吟詠旅譚

太陽の謡 第一章 // 忘却の風土

013 : Alter ego

――おまえは現実なんか、ちっとも望んでいないじゃないか。
 違う。違うと、ラトは必死に否定し続けた。
 元の世界へ帰ることは、ラトが確かに望んだことだ。自分自身で望んだのだ。
――母さん、なぜ死んだの……。あんなふうに血を吐いて、きっと苦しかったでしょう。
 だが実際はどうだ。『現実』と称された幻を見せられる度、ラトの心は引き裂かれるかのようだった。
 知りたくなかった。見たくなかった。知れば知るほど、後悔の念ばかりが心を蝕んだ。
 帰りたい。
 知りたくない。
 行かなくては。
 違う。
 違う。
 違う。
 違う。望んだものは、願ったものは。
――君があまりに容赦なく、この世界に現実を引き入れるから。
――そのくせこうして、……まぶしすぎる、希望を見せる。
(ああ、――僕が、本当に恐れていたものは)
 ラトが真実、心の底から望んだものは。
 
 ラトは微動だにしないまま、じっとハティアの言葉を待った。まるで判決を待つ罪人のようだと考えて、思わず苦笑してしまう。こんな目を持つラトのことを、ハティアは軽蔑するだろうか。それともそれを隠したまま接してきたラトに、腹を立てるだろうか。
 もうどちらでも構わない。ラトは自棄にも近い思いで、ハティアに全てを委ねていた。彼女がラトをどう扱おうと、受け入れようと考えた。
 しかし。
 ラトの心中を知ってか知らずにか、ハティアはただただ、ラトの額を見つめるばかりであった。それからそっと手で触れて、今度は興味深そうに覗きこんでさえくる。
「あの、ハティア。……こそばゆいんだけど」
 沈黙に耐えきれずにラトが言うと、ハティアははっとした様子で「ごめんなさい」と手を離し、しかし変わらず、物珍しげな顔でラトの額を眺めていた。そうして次に、なんでもないかのようにこんな事を口にする。
「ああ。それでいつも、額に何か巻いていたのね」
 聞いて、ラトは思わず口を閉ざした。自分に向けられた言葉の意味が、わからなかった。
 それだけか。他に何か、言うべきことがあるだろうに。
 虚を突かれたラトはしばし唖然と瞬きをして、やっとのことで口を開いた。しかし「気味が悪いと思わないの?」と問えば、「どうして?」とまた予想外の言葉が返ってくる。
「どうして、って……。だって僕、額に、目が」
「そうね。ちょっと驚いたけど」
「ちょっと、驚いた……だけ?」
「だって私、今まで旅をする中で、もっと不思議な物を沢山見てきたもの。人がみんな獣の顔をしている町とか、――色のない、どこか孤独で、寂しい町とか」
 聞いて、ラトは再び言葉を失った。想像もしていなかったその反応に、返す言葉が見つからなかった。
 獣の顔をした人間の住む町。そうだ、そういえばそんなものを見たと言っていた。他にも確か、住人全員が仮面を被っている町や、夜のこない丘の話をしていたことも覚えている。けれど。
 言葉のないまま、ハティアの目を覗き見た。すると彼女はあまりに自然に、ラトへにこりと微笑みかける。
 顔から火を吹く思いであった。
 それが何故だか自分でもわからないうちに、ラトはその場で赤面した。耳の先まで、燃えるように熱を帯びていた。
 続いて心がざわめき出す。まるでラトを熱するその炎が、心の内にまで飛び火してきたかのようだ。
 ああ、この思いは何だろう。
 このざわめきは、何だというのだ。
「気味悪いなんて思わないわ」
 彼女の言葉が、胸に落ちる。それは暖かい歌のようであった。
「その目があってもなくても、私にとってラトはラトだもの」
 ラトをここまで導いた、あの、優しい歌のようであった。
「一人で旅をしていた私と、言葉を交わしてくれた人。何もかも忘れてしまっていた私に、色々なことを教えてくれた人。それが私にとってのラトだもの。だから、私――」
 ハティアの言葉を、ラトは最後まで待たなかった。
 それより先に心が動いた。こらえきれなかった。ラトは自分でもそうと理解する前に、目の前に佇むハティアを、両手で強く抱きしめていた。
「ラト……?」
 堅く目をつむるラトの耳元で、囁くようにハティアが呼ぶ。
 濡れそぼったラトの頬に、彼女の柔らかな髪が触れていた。
 暖かな人間の体温が、確かにラトの腕の中にあった。
 しかしラトはその存在を確認して、それから、絞り出すようにこう告げる。
「それ以上言わないで。……君のことまで、僕の作り上げた都合のいい幻なんじゃないかって、疑ってしまいそうだから」
 腕が少し、震えていた。情けないなとラトは笑った。
 ハティアの応えはしばらくなかった。しかし彼女はラトのことをそっと抱き返すと、はっきりとした口調でこう告げる。
「私は幻じゃ、ないわ」
 意志を感じる強い声に、一瞬肩を震わせる。そうして抱きしめていた腕を緩めると、まっすぐにラトを見るハティアと、目があった。
「私は私のこと、何も覚えていないけど……。でもこれだけはわかる。私は幻なんかじゃない」
 ラトの心に、チリチリとした痛みが走る。その時ふと、一年前にタシャに言われた言葉を思い出した。
――自分の心に忠実に答えなさい、ラト。嘘をついてはいけないよ。ただ、心にうかんだ真実だけを口に出すこと……。
 あの時のラトにはできなかった。そうするだけの勇気がなかった。
 けれどラトにできなかったそれを、今目の前にいるこの少女は、なんと簡単にやってのけたことか。
「ハティア」
 穏やかな声でそう呼ぶと、彼女はにこりとまた笑った。それを見て、ラトも、ぎこちなくだが微笑みを返す。
「僕も、君みたいになれるだろうか。君みたいに、自分を信じ切れるだろうか」
 ハティアは答えなかった。けれど柔らかく、再びラトの頬に触れた。そうして、
「はじまり告げるは鳥の声、――花舞う彼方、約束の場所」
 静かに、歌を囁きかける。
 それはソラリスの歌であった。マカオの祭では途中のままで途切れてしまった、ラトにとっての願いの歌だ。
「救いの声、赦しの歌。涙の粒が木の実に変わる……」
 この見知らぬ花畑にも、ソラリスの歌が響き渡る。やはり鐘楼からでないといけないのか、周囲は少しも色づこうとはしなかった。
 しかし、その時だ。
 空が零した雨粒が、再びぽつりと肌を打つ。先ほどまで明るい光に満ちていた花園が、徐々に、昏い雨雲に蝕まれていく。
「さざめく風が果実を揺らす。その喜びを、今日も歌おう」
 同時に世界が、まるで炎にくべた薄紙のように萎縮して、爆ぜて、次の瞬間にはすっかりマカオの丘に変わった。ああ、また戻ってきたのだ。そう考えて、ラトは奥歯を噛みしめる。そうして糸のような雨を迎え入れたマカオの丘を見ていると、何故だか、あの冷たい棺に閉じこめられたときのことが思い出された。
――自分の心に忠実に。
――嘘をついてはいけないよ。
 あの時タシャは、そう言った。
 ふと見れば、隣で歌を奏でるハティアの頬に雨粒が落ちた。それはまるで澄んだ飾り石のように、彼女の白い肌をつたって、静かにそこへ融けてゆく。
(ああ。……君は、僕にもう一度チャンスをくれるのか)
 心の中で、呟いた。そうして一歩退いて、空を振り仰ぐと、雷光が走っていくのが見て取れる。そうして少し遅れて、この薄暗い花園へも重い雷鳴が轟いた。
 得体の知れない生き物の、それはなにか、足音のようだとラトは思った。
「さざめく風が果実を揺らす。……その喜びを、今日も歌おう」
 ハティアが歌うそれにあわせて、ラトも一節、口ずさむ。そうして丘を踏み出すと、再び雷鳴が轟いた。
 顔を上げればすぐそこに、見慣れた老樹が見えている。生まれたばかりのラトが捨てられていた、マカオの丘のあの老樹だ。よくよく目をこらして見れば、そのすぐ隣にぽつんと一つ、小さな人影が蹲っている。その人影は肩を震わせ、遠く雨に呑まれていく田舎町を、食い入るように眺めていた。
 その震えがどこから来るのか、ラトにはわかるような気がした。
 その目が何を見ているのか、ラトにはすっかりわかっていた。だからその人影が口にした言葉を聞いたときにも、大して驚きはしなかった。
「ざまあみろ」
 人影は音になるかならないかというような小さな声で、ただ一言呟いた。
 声は悪意に満ちていた。
「ざまあみろ。マカオの町も、人間も、このまま雨に押し流されてしまえ。――要らない。もう要らない。僕をやっかむこんな町、このまま滅んでしまえばいい」
 続く陰鬱な笑い声。だが笑っているはずなのに、その肩の震えはまるで、泣いているかのように弱々しい。
 ああ、なんてみじめったらしい後ろ姿なのだろう。そんなことを考えながら、ラトは自らの額に手を触れる。そうして音もなく人影へ歩み寄ると、ぽつりと、短くこう問うた。
「――それがお前の『願い』か。禍人」
 人影が慌てて振り返る。ラトの指先が、自身の額の目に触れる。
 雷が丘に、轟いた。
 そこには長年、心底憎み続けた『もう一人のラト』が棲んでいた。

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