吟詠旅譚

太陽の謡 第一章 // 忘却の風土

014 : Post nubila Phoebus.

 雷光が丘に走る度、ラトを見上げるその人の顔に影が落ちた。だがそれはその存在が闇だからこそ落ちる影なのではなく、ただ単に、隣に佇むラト自身が雷の光を遮っているために落ちる影なのだと、今のラトは知っている。
 雷がまた、低く鳴る。
 ラトのことを仰ぎ見る、その人の顔が怯えていた。眉根を寄せて青ざめている姿は、一年前の憎々しい態度とは正反対だ。
――君があまりに容赦なく、この世界に現実を引き入れるから。
 そうだ。禍人は確かにそう言った。それを考えれば、この世界で再会した禍人はおそらく、まるで全てが自分の仕業かのように立ち回っていただけで、既にどれほどの力も持ってはいなかったのだろうと想像がつく。
 現実の世界をラトに見せたのは、畢竟、禍人ではなくハティアの歌であった。
 今の禍人は虎の威を借る狐も同じ。だからこんなにも、ラトに怯えているのだろう。この樹の下は、奇しくも、一年前にラトが禍人の震えに気づいたのと同じ場所でもあった。
「もう一度聞く。……答えろ、禍人。それがお前の『願い』なのか」
 低い声音で、そう強く問う。禍人はそれでも答えない。
 ふと大粒の雨に視界を遮られ、ラトが思わず顔をしかめた。その時だ。まるでそれを待っていたかのように禍人が突然立ち上がり、ラトに向かってこう問い返す。その表情はいかにも切羽詰まっていたが、それでも声は挑発的だ。
「そんな事を聞いて、何になる」
 禍人が、ラトの事を睨みつける。そうして憎々しげに、こんなことを捲し立てた。
「そうだとしたら、それが私の願いだとしたら、それが一体何だと言うんだ。それが罪だと責めるのか? あいつらの不幸を望むことが、許され得ないことだとでも? 違う。悪いのは私じゃない。私にそう思わせた、マカオの人間達が悪いんだ。――それにお前も! お前も悪いんだ、ラト! お前が現実の世界なんて望まなければ、あの女が、現実の世界なんか見せなければ」
 禍人の声が震えている。怒りに震えている。悲しみに震えている。強く握りしめていたラトの拳に爪が食い込んで、ひっかき傷をつくっていく。
「そうしたら、こんな醜い思いも……、忘れたままでいられたのに!」
 叫ぶような声だけ残して、禍人がその場を走り去る。何度逃げたら気が済むのだ。しかしそうは問えぬまま、ラトはぽつりと呟いた。
「ざまあみろ」
 眼下に広がるマカオの町に、強い雨が吹き付ける。どこかで鈍い音がした。大地が崩れた音だろう。
「ざまあみろ。消えてしまえ。……滅んでしまえ」
 呪詛のような恨みの言葉。しかしそれは、けっして禍人に向けてのものではなかった。
 この言葉には、覚えがある。ハティアを、そしてマカオの人間達を追いかけながら走ったあの時、ラトは雨にすっかり濡れそぼり、瓦解してゆく町を見ながら、同じように呟いた。
「ざまあみろ」
 応えるように、また大地の崩れる音。聞いて、ラトは昏く笑った。
 差別され、丘に追いやられる度、胸が軋んで仕方なかった。ラトのせいでばあさまやタシャ、ニナのことまで悪く言われるのを漏れ聞く度、途方もない悔しさに身悶えさえした。
(ああ、そうか。僕は、……)
――そうしたら、こんな醜い思いも……、忘れたままでいられたのに!
