吟詠旅譚

太陽の謡 第一章 // 忘却の風土

012 : Memoria quod Oblivio -3-

   夢を見ていた気がするの
   今もまどろむあなたのとなりで
   私はあなたの髪を撫で
   そっと微かに耳打ちする
 
   私の夢は幸せでした
   あなたのとなりにおりました
   どうか目覚めず聞いていて
   私の最後の幻想を
 
   ずっと夢を見ていたの
   小さな窓から祈りを捧げて
   あなたと二人で笑う日が
   いつか必ず来るのだと
 
   星の野原は珊瑚の輝き
   黄金の橋を二人で渡る
   人々みんなに祝福されて
   けれどすべては私の幻想
 
   あなたはきっと旅立つでしょう
   私をおいてゆくでしょう
   無力な私に別れも告げず
   きっと独りでゆくのでしょう
 
   私の歌うこの歌は
   嵐の中の灯も同じ
   いつかあなたに届くのかしら
   私の涙とこの歌は
 
 まぶたの向こうに、明るい光を感じていた。暖かな風がラトの鼻先を撫で、芳しい香りを運んでゆく。
 ちりんと、また鈴の音を聞いたような気がする。ラトはゆっくりと目を開けて、しかし満遍なく辺りを照らし出す太陽の光に、思わず強く顔をしかめた。
 風にそよぐ草花が、ラトの頬を柔らかく引っ掻いていく。ずぶ濡れになったラトを慰めるかのように、暖かな光が降り注いでいる。
 やっとの事で体を起こし、咳き込むと、大量に飲んだ川の水も、そのいくらかは吐き出すことができた。そうして改めて辺りを見回して、ラトは、小さく息をのむ。
 そこは無限の花園であった。
 とは言え『花園』という言葉が、果たしてこの場を表すのに相応しいかはわからない。やはり色を失っているとはいえ、様々な種の花が秩序を持って咲き乱れるそこには確かに何者かの意志を感じるのに、その景色は遠く見渡す地平線にまで際限なく続いている。これだけの規模だ。人の手で作り出すのは不可能であろう。しかし天然の花畑であるにしては、整然としすぎているように思われる。
 それにしても自分が何故、いつの間にこんなところへたどり着いたのやら、ラトにはちっとも覚えがなかった。確かつい先ほどまで、氾濫したタネット川の渦中にいたはずだ。そこでもがき、苦しんで、今にも命を失おうとしていたのではなかったか。
 ひとまず、腫れるほど頬を抓ってみる。どうやら夢ではないようだ。それに死後の世界ではと考えるには、そこは暖かみに溢れていた。何か優しい光のようなものに包み込まれているような、妙な安心感がそこにはあった。
(そうだ。確か、ハティアの歌が聞こえてきて、――)
 それを追って歩いていたのだ。ではあの歌が、ラトをここまで導いたのだろうか。しかしそうまで考えて、ラトは慌ててその花園を見渡した。どこからか、人の話し声が聞こえたような気がしたのだ。
「悲しいな。なぜ僕たちは、この穏やかな日々を共有できないんだろう」
 今度はやけにはっきり聞こえた。どうやら気のせいではなかったらしい。小高い丘のすぐ向こうから聞こえてきたのは、やけに穏やかな男の声であった。
 ずっしりと水を吸った上着を脱ぎ捨て、ラトは音もなく声に歩み寄る。ここが一体どこなのか、相手が一体誰なのか、何一つとしてわからない今、下手を打っては危険だろう。
(この声――、確かマカオで聞いた)
 マカオでハティアを、そして『ラト』を追い立てる町の人々を追っていたときの事だ。
 念のため、相手に気配を勘付かれないようにと身を伏せて歩いていく。しかしそんなラトの思惑とは関わりなく、男はまたこんなことを言った。
「だけど、それが人の性なんだ。生まれながらに人は皆、自らが幸せであるために、他人の不幸が必要なのだと知っているからね。人の幸せというものは、酷く相対的なものなのさ」
