吟詠旅譚

太陽の謡 第一章 // 忘却の風土

009 : Pluvia

 チリン、と軽やかな音が鳴る。その音は柔らかな棘でラトの心を引っかいて、また軽やかに遠のいた。
 身じろぎすることすらできなかった。耳にした言葉が偽りであるように、祈ることしかできなかった。
(一体誰が、――死んだ、って?)
 腕ががたがたと震えていた。さもすればどこか遠くへ連れ去られそうになる自分を引き戻すように、両腕で自らの肩を掴んだが、感じた恐怖は少しも和らぐ様子がない。
 そう。これは、恐怖だ。得体の知れない何事かへの、恐れの念だ。
――おまえは現実なんか、ちっとも望んでいないじゃないか。
(嘘だ)
――それじゃ、一つ試してみようか。
「……嘘だ!」
 叫ぶ。同時にまたどこかで、鈴の音が軽やかに響いた。するとそれが合図であったかのように、周囲の色彩が、歌が、波の満ち引きのように静かに失われていく。気づけばニナを始め、マカオの人々は皆消え失せていた。
 そうして掻き消えていく色彩を追いかけようとして、しかしラトは言葉もないまま、大きく首を横に振った。心を占める不安を、恐怖を、振り払ってしまいたかった。
 禍人の言葉を真に受けるなら、これが現実だということか? これが、ラトが望んだ現実の世界での出来事だというのか?
――人殺し! 町の人、みんな、人殺しよ!
 どくん、と大きく鼓動が鳴る。
――返して! あたしのお兄ちゃんを、返してよ!
(どうして)
――あの様子じゃ、私たちとは暮らせないだろ。都へやるのがいいんじゃないか?
――でも実際、怖いわよねぇ。あんなのが丘一つ越えたところに住んでるなんて。
――母さんが倒れたの。 顔を真っ青にして、口から、たくさん血を吐いた……!
――この目を、隠す方法があるの?
――残念。『ラト』が探すべきなのは、僕じゃない。
 どくん、どくんと胸が鳴る。握りしめた拳の中を、冷たい汗が伝っていく。
 奥歯を強く噛みしめる。鈍い痛みが脳裏に響いた。だがその時、――心に小さく、音が落ちる。
――このお祭を成功させたら、ラトの願いは叶うかも知れないのね。
「……、ハティア」
 はっとして、鐘楼の方へ振り返る。鐘楼の鐘は歌がやんだ今でも、色づいたままそこにあった。
「そうだ。……ハティアのところへ、行かなくちゃ」
 言い聞かせるようにそう言って、鐘楼へ向かって歩き出す。まるで水の中を進むように足下はおぼつかなかったが、それでもラトは歩いていた。
 町がまた、その大部分の色を失った。歌がやんだということは、ハティアの身に何かが起きたということだ。急がなくては。行かなくては。しかしそう急く一方で、ラトの心の臆病な部分は、甲高い声で悲鳴をあげる。
――おまえは現実なんか、ちっとも望んでいないじゃないか。
 足を引きずり、歩いていく。するとぽつりと、冷たい水滴がラトの頬を打った。
 雨粒だ。
 糸のように降るそれは、あっという間にラトの全てを冷たく蝕んでいく。
 町の中央に向かって歩いていたはずなのに、気づけばラトは、町の外れの墓地にいた。見ると、ある墓石の前に見知った少女がうずくまっている。
「――ニナ」
 躊躇いがちにそう呼んだのは、ラトではなかった。誰か町の少年が、しかし彼女に歩み寄ろうとして、その母親に道を阻まれている。
「もう、あの子に関わるのはお止し」
「でも、……」
「いいから。さあ、行くよ」
 そうして母子が立ち去るのを見送って、ラトはニナへと近づいた。しかし話しかけはしない。それができる程、厚顔にはなれなかった。
「母さん。――ねえ、どうしたらいいの。母さんは、お兄ちゃんは必ず帰ってくるって言ったでしょう。だけど、それは一体いつなの? 私が都へやられてしまう前に、お兄ちゃんは助けてくれるの?」
 言ってニナが、ぽろぽろ泣く。その涙が、雨となりラトに降り注ぐ。
「母さん、なぜ死んだの……。あんなふうに血を吐いて、きっと苦しかったでしょう。少し、泣いていたもんね……」
 雨がまた強くなった。しかしラトがそのことに気づいたのは、もっとずっと後のことだ。
(僕がこの世界にいた一年間)
 冷たい何かが、ラトの背筋をなぞっていく。
(――現実の世界では、一体何が起こっていたっていうんだ)