(僕も心の奥底で、ずっと、ずっと、――マカオの町を、憎んでいたのか)
 雷の光が、視界に走る。
――願え、ラト。
――お前は思いこんでいただけさ。その額の目さえなければ、おまえは町の子供達と何も変わらない。言っただろう。私は良い方法を知っているよ。町の人間からはその目が見えないようにする、秘密のおまじないだ。
 そうだ。それも確かにラトの願いの一つであった。そうして同時に一年前、ラトの力を得るが早いが、精霊の長を滅ぼしにかかった禍人のことも思い出す。
――願え、ラト。
――馬鹿だな、何故抗うの。この世界にいれば、いくらだって思う通りになるのに。こんなに都合の良い場所なんて、他のどこにもありはしないのに。
 何もかも、思うとおりになる世界。丘から町を見下ろすばかりであったラトが、『そうであったらいいのに』と、思い描いたとおりの世界。
――おまえは現実なんか、ちっとも望んでいないじゃないか。
「違う」
 ラトはぽつりと呟いた。噛みしめた歯が頭に響き、鈍い頭痛に変わっていく。
「違う。いや、そうだ。でも、……それが全てじゃ、ないだろう……」
 誰に向けての言葉だろう。だが、言葉にせずにはいられない。
 振り返れば、ハティアの歌が静かに止んだ。しかし依然として、色のない世界に雨は降り続けている。
 「ハティア」と呼べば、彼女はただ微笑んで、ラトの言葉を促した。まるで続く言葉を察したかのようなその笑みが、ラトの心を後押しする。
「君のこと、巻き込んでごめん」
「どうしたの、今更よ」
「謝らなくちゃと思ってた」
「そんなの要らないわ。私は私自身の意志で、ここに立っているんだもの」
 「そう」と言ってラトも笑った。それからそっと、彼女に向けて手を延べる。
「君のことを巻き込んで、危険な目にも遭わせたりした。僕は君に助けられてばかりなのに、僕には返せるものがない。……だけどもう少しだけ、あと少しでいいから、僕につきあってくれないか。僕が逃げ出さずにいられるように、これ以上自分を見失わずにいられるように、……君に、いてほしいんだ」
――気味悪いなんて思わないわ。その目があってもなくても、私にとってラトはラトだもの。
――そのくせこうして、……まぶしすぎる、希望を見せる。
 この手を取ってほしかった。ハティアがそうしてくれさえすれば、ラトはこれから、どんなことにも立ち向かえるような気さえした。しかしその一方で、現実の世界へ一緒に行こうと誘いかけ、戸惑われた事を思い出す。
(君は僕に、僕が一番望んでいた言葉をくれた。……それ以上を望むのは欲張りかもしれない。けど)
 ラトの心が、情けない不安を訴える。だが同時に、否、それよりも早く、ハティアの細いその指が、そっとラトの手に触れる。
 ハティアの瞳は真摯であった。そうして、まるで彼女こそなにがしかの決意を固めたかのように、「行きましょう」とそう告げた。
 
「現実なんか知りたくない。見たくない。聞きたくない。僕を分け隔てなく扱ってくれる世界はここなんだ。……きっと僕も心のどこかで、そんなふうに思ってた」
 静かに語りかけながら、薄雨のベールをかき分けて進む。ラトには何故か、走り去った禍人がどこに向かったのか、手に取るようにわかっていた。否、禍人とどこで再会するべきなのか、理解していたと言った方が正しいだろう。だからその足取りに、迷うところは一切なかった。
 途中、丘の家の前を通りかかった。見ればほんのりと灯りが点っている。窓から中を覗いてみると、そこには二つの人影があった。
「ばあさま。それは、何に効く薬草なの?」
 老婆の傍らにそっと立ち、そう尋ねる少年がいる。すると老婆は微笑んで、戸棚から古びた書物を取り出した。
