吟詠旅譚

太陽の謡 第一章 // 忘却の風土

010 : Memoria quod Oblivio -1-

「さあ、タネット川へ急げ!」
「町を守れ、俺たちの手で!」
 町の人間達のがなり立てる声が、遠く、近くに聞こえている。そんな中、ラトは小さく呟いた。
「僕じゃない」
――例の化け物が、丘から降りていやがったんだ! あいつだ。あいつが、この大雨を降らせたに決まってる!
――タネット川へ集まれ! 化け物の手から町を守れ!
 色を持たないマカオの町は、いつだってもの悲しく見えていた。けれどそのもの悲しさは、偽りじみた静けさは、常にこの独善的な狂気を孕んでいたのだと、今になって思い知る。
「僕じゃない。……、僕は何もしていない」
 ラトがどんなに走っても、ついに町の人々に追いつくことはできなかった。駆けても駆けても、まるで見えない壁に行く手を阻まれているかのように、いつまでも距離が縮まらないのだ。ハティアの姿も今は見えない。この時ラトが感じていたのは、轟々と唸りを発するタネット川の水音が、確実に、少しずつ、迫ってきていることだけだ。
 その音を背景に、町の人々の声が響いている。
 短絡的な主張。保身じみた思惟。一年前の幼いラトは、ただ彼らの狂気を恐れた。狂気を、そして恐怖を恐れた。予期せぬ災害に肩を震わせ、ラトに罪を問う彼らのことを、軽蔑するのみであった。
 けれど、今は。
「悲しいな」
 奥歯を噛みしめ、無感情な声でそう言うと、なにやらおかしな思いがした。自分の口から出た言葉が、まるで知らない誰かの声のように聞こえたのだ。
 悲しいな。
 そうだ。以前、『彼』も同じように言っていた。悔しいとも、苛立たしいとも違うのだと。ただただ全てが悲しいのだと。しかしそこまで考えて、ラトは思わず顔をしかめる。
――悲しいな。なぜ僕たちは、この穏やかな日を共有できないんだろう。
 聞き覚えのない声とともに、鈍い痛みが脳裏をよぎる。一瞬何かが見えたように思えたのに、そこには幻の影すらない。
(誰だ)
――だけど、それが人の性なんだ。生まれながらに人は皆、自らが幸せであるために、他人の不幸が必要なのだと知っているからね。人の幸せというものは、酷く相対的なものなのさ。
 唐突に聞こえてきたその声に、しかしラトは、少しも驚きはしなかった。それは懐かしい精霊の声のようにも聞こえ、ラトを惑わす禍人の声のようでもある。得体の知れないその声は、風雨の中でくすくす笑った。この雨の中に響くには、いやに乾いた笑い声だ。
(一体、……誰なんだ)
 心の中で、小さく問う。しかしラトにはそれ以上、声の主を詮索するような猶予はなかった。
 雷鳴がまた、轟いた。
 風は強く音をたて、大粒の雨が吹き付ける。同時に聞こえた鈍い音に、ラトは咄嗟に振り向いた。
「!」
 見れば真っ二つに割かれた雨樋が、こちらに向かって飛んで来る。鋭利に割れたその先が、ラトをめがけてぎらついた。
 ガァンと強い音がする。間一髪で滑り込んだ物陰から恐る恐る頭を出すと、ラトは大きく息をついた。危なかった。あたっていたら、掠り傷では済まないところだ。
 弾む息を整えると、いささか気持ちが落ち着いた。雨にじっとりと濡れた前髪を除け、改めて町を見回してみれば、雨にすっかり濡れそぼり、風に弄ばれるマカオの町が視界にはいる。それはまるで、ちゃちな作り物かのようだ。
(マカオに似せた、偽りの町――)
 本物のマカオはどうだったろう。一年前のあの町も、こんなふうに壊れていったのだろうか。雨と風とに握りつぶされるように、じわじわとなぶり殺されるように、こうして崩壊したのだろうか。
――雨を止ませろ、川の氾濫を止めろ!
――化け物の力から、俺たちの町を守れ!
 思い返せばくつくつと、素直な笑みがこみ上げた。
 昏い何かが胸を過ぎる。何故だかやけに愉快であった。
「   」
 音の無いまま、言葉がこぼれた。しかし、その時だ。
 握りしめていたはずのハティアの鈴が、どうしてか、高らかな音を響かせる。はっとなって顔を上げ、ラトは思わず息を呑んだ。
 瓦礫に足を取られた女性が、道にしゃがみ込んでいた。そのすぐ隣には靴屋があり、ぶら下げられた看板は、今まさに彼女の頭上に落ちようとしている。
 その女性が、ハティアに見えた。
「――逃げろ、危ない!」
 急ぎ彼女に駆け寄って、庇うように身を乗り出した。しかし重い木造の看板がその背に落ちる寸前に、その女性が顔を上げたのを見て、ラトは思わず舌打ちする。別人だ。そう気づいた瞬間、ラトの心に後悔という名の火が灯る。
(この人も、僕を差別した内の一人だろうに)
 助けてなどやらねばよかった。助けてやるべきではなかった。
 女がラトを見、瞠目する。その反対に、ラトは自らを襲うだろう痛みに備えて目をつむった。
 ああ、一年前にも似たようなことがあった。確か瓦礫の下敷きになった女性を助け、その肩を支えて歩いたのだ。その時のことを考えると、何ともいえぬ背徳感が、ラトの心をむさぼっていく。
