吟詠旅譚

太陽の謡 第一章 // 忘却の風土

011 : Memoria quod Oblivio -2-

 思ったほど、水音は耳に響かなかった。そんなものを感じるより早く、ラトの身体は川のうねりに呑まれていたのだ。
 濁流に揉まれて、上も下もわからない。もがけばもがくほど、水草や藻が手足に絡みつく。まるで川が意志を持って、ラトをこの冷たい水中へ留めようとするかのようだ。
 息がもたずに、水を飲んだ。吐き出した息がほんの一瞬宝石のように煌めいて、しかしすぐにかき消されていく。
 苦しい。
 苦しい。息がしたい。
 やっとのことで目を開けて、必死に辺りを見回しても、四方は全て闇である。それどころかラトの体は小石のように流されるばかりで、どこを向いているかすら定かではないのだ。
 冷たい水を含んだ服が、ラトの自由を奪っている。だが脱ぐことすらままならない。そうこうしているうちに、どこからか流れてきた岩か、あるいは川底か、堅いものに打ち付けられて、ラトはまた水を飲んだ。傷を負った背中が痛む。もがいても、もがいても、少しも活路は見いだせない。
 どうすればいい。
 どこへ向かえば、――生きられる。
 しかしそう問う自らの腕から、遂に力が抜けていく。握りしめていた掌中からハティアの鈴が離れたのを見ると、ラトの心を矢のような恐怖が貫いた。
 それは真っ白な矢であった。なめらかな肌の、よくしなる矢であった。
(ああ、……厭だ、やめろ)
 頭の中に、ちりりと妙な痛みが走る。意識が徐々に、薄らいでいく。
(厭だ。こんなところで、こんなふうに、こんな、こんな、――)
 どうしてこんなことになるのだと、叫びだしたい気分であった。
 元の世界へ帰りたかった。それだけだ。望んだのはただそれだけのことだ。
 水を掻く。息がしたい。
 苦しい。誰か、どうか、――。
 しかしそうしてあらがう一方で、「ああ、遂にその時が来たのだ」と、ラトの心が呟いた。
――例の化け物が、丘から降りていやがったんだ! あいつだ。あいつが、この大雨を降らせたに決まってる!
――タネット川へ集まれ! 化け物の手から町を守れ!
 もしかしたら自分は一年前、こうして命を落とす運命だったのかもしれない。それが何かの間違いで、今までこうして生きてしまった。
 あの時生き延びてしまったこと、それ自体が、本来ならあってはならないことだったのかもしれない。あの時ラトは、助けられてはいけなかったのかもしれない。その思いは実のところ、常にラトの心の奥深くにくすぶっていた。
――もし長様が、禍人に負けるようなことがあったら、マカオの町はどうなるの?
――やっぱり地盤が軟化してる。このままこの町にいたんじゃ、いつ、地崩れで町ごと流されるかわからんぞ。
――ラト、本当に助かったよ。全ておまえのおかげだ。おまえが私との契約を、許してくれたものだから。
――精霊の加護がなければ、大地は育たない。町はいずれ……滅びるわ。
(あの時、僕が死んでいれば……。精霊の長が禍人に負けるようなことは、きっと、なかった)
――母さんが倒れたの。 顔を真っ青にして、口から、たくさん血を吐いた……!
――仕方ないさ。ニナだってどうにか、生きる術を身につけなきゃならない。タシャも死んで、一人になっちまったんだしね。
――ねえ、でもニナは? いったい誰が、あんな子を養うっていうのさ。
(ニナだって、独りぼっちにならずに済んだんだ)
 タネット川の冷たい水が、確実にラトを満たしていく。もがく力は既に無かった。流されるまま水中を彷徨いながら、ラトはただ、「ごめんね」と、今は遠い妹に向かって呟いた。
 あの優しい母子は、ラトを家族として迎えてくれたのに。沢山のものをくれたのに。なのに、ラトはその恩を、全て仇で返してしまった。
――ラト、何故抗うんだい。おまえは現実なんか、ちっとも望んでいないじゃないか。
 目を瞑れば次々に、町の人々の罵声が脳裏に響く。それでもラトはその全てから、躊躇いもなしに顔を背けた。
 町の人間のことなど知るものか。ラトが許しを請うとするなら、心からの懺悔を捧げるなら、その対象は限られている。
(母さん、ニナ、――それに)
 手放したはずの鈴の音が、どこか遠くに聞こえていた。「お守り!」と無邪気に笑って、ラトにそれを手渡した、ハティアの笑顔を思い出す。
 ハティアはどうしているだろう。あの時ラトと一緒に落ちたのか、それとも難を逃れ、まだ川岸にいるのだろうか。川岸で、ラトを呼んでくれているのだろうか。
 そんなことを考えていると、ふと、どこかから柔らかな声が聞こえてきた。
 冷たい水の中に響くこの声は、遠く、近くにたゆたうこの暖かみは、――ああ、そうだ。歌声だ。
   夢を見ていた気がするの
   今もまどろむあなたのとなりで
   私はあなたの髪を撫で
   そっと微かに耳打ちする
 宵闇の町の中、ハティアが一人で歌っていた歌だ。何故この濁流の中、歌声だけが聞こえるのだろう。
   私の夢は幸せでした
   あなたのとなりにおりました
   どうか目覚めず聞いていて
   私の最後の幻想を
(もし、ハティアも川へ落ちたなら……せめて、ハティアのことだけでも助けなくちゃ)
 そう考えて、ラトは思わず笑ってしまった。もはや指先一つまともに動かすことができない自分に、一体何ができるというのだろう。
   あなたはきっと旅立つでしょう
   私をおいてゆくでしょう
   無力な私に別れも告げず
   きっと独りでゆくのでしょう
 優しい歌だ。暖かい歌だ。けれどどこか、――寂しい歌だ。
 宵闇の中、家の前に座り込んでラトを待っていた彼女の顔を思い出す。自分が何者なのかすら忘れてしまうほどの長い間、一人彷徨い続けた旅人は、どんな思いでマカオの町に訪れたのだろう。
――私、ラトに協力するね。私の歌がこの世界に何か影響するなら、何度だって歌ってみせる。だからラト、……どうか、泣かないで。
(なのに僕は、自分の都合ばっかりで)
 彼女がいれば、この世界を脱することができると思った。だから最低限大切に扱った。けれど、それだけだ。彼女の力になりたいなどとは、欠片ほどにも思わなかった。
(行かなきゃ)
 行かなくては。もはや何の力にもなれないとしても、ただ、彼女を独りにしたくなかった。
 行かなくては。そしてどうか、伝えたい。
 突然現れた旅人に、ラトがどれだけ救われたか。彼女の笑顔とその歌に、町が色付くからとは別に、どれだけ心癒されたかを。
 水の中、漂うラトの髪が揺れた。
(行きたい。このまま、死にたくない……)
 頑なに閉じていた額の目が、気づけば昏い水底を眺めていた。
(厭だ。もう一度、――もう一度、ハティアに逢いたい)
 そうしてまた少し水を掻き、藻の生い茂る川底へと足をつける。今まで奔流に弄ばれるばかりでいたはずのラトの体は、まるで陸地を進むかのように、川の底を歩いていた。
   私の歌うこの歌は
   嵐の中の灯も同じ
   いつかあなたに届くのかしら
   私の涙とこの歌は
 不思議と息苦しさは感じなかった。導かれるように歩いていた。
 ラトはただ、耳に届く優しい歌声を追った。

:: Thor All Rights Reserved. ::