「ご覧。これが読めるかい?」
「もちろん! だって僕、ばあさまに字を教わったもの」
「おやおや、いい返事だね。――いいかい、ラト。知りたいことは、何でもお聞き。知識は生涯お前を助ける。きっとお前を守ってくれる。私も命がある限り、お前に全てを伝えよう。それがいつか、きっとお前の糧になる……」
 ふっと蝋燭の灯が消えるように、二人の影が消え失せた。ラトは懐かしいその人影に心の中で手を振って、再び丘を歩き始める。「だから、ラトは物知りなのね」と、唸るようにハティアが言った。
 またしばらく歩いていくと、丘の向こうに羊の一団が見えてきた。その中心には、黒鳶色の髪をなびかす、若い占い師が立っている。
「あら、風邪をひいたの?」
 すぐ後ろを歩く少年に向かって、彼女はにこやかにそう言った。それを聞き、少年は咳をしてからこう答える。
「母さんは、僕が風邪をひくとやけに喜ぶよね」
「ええ。……だってそうでもないと、お前は甘えてくれないから」
 滅多に軽口をたたかないその占い師が、はにかんだ笑みを浮かべてそう話したときのことを、ラトは今でも覚えている。だからこそ、その懐かしい風景を見た時には、胸が震えるようだった。
「お兄ちゃんのバカ! 私、母さんのクッキーを楽しみに帰ってきたのに!」
「早く行こうぜ。丘は、気味が悪くて仕方ねえ」
「出して! ――出してよ! どうしてこんな、意地悪をするんだ!」
「町のみんながね、私のお兄ちゃんになる人は、怖い目をした人なんだって言ってたの。だけど違うね。私のお兄ちゃんには、優しい目が三つもあるのね」
 ああ、記憶の中の声達が、寄って集ってラトを試そうとしているのだ。その事に気づいていたから、ラトはどちらの言葉にも応えようとはしなかった。聞き流そうともしなかった。ただ一点のみを見据えて、先へ先へと歩き続けた。
「暗闇が怖いのかい? 大丈夫。お前には、このばあさまがついているからね」
「でも実際、怖いわよねぇ。あんなのが丘一つ越えたところに住んでるなんて」
「もういいの。おまえは優しい子だもの。きっと私やニナのことを心配してくれたんでしょう?」
「あいつだ。あいつが、この大雨を降らせたに決まってる!」
 
 雨の中を、それからどれほど歩いただろう。ようやくラトが足を止め、たどり着いたその場所は、タネット川の水際であった。
 雨に打たれたその水面は、相変わらず、まるでラトの訪れを待ちわびていたとでも言うように、囂々と唸りを上げている。ラトは川岸に立ち静かにこちらを伺う人影に対して、まずは短くこう言った。
「逃げるな。僕も、もう逃げない」
 人影がそっと顔を上げる。
 その昏い三つの目が、今、確かにラトを見た。
――おまえは私、私はおまえだよ。私はお前の願望から生まれたのだもの。
――そうさ、ラト。全て私が仕組んだことだよ。おまえの力がほしかったからね。殺されそうだった赤子のおまえを占い師に預けるように仕向けたのも私だし、町の人間に恐怖を植え付けて、おまえから遠ざけたのも私。……、全て私が仕組んだのさ。
「……、今はまだ、おまえの全てを受け容れることはできないけど」
 たじろぐように禍人が、一歩後ろへ後ずさる。
――自分の心に忠実に答えなさい、ラト。嘘をついてはいけないよ。
――おまえは僕なんかじゃない。僕の名前は、ラトだ。でも、おまえは名前もない禍人にすぎないじゃないか!
「現実の世界に帰るのは、実は僕も、少し怖い。……だけどあの世界も、悲しいばかりではなかったから。その事は、お前も知っているはずだから」
――おまえなんか、おまえなんか、都合の良いことばかりを言い触らす、ただの影だ、闇の生き物だ! さあ、どこへでもいなくなれ。……この、化け物め!
 あの時に聞いた絶叫を、ラトは何度も夢に見た。その時のことを思い返して、ろくに眠れない日々さえあった。
 けれど後悔できなかった。一度それをしてしまったら、もう二度と、立ち上がれないと思っていた。そう信じ込んでいた。
 それでも、今は。
「帰ろう。――『ラト』」
 はっきりと、そう口に出す。
 その瞬間に起こった出来事を、ラトは生涯、忘れないだろう。
 禍人の頬に涙が落ちた。そして同時に、偽りの世界に白波が立つ。
 まるで大海原の中心に放り出されたかのようだった。突然起こったその波に、マカオの悲しいモノクロの大地が、色を失ったラトの故郷が、鮮やかな色彩に塗り替えられていく。赤、青、黄……全ての色という色が、我先にと競うように、川岸を、大気を、そしてラト自身を色づける。
 雨雲が音もなく流れていった。
 緑の香りを風が運ぶ。
 空の蒼が融け出して――夕日の赤に、丘が染まる。
――それなら、お前の名前は夕日だ。
「凄い! ……凄いわ。ラト、見て!」
 明るい声で、興奮気味にハティアが言った。その瞳はきらきらと輝いて、色を取り戻したタネット川へと向いている。ラトは言葉もなくただ胸を詰まらせながら、ハティアと同じように、ゆっくりと、暖かな風を吸い込んだ。
 ふと、禍人のいた方を振り返る。そこには既に人の姿はなかったが、ラトはそれを探さなかった。ラトには、彼がどこへ消えたのだか、すっかりわかっていたからだ。
――太陽は、闇を経て必ずまた顔を出す。俺にはそれが羨ましい。
 今は遠い友人の声が、不意に、胸に落ちてくる。
「ハティア。一つ、お願いがあるんだけど」
 ラトが言うと、ハティアはまぶたを瞬かせ、「なあに?」と小首を傾げてみせる。ラトはそれを見て微笑むと、こんな事を口にした。
「僕に名を聞いて。――初めて出会った時みたいに、僕のことなど、まだなにも知らないみたいに」
「そんなことで良いの?」
「『そんなこと』じゃない。僕にとっては大事なことだ」
 言えば、ハティアはくすくす笑った。それからラトの前に立ち、じっとその目を見定めて、「あなたは誰?」とそう問うた。
 旋律にのせた言霊ではない。けれどそれは確かに、ラトを導く歌であった。
「――。……ラト」
 答えて、静かに目を閉じる。木々のさざめく優しい旋律。小鳥のさえずる穏やかな昼間。それら全てに覚えがあった。
 ああ、やっとここまできた。遂にここまで帰ってきた。そう思いながら深呼吸して、ラトは何かの鼓動を聞く。
 とくん、とくんと大地に脈打つ静かな心音。懐かしい。これは、長く沈黙していた精霊達の息づかいだ。
「ただいま」
 小さく、優しく呟いた。精霊達はそれに応えるかのように、ふわりとラトを包み込む。
 おかえり。おかえりと、言葉なく何かが囁いた。
 おかえり。ラト、おかえり。
「ねえ、見て。遠くに見えるマカオの町まで、何もかも全て色づいてる。私達、ラトの言っていた『現実』のマカオへ来たのかしら」
 無邪気に、しかし思った以上に冷静な声音で、ハティアがそんなことを問う。ラトは首を横に振ると、彼女の隣に並び立ち、遠く連なるマカオの家々へと顔を向けた。
「ううん。これは多分、まだ、僕の記憶の中のマカオだと思う。……精霊達が、そう言ってる」
「……、精霊?」
「そうさ。例えばあの雲や、そこの岩、それに遠くの樹々達が、僕に教えてくれるんだ」
「ラトには、そういうものの言葉がわかるの?」
 またも興味津々の様子で、ハティアがそんなことを問う。聞いてラトは苦笑しながら、「昔ほどではないけど」とだけ答えを返した。
 事実、再び精霊の言葉を感じるようになったとはいえ、以前とはいささか勝手が違うようだと、ラト自身も気づいていた。以前ははっきりと感じ取れた精霊達の囁きが、今は薄布を一枚隔てたように遠く思えるのだ。禍人の札で姿を偽っていたときと、おんなじだ。
 しかしその時、不意に聞こえてきたひときわ大きな鼓動の音に、ラトは思わず肩を震わせた。そうして慌ててタネット川の上流へと顔を向け、その向こうから――あの静謐な洞の方から向かってくる、その人のことを凝視する。
「名を取り戻したのね。ラト」
 聞き慣れた女性の声がした。聞いてハティアは驚いたように目を瞬かせ、ラトの背後へ身を寄せる。その人に対峙したラトは一度生唾を飲み込んで、それから、はっきりとした口調でこう告げた。
「お久しぶりです、母さん。……いいえ、精霊の長様」

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