吟詠旅譚

太陽の謡 第一章 // 忘却の風土

008 : Domus pectus pectoris

 空は相変わらずの曇天である。糸のような雨は一旦止んだようであったが、それだって、いつまでもつやらわからない。旅人は空を見上げると、ふう、と大きく溜息をついた。
(あの酒場の主人に、からかわれたんじゃないのか)
 しかしそうは思いながらも、馬を引く歩みを止めはしない。どうせここまで来てしまったのだ。折角なら、自分の目で事の次第を確かめるのも悪くはない。
 一歩一歩、足元に細心の注意を払いながら、人々の棄てた街道をゆく。件の大雨から一年経った今でも、この辺りの道ではまだ地滑りが起こるのだそうだ。くれぐれも気をつけろと忠告されたことを思い出しながら、旅人は再び、大きく深く溜息をついた。
 顔を青くして旅人の無事を祈ってくれた酒場の主人の事を思うと、どうにも嘘をつかれたようには思えない。だがしかし、彼の話があまりにも突拍子のないものであったため、どうにも信じる気になれない事も確かなのである。
(よりにもよって、三つ目の化け物って)
 人間の子供の姿をした、額に目を持つ異形の子。それが、旅人がバーバオの町で仕入れた『マカオの化け物』の特徴であった。聞いた話を端的にまとめれば、どうもその『化け物』とやらが不思議な力を操って、マカオの町に大雨を呼んだのだという。
 三つ目の人間だとか、羽のある人間だとか、そういった変わり種の話は、旅人も今まで何度か耳にしたことがあった。そうして、そのどれもが眉唾ものであったことも重々承知している。
(――まあ、いいさ。あの町じゃ、他に楽しめそうな話もないし)
 ただ黙々と、歩いていく。そうして旅人はやがて、廃墟と化したマカオの町へと辿り着いた。
 
 力任せに相手の胸倉に掴みかかると、どん、と鈍い音がした。恐らくは目の前に佇むこの少年が、壁にどこかをぶつけたのだろう。
 だがそんなこと、構いやしない。ラトは相手をじっと見据え、押し殺した声でこう言った。
「僕が探すべきなのが……なんだって? おまえじゃなければ、誰だって言うんだ」
 問うても、少年のにやついた笑顔は変わらない。ただ彼はぽつりと、「だって僕は、偽物だもの」と呟いた。
「なんだって?」
「だってそうだろう。見てご覧よ、この姿を。僕はラトじゃない。禍人でもない。君の願望が作りだした、架空の人間なのさ。このマカオの町と一緒だよ」
 そうして少年は目だけを動かし辺りを見回すと、鼻で笑って、こう付け足す。
「もっとも、あの女の人のおかげで、この町には大分現実が入り交じってしまったようだけど」
 途端、唐突に腕を振り払われて、ラトは小さく息を呑んだ。見れば少年はラトから距離を取り、にやにやと嗤いながら、己の右手を高々ともちあげている。その手が何か、掴んでいた。
 ちりん、と、軽やかな音がマカオの街道に鳴り響いた。ラトは慌てて自分のポケットをまさぐったが、ハティアから預かったあの鈴が、ない。
「――、返せ!」
「きれいな鈴だね、ラト。あの人にもらったの? ……だけど僕たち、こんなものは要らないよね」
 言って少年が、ぽん、と鈴を投げあげる。ラトはそれを奪い返そうとして手を伸ばしたが、しかしラトの手が届く前に、また別の腕が――昏い影をまとったその腕が、ラトより先に鈴を掴んでしまった。
「ラト、何故抗うんだい。おまえは現実なんか、ちっとも望んでいないじゃないか」
 禍人だ。見ればたった今までラトと会話していたはずの少年は、町の女たちに同じく霞となって消えている。
「っ……、僕が現実の世界を望んでいないだって? おまえに何がわかる、勝手なことを言うな! 僕は帰るんだ、この偽物の町から出て行くんだ! ……だから、それを返せ!」
 もう一度、手を伸ばす。しかし禍人はするりと飛ぶようにそれをかわし、くすくす笑って空を仰ぎ見る。
「それは、本当におまえの本心かな? それじゃ、一つ試してみようか」
 試すだって? 一体何の話だ。しかしそう考えて空を見上げ、ラトは奥歯を噛みしめた。
 マカオの町の上空に、いつの間にやら真っ黒な雨雲が立ちこめている。それは夜闇に紛れながら、しかし確実に、月や星を呑み込んでいく。
(この一年間――雨は一度も、降らなかったのに)
 チリンと涼やかな音を聞き、視線を禍人へと戻す。しかしそこには既に何の影もないのを見て、ラトは悔しさに歯噛みした。そうしてすぐさま、鐘楼へ向かって踵を返す。
 ハティアのもとへ戻らなくては。
――ここへ帰って来た時に、下でこの鈴を鳴らして。そうしたら私、すぐに梯子を降ろすから。
 ソラリスの歌は今もマカオの町に響きわたっていたが、町の人々の合唱に埋もれてしまって、彼女自身の声は聞こえない。
(もしも、禍人が僕を騙って近づいたら)
 恐らくハティアは、それが偽者であることに気づかないだろう。禍人の真意がわからない今、それは随分恐ろしいことのように思われた。
 こうして町に色彩が灯っている間は、つまり、彼女の歌が町を覆っているということだ。急がなくては。行かなくては。禍人より先に、ハティアのところへ。
 しかし、そう考えた瞬間のことだ。
 唐突に視界が揺れたのを感じて、ラトは大きく空足を踏んだ。そうしてふと目に映った景色に、息を呑む。
 目の前の家が傾いでいた。いや、目の前の家だけではない。通りに面した家々は、皆一様に荒れ果てていた。
 風か何かで飛ばされてきたのだろうか、大きな木片が一つ、民家の薄い窓ガラスに突き刺さっている。隣の家の郵便受けはぽっきりと二つに折れ、ラトの足下に転がっていた。
 町の色は、失われてはいない。しかし、それなら一体何だというのだ。
 用を為さなくなった郵便受けの近くに、大きな水溜まりが広がっていた。地面も町も、すっかり濡れそぼっている。
(雨は、まだ降っていないはずなのに)
 しかし、ラトに水溜まりの理由を思案する時間などはなかった。そうする前に、どこかから声が聞こえてきたのだ。
「――人殺し!」
 まだ、幼い少女の声。ヒステリックにしゃくりあげるその声は、すっかり枯れてしまっている。ラトはわけがわからないままシャツの端を握りしめると、慌てて声の方へと駆けた。
 広場の方だ。声は変わらず叫び続けている。
「人殺し! 町の人、みんな、人殺しよ!」
 叫んでいるのに、今にも崩れそうな声。道端に落ちた、割れた花瓶のように鋭い声。広場へ到着したラトは、その声の主を確認するや否や、愕然とした思いで立ち尽くした。
 何か鋭い爪を持つ手に、心を握り込まれたかのようだった。
 何故、君がそんな言葉を叫んでいるの。誰がそうさせているの。そう問いたいのに、言葉が一つも見つからない。
「……人殺し! お兄ちゃんをどこへやったの、何故お兄ちゃんは帰ってこないの――。返して! あたしのお兄ちゃんを、返してよ!」
 ニナが、――ラトのたった一人の妹が、声を上げて泣いていた。ぼろぼろとこぼれる涙は止めどもないのに、町の人々はみな遠巻きに様子をうかがうだけで、誰もなだめに行きはしない。
「まただ」
 誰かが、疲れた声でそう