 あの時のラトに打算はなかった。そうして人を助けるのが、当たり前の道理と思った。
(だけど彼らは、それに応えてはくれなかった――)
 目蓋に力を込め、強く奥歯を噛みしめる。直後、骨を打つ鈍い音がした。
「あっ、……ああ」
 背を打ち、その場へ俯せたラトを見て、町の女が声を漏らす。しかし彼女は打ち震えるだけで、ラトに声すらかけはしない。一方でラトはぼうっとする意識を辛うじて保ちながら、ふと、数日前までのこの世界のことを思っていた。
 この町は、穏やかで虚ろな牢獄のようであった。だが、ラトの思う通りに動く操り人形のような町の人間達を見て、小気味がよい思いをしていたことも確かである。
(行け)
 この女性は、まだラトの命令通りに動くだろうか。無邪気に試してみたくなった。
(もう行け。――僕の前から、いなくなれ。お前は『人間』なんだろう。この化け物が、憎くて恐ろしくてたまらないんだろう、……)
 頬に流れ落ちた雨粒は、何故だか熱を帯びている。そうして走り去る彼女の背中を眺めながら、ラトは、よりいっそう強く、ハティアの鈴を握りしめた。
――私、ラトに協力するね。私の歌がこの世界に何か影響するなら、何度だって歌ってみせる。
――やめて! ラトに、何するの!
 ハティアはラトを分け隔てせずに扱った。それもそのはず、彼女はラトの異形のことも、精霊とのつながりのことも知らないのだ。彼女にとってのラトはただ、長い旅の末に遭遇した、会話を交わせる数少ない人間の一人に過ぎないのだ。
(僕は卑怯だ。本当のことは何も言わず、何も知らないハティアを利用して、――巻き込むなんて)
 背中の痛みをこらえながら、やっとの事で立ち上がる。ハティアのところへ行かなくては。せめて彼女を守らなくては。彼女は今、冷静さを欠いた町の人間達と共にいるはずだ。
 髪にも肌にもまとわりついていた泥が、ぼとりと音をたてて地面へ落ちた。傷は痛むが、まだ歩ける。しかしそうしてラトが足を踏み出そうとした、その時だ。
「やめて、放して! ラト、……ラト!」
 耳を貫くその声に、ラトは思わず目を細めた。同時にぐらりと視界が揺れるのを感じて、よろけて壁にもたれかかる。そうしてあわてて顔を上げ、目の前の光景に息をのんだ。
 知らずのうちに墓地へ導かれていたあの時のように、気づけばラトは、タネット川のそばへ佇むマカオの人々の一団に混ざり、立っていた。周囲の人々は皆青ざめて、ただ一点を凝視している。ラトもつられて顔を向け、小さく、一瞬、嗚咽を漏らした。
 川辺に一人の少年がいた。町の人間に肩をつかまれ、覚えのない罪を問われ、ただ震えて立ち竦む、三つ目を持った少年だ。だが実際にラトを動揺させたのは、その少年の存在ではない。
「やめて! ラトが、何をしたって言うの?」
 町の人々に腕をつかまれ、しかしそれでも必死になって、叫び続ける少女がいた。彼女はずっしりと水を吸った白のローブを引きずって、なおも訴え続けている。
「――ハティア!」
 声の限りに叫んだが、やはり彼女に届かない。そうこうしている間にも人々は、荒っぽく『ラト』に詰め寄った。
「このガキ、育ててもらった恩も忘れて、町にこんな災いを持ち込むなんて」
「こいつが町へ紛れ込んでいたと、どうして誰も気づかなかったんだ。気づけば、未然に防げたかも知れないのに!」
「だから、先代の婆様が育てると言った時、俺は反対したんだ。こんな化け物を生かしておいて、一体何になるんだよ!」
「やめて! ……っ、もうやめて!」
 ずきん、ずきんと脈打つ度に、心の螺旋が軋んでいく。降り続く雨が、ラトの体温を奪っていく。
 行かなくては。行って、ハティアを安心させてやらなくては。しかしそうは思うのに、足が少しも動かない。
「お前が何もできないなら」
 男の一人がそう言った。
「このまま川へ落としちまうっていうのも良いかもしれねえな」
 ラトが奥歯を噛みしめたのと、ハティアが青ざめたのとは同時のことだった。そして、――
 次の瞬間、男がぽん、と『ラト』の背中を突き飛ばす。無抵抗な少年の体が、濁流の中へ呑まれていく。
「――ラト!」
 悲鳴のような呼び声がした。見ればハティアが町の人々の手をふりほどいて、タネット川へと駆けていく。ラトも先ほどまでの硬直が嘘のように、彼女の後を追いかけた。
「違う! ……ハティア、それは僕じゃない!」
 ぬめる地面を必死に蹴って、『ラト』を追うハティアへ手を伸ばす。その指先は浅く彼女のまとったサテンに触れたが、――しかし、それだけだ。
 がくんと大きく視界が揺れた。雨で緩んだ足場が崩れたのだと、気づくのに時間はかからない。瞬く間にラトの視界は、漆黒の闇に覆われた。
(ああ、川面が)
 眼前に迫る。

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