 どこかでぴかりと、稲妻が光る。続いて聞こえた轟きと同時に踵を返すと、ラトは、一目散に駆けだした。
 どこへ向かうわけでもなかった。ただその場を立ち去りたかった。しかしそうする間にも、人々の言葉が追ってくる。
「俺の羊、俺の畑……。全てあの雨に持って行かれちまった!」
「今に疫病が起こるだろうよ。ねえ、親戚の伝手を使って、どこかに移り住めないかい」
「泣くんじゃないよ! どの家だって、今は食料が足りないんだ!」
「ああ全く、占い師のいない生活が、こんなに不便だとは思わなかった」
「あの化け物のせいで、この町も終わりだ!」
 走って、走って、走り続ける。肺が焦がれて息が詰まった。それでも、止まることなどできやしない。
「――ハティア!」
 鐘楼へ着くなり名を呼んだが、応える声はそこになかった。見れば、鐘吊部屋へと続く梯子が降りている。
――ここへ帰って来た時に、下でこの鈴を鳴らして。そうしたら私、すぐに梯子を降ろすから。
 遅かった。後悔の念が胸をよぎる。
 乱暴に梯子を駆け上がったが、やはりハティアの姿はない。ただ鐘吊部屋の床に、禍人に奪われたはずの鈴が所在なげに落ちている。
(禍人が、ハティアをどこかへ連れ去った)
 どうあっても、ラトの邪魔をしようということか。幻を見せ、ラトを惑わし、そうして次はハティアまで、――。
 黙々と、ただ無感情に梯子を登りきる。鈴を拾い、雨足の強くなったマカオの町を見下ろすと、なんだかやけに懐かしい思いがした。
「避難所へ急げ! 崖崩れが起こるぞ!」
「手の空いた奴は来てくれ! 町はずれの学校の生徒が、教室に閉じ込められたままなんだ。……あのままじゃ、いつ土砂に呑まれてもおかしくない!」
 ぴかりと再び雷鳴が轟く。聞いて、ラトは昏く笑った。
 ああ、お次は『あの時』か。見れば避難所と称した町長の家に、慌ただしく人が出入りしていた。そうしてそこに一つ、見覚えのある人影が飛び出してくる。
「お……おい、君! 危ないから、子供は中で待っていなさい! おい、聞こえないのか!」
 呼び止める声を振り払うように、ただひたすらに走る少年がいた。その少年が、学校に閉じこめられた妹を助けるために走っているのだと、ラトはよく知っている。
(いや、違うな。――あいつは町の人達の怯えた顔を見るのが居たたまれなくて、避難所にいられなかったんだ)
 しばらく様子を眺めていると、救助隊の人間が帰ってきた。その青ざめた顔を見て、ラトは思わず笑ってしまった。その男が今度は何を報告しに来たのやら、すぐに見抜けてしまったからだ。
「みんな無事か? 学校の救助は、間に合ったのか?」
「生徒は皆助かったが、今はそれどころじゃない。――例の化け物が、丘から降りていやがったんだ! あいつだ。あいつが、この大雨を降らせたに決まってる!」
 男の怒号を聞きながら、ラトは足音もたてずに梯子を降りた。そうして、どこからか風に飛ばされてきた薄汚いローブを身にまとう。ぐっしょりと塗れたローブは冷たく、しかしラトの体を頭の先からすっかりくるんでくれた。
「タネット川へ集まれ! 化け物の手から町を守れ!」
(そうだ。そう言ってお前達は、僕を川岸へと追い立てた)
 殺したいほど憎まれるような、一体何を僕がした。
 殺したいほど恐れるなら、何故早くにそうしなかった。
 人々に背を向け、歩き出す。しかしそうして数歩行ったときのことだ。
「ラト!」
 自分を呼ぶその声に、ラトは慌てて振り返った。遠くに聞こえる、この声は。
「やめて! ――ラトに、何するの!」
「……ハティア?」
 呟き、声の主を目で捜す。そうしてラトは、はっとした。タネット川へと向かう一団を追うように、白いローブの女性が駆けていく。間違いない。ハティアだ。しかしその近くに、てっきり一緒にいるのだろうと思っていた禍人の姿はない。
「ハティア!」
 声の限りに叫んだが、彼女にはそれが届かなかった。
「ハティア、僕はここだ! ……どこへ行くんだ!」
 奥歯を噛みしめ、ぬかるんだ地面を蹴りつける。そうしてラトはハティアの鈴を握りしめると、川へと向かう一団を追った。

:: Thor All Rights Reserved. ::