、その瞳の向こう側に立つ自分自身とをじっと見据えて、ラトはぽつりと呟いた。
「僕が、……僕のこの忌まわしい力が、母さんを死に追いやったのですか」
 背後で、はっとハティアが顔をあげたのがわかった。しかしラトは振り返らない。そうしてたたみかけるかのように、今度はこんなことを言った。
「あの時瀕死の重傷を負っていたはずのあなたがこうして生きていて、代わりにマカオの占い師が死んだ! 想像はつきます、教えてください……。精霊の長が死ねばマカオの町は滅びるのだと、母さんはそう言いました。精霊の加護がなければ、大地は育たないのだと。まさか母さんはあなたを活かすために、僕が滅ぼしたマカオのために、まさか、まさか」
 膝が笑い出すのではと思うほど、体が怯えて震えていた。火照った心は今にも燃え尽きそうなのに、何故こんなにも震えが止まらないのだろう。
 『長』が答えるまでのこの時間が、まるで永遠に続くような、そんな奇妙な思いがした。苦しくて、悲しくて、罪悪感ばかりが胸を締め付けて、立っているのが精一杯だ。
 今にもこぼれ落ちそうな、立場違いの嗚咽を堪える。しかしそうして、ラトが次の言葉を見つけだす前に――、『長』の言葉が、脳裏に響く。
「マカオの町の占い師は、お前の力に斃れた私を生き存えさせるため、私に自ら精神の器を差し出した」
 『長』が目を細め、すらりとその場に立ち上がる。そうしてラトに視線を据えると、続けてこんな事を言った。
「その器は生きとし生けるものにとって、魂とも命そのものとも同等のものだからね。それを私に譲った以上、長くないとは思っていた。事実あの占い師は、娘に別れを告げると言って町へ向かったまま、二度とここへは戻らなかったわ。そのまま、自ら愛した地へと還った――。そうね、ラト。マカオの町の占い師は、お前の行いの責任をとるために、自ら黄泉路の旅を選んだ」
 まるで、頬を、力強く殴られたかのようであった。
 覚悟はしていた言葉であった。川岸でこの『長』の姿を見たその時から、あらかたの予想はついていた。だがしかし、それなのに、素っ気ない『長』のその言葉に、胸をえぐられるような思いがする。
――母さん、なぜ死んだの……
 妹の、その悲しげな言葉を思い出す。
――あんなふうに血を吐いて、きっと苦しかったでしょう。少し、泣いていたもんね……
「人間の器を得たところで、私にはしばらく、以前のように力を扱うことなどできやしない。いずれにせよマカオの町は手遅れだと言ったのに、あの占い師は聞かなかった」
 『長』の語るその言葉を、耳にとどめるだけでも精一杯であった。茫然自失として今にも自棄に陥りそうなのを、ラトは必死に耐えていた。
「そしてあの占い師は、自分の命を差し出す代わりだと言って、私と二つ取引をした。一つはお前がある程度の力を取り戻すまで、私の石棺の中でお前を保護すること。禍人に力を明け渡してしまったお前も、ある意味精神の器を失ったも同然の状態だったからね。あのまま丘にいたとしたら、おそらく今頃、命はなかった」
 石棺で、保護をする――。そうだったのかという思いと、そんな可能性は微塵も疑っていなかった、これまでの己を呵むその声とが、交互に脳裏へこだまする。そうだ。忘れもしない一年前、ラトはタシャの優しい言葉に導かれて、あの棺へ向かったのだ。タシャはどこか不安げに、しかしラトを励ますように、「しっかりやるのよ」と繰り返した。
「……もう一つは?」
 かすれた声でそう問うと、『長』は微笑み、目を伏せる。
 そうして謳うような静かな声で、野を照らし出す茜日のような母の声で、暖かく、ただ、こう言った。
「何十年、何百年先になったとしても、私が長としての真の力を取り戻したあかつきには、マカオの丘に再び緑の生い茂る、美しい景色を取り戻してほしいと言っていた。……あの占い師は本当にお前のことを、そしてお前達兄妹と暮らしたあの丘のことを、愛していたのね」
 思わず言葉が、胸に詰まった。
 視界ににじんだ涙を、服の袖で乱暴にぬぐう。いつの間にやら欠けていたボタンの角が、ラトの頬に傷を作る。
 傷口に血がにじんでいた。それが、やけに火照っていた。けれど庇おうとは思わない。痛みがむしろ心地よいのだ。
 痛みがあってしかるべきだ。罰があって当然なのだ。
 心の中に渦を巻く、その存在がなんなのか、ラトにはしばらくわからなかった。
「なんで、僕は、……僕なんか」
 呟く。
 ああ、この感情は、――『悔しい』だ。
「僕は、……僕は町の厄介者で、本当の親にさえ捨てられた、ただの貰われ子で……。違う。長様、違います。死ぬべきだったのは母さんじゃありません。罰を受けるべきだったのは、元々、あの丘にいるべきじゃなかったのは、僕なんです! 死ぬべきだったのは母さんじゃなく、本当は僕が、僕こそが、……!」
 命を失うべきだったのに。
 しかしラトには、その言葉を最後まで言い切ることができなかった。臆病風に吹かれたわけではなかったのだが、ただラトの言葉を遮るように、叫ぶような声がしたのだ。
「――ラト!」
 その声が、今にも罰へと駆け寄るはずであった、ラトの心に鉤をかける。
 はっとなったラトが振り返るのと、ハティアの細い指がラトの腕を掴んだのとは、ほぼ同時のことだった。
「駄目よ! そんなことを口にしたら駄目。私は詳しいこと、何も知らないけど、……でもこれだけはわかる。駄目よ。命をかけてあなたを守ってくれた人の前で、そんなことを言ったらいけない」
 絞り出すような切実な声であった。頬は緊張感に強ばって、しかしいくらか紅潮している。不意を突かれたラトは思わず押し黙ったが、しかし一方で精霊の長が静かに笑いだしたのを聞き、びくりと肩を震わせる。
「私は既に、ラトを助けた『タシャ』ではないけれど」
 『長』が言った。しかしハティアの言葉は淀まない。
「だけどあなたのその『器』は、元々その人のものなのでしょう? そこに宿る魂は違っても、器はきっと、その時の心を覚えてる」
「記憶を持たないはずのお前が、記憶について語るというの?」
 言われてハティアははっとしたように息を呑むと、まるで自分自身、自らが口にした言葉に驚いたかのように胸に手をやり、俯いた。そうして躊躇いがちに、しかしじっとラトを見て、こんな事を語りかける。
「私はただ、……ラトに、そんな悲しいことを言ってほしくなかったから」
 その瞳は真摯であった。つい先ほどまで、『長』に怯えて身を縮こまらせていた少女の姿は既になかった。――そうだ。禍人を追うと決めたときにも、ラトは、この瞳に後押しされて歩き出したのだ。その立ち姿は凛として、一切の迷いを感じさせない。
――私を置いていかないで。
 ふと、花園で見たハティアにそっくりな少女の言葉を思い出す。
――あなたはそうやって、わかったようなことばかり言う。でもね、私は、人がそんなふうに悲しいばかりだなんて思わないわ、……
 あの少女は寂しげに、しかし一歩も退かない真っ直ぐな視線で、もう一人の男にそう言った。ああ、そうだ。あの時に見たのと同じ眼だ。
 やはりそうだ。確信があった。――あの花畑にいたのは、あの少女は、ハティアだ。
「いずれにせよ」
 溜息にのせて、精霊の長がそう言った。それから続けて、心を感じさせない抑揚のない声で、こんな事を口にする。
「お前がどんなに悔やもうが、既に事は起きてしまった。マカオの町のことにしろ、占い師のことにしろ、お前が今更何を訴えたところで、現状は何も変わりはしない。――それよりもラト、そろそろ私に役目を果たさせておくれ。お前をここで守ってやるのも、お前が最低限の力を取り戻すまでという約束だった。お前はもう、ここを立ち去らなくてはならないの。力を完全に取り戻したわけではないから、しばらく苦労はするだろうけれど、あとはお前自身が解決しなくてはいけないことだからね」
 言って、『長』が優しく棺をたたく。すると棺は波打つように青く淡い光を発して、まるで『長』に答えるように揺らめいてみせた。
「さあ、これで出口も整った」
 ラトはすぐには答えなかった。そうしてじっと、淡い光を放つその棺を眺めていた。
「この棺を通して、元の世界へ戻れるのですか」
「ええ。お前が望もうが、望むまいがね」
「……、罪は、そこで償えと?」
「それはお前次第でしょう。私が強いることではないわ」
 マカオの占い師の姿をした、精霊の長がそう言った。その言葉はラトを突き放すようでもあり、また、我が子の旅立ちを憂う母の声のようでもある。
 まるで誰かの涙を受けたかのように、棺の表面に、小さな波紋が広がっていく。ラトはまず、ふらりと、彷徨うような足取りで棺に歩み寄った。意識をしないうちに、足が自然と動いていた。そんなような足取りであった。
 抗えない何かがそこにはあった。そうだ、行かなくては。そのためだけに、これまでの日があったのだから。
 行かなくては。帰らなくては。しかし心の片隅に、それを引き留める何かがある。
 導かれるようなその歩みを、しかしラトは、ふと止めた。そうして静かに振り返る。その視線の先には、たった今もラトを救ったその少女が、所在なげに立っていた。
「君はどうする、――ハティア」

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