 男の声がそう言って、自嘲気味にくつくつと笑う。ラトは丘の下を覗き込むようにそっと顔を出して、そうして思わず、目をみはった。
 男の他にもうひとつ、それもラトにとって見覚えのある人物が、そこにぽつんと腰掛けていたのだ。
「あなたはそうやって、わかったようなことばかり言う。でもね、私は、人がそんなふうに悲しいばかりだなんて思わないわ、……」
 そう話して寂しそうに顔を伏せたその人を見て、ラトは思わず身を乗り出した。
(……ハティア!)
 心の中で叫んだが、声をかけることはできなかった。その人物の声も、顔も、確かにラトのよく知る旅人のそれであるはずなのに、どうしてもそれが本人だと、確信を得ることができなかったのだ。
 無限の花園にぽつりと座り込んでいたのは、悲しげな顔をした一人の少女であった。しかしその姿はラトが出会った旅人のハティアとは打って変わって、まるでどこかの国の姫君のように、ふわりとしたドレスをまとっている。
 見ていると、すらりとした長身の男が、親しげに彼女を振り返った。こちらもどこかの王族かのように、なにやら立派な装いだ。男の銀にも近い金髪は、さらりと風に靡いている。
「本当にそう思う? よく考えてご覧、僕が良い例じゃないか。僕は僕のためだけに生きた。僕が幸せであるために、必要なことは何でもした。……だからこうして、君のことも悲しませてしまったんだ。その事だけは心の底から申し訳なく思っているけど、反省する気は少しもないよ」
 腰を落とした男の手が、優しく彼女の頬に触れた。しかし『ハティア』はそれを受け容れるでもなく、拒むでもなく、ただ悲しげに俯いている。
「そんなふうに、自分を悪く言わないで。あなたのその我が儘が、私達を救ってくれたことだってあったんだから」
 彼女が泣いているのだと、離れて見ていたラトにもわかった。それなのに彼女に触れるその男は、少しも気づいていないかのように、否、気づいていないふりをして、彼女にきっぱりと背を向ける。
 ラトの心に、得体の知れない苛立ちが募っていた。それがただ男の身勝手な言動に対するものなのか、それとも嫉妬の念なのかまではわからない。しかし耐えきれなくなったラトが彼女へ歩み寄ろうとしたその瞬間、
「私を置いていかないで、――サニマ」
「ラト! よかった、やっと見つけた!」
 二つの声が、重なった。
 同時に背後から飛びつかれ、ラトは目を白黒させながら、慌てて声を振り返る。しかしラトが二の句を告げぬままでいるうちに、ラトに飛びついた当の本人は、息継ぎもせずにこう言い募った。
「良かった。ラト、怪我はないのね? 私、ラトが町の人に連れて行かれるのを見て追いかけたんだけど、間に合わなくて」
 今にも泣きだしそうな顔をしてそう言ったのは、今度こそ、ラトのよく知るあのハティアであった。眉根を寄せて無邪気に話す姿がむず痒いやら、ラトに触れる少女の柔らかみが照れくさいやら、ラトは隔靴掻痒とした思いを感じながら、ちらりと丘の下を振り返る。しかしそこにはもう既に、ハティアによく似たあの少女も、サニマと呼ばれた男の姿も見あたらない。
「ハティア、お、落ち着いて。……僕のことより、君は大丈夫なの? あの時、川には落ちずに済んだの? それに、あの、怪我とかそういうものは……」
 やっとのことでそう言うと、ようやくハティアの手が離れた。その事を一方では少し残念にも思いながら、それでもラトは息を整え、――そうして思わず瞠目する。
「私は大丈夫。もう一人のラトが、助けてくれたから」
 冷水に打たれたかのように、ラトの脳裏がはっとなった。ハティアが無邪気に振り返った先には、見知った少年が佇んでいる。
「――禍人」
 小さく呟くと、その言葉の意味を問うように、ハティアが小首を傾げて見せた。そのすぐ隣では、禍人と呼ばれたそれが居心地悪そうに立ち竦んで、じっと足下を見つめている。
 反射的に、ハティアを庇う形でラトが立つ。しかしてっきりいつものように、ラトを惑わすようなことを言うのかと思われた禍人は、つかえながらこんなことを言った。どうやら、ハティアに向けた言葉のようだ。
「君を傷つけるつもりはなかった。だけど君があまりに容赦なく、この世界に現実を引き入れるから」
 禍人の声が、戸惑いの色に揺れている。しかしラトがその言葉の意図を問おうとした瞬間、彼は悔しげに顔を上げ、吐き捨てるようにこう言った。
「そのくせこうして、……まぶしすぎる、希望を見せる」
 禍人が颯爽と二人に背を向け、逃げるように走り去っていく。しかしラトは言葉のないまま、ただそれを見送るのみであった。
――おまえは現実なんか、ちっとも望んでいないじゃないか。
――馬鹿だな、何故抗うの。この世界にいれば、いくらだって思う通りになるのに。こんなに都合の良い場所なんて、他のどこにもありはしないのに。
――均衡はすでに崩れてしまった。
「ねえ、ラト。追わなくていいの……?」
 おずおずと、窺うようにハティアが言う。だがラトはそれに応えなかった。そうしてそっと、目を伏せる。
――君があまりに容赦なく、この世界に現実を引き入れるから。
 禍人の言葉に苦笑する。
 そうだ。随分前から、ラトもすっかり気づいていたのだ。ラトに与えられた、マカオでの『日常』を脅かすものが何なのか。ラトの心を掻き乱すものが、一体何であるのかを。
 気づいていて、しかし深く考えることを拒んだのだ。
「……すっかり、びしょ濡れだね」
 ハティアに向かって声をかける。するとハティアは苦笑して、「ラトの方こそ」と手を延べた。その手がそっと、冷え切ったラトの頬へと触れる。
 他人の指が顔に触れたことにどきりとして、ラトは思わず肩を震わせた。しかしそれだけだ。その手を振り払うことも、拒絶することも、今のラトにはできなかった。
――そのくせこうして、……まぶしすぎる、希望を見せる。
 禍人が口にしたその言葉が、ラトの脳裏にこだまする。大嫌いだった相手の声が、憎んでいた禍人の声が、今はやけに、心になじむ。
「額に巻いていた布、とれちゃったのね」
「うん。……そうだね、いつの間にか」
「ラトはいつも前髪を下ろしているでしょう。周りが見えづらくはないの?」
「いいんだ。そうしていた方が」
 「ええ?」と言ってくすくす笑い、すっかり濡れそぼってしまったラトの髪を、ハティアの指が撫でていく。なんて優しい手なのだろう。なんて美しい手なのだろう。そんなことを考えていると、そのうち彼女の指先は、髪に隠れたラトの額の目蓋に触れる。
「あら……。これ、瘤? 怪我をしたの?」
「ううん。それは、生まれたときからあったんだ」
「生まれたときから?」
 怪訝そうに首を傾げた彼女の指先が、そっとラトの額をなぞっていく。ラトは抵抗しなかった。ただ、それに続く彼女の言葉を待っていた。
――君があまりに容赦なく、この世界に現実を引き入れるから。
――そのくせこうして、……まぶしすぎる、希望を見せる。
(ああ、そうか、――)
 わかりたくもなかったのに、その時ラトにはわかってしまった。禍人がどんな思いでハティアの鈴を奪ったのか、どんな思いで、彼女のことを助けたのか。
 ハティアの指が、そっとラトの前髪をすくう。そうして次の瞬間、彼女がはっと短く息を呑んだ声が、ラトの耳にも疾く届いた。
「あの、ラト。これは……」
 隠すことは、もはやラトにはできなかった。ここで逃げてしまっては、もう二度と、歩みを進めることはできないだろうとわかっていた。
 ラトは小さく息を吸い、それから穏やかな声で、彼女に向かってこう告げる。
「町の人たちが、僕を化け物と呼んでいたのを聞いたでしょう。これがその理由さ。……今までずっと黙っていて、ごめんね。ハティア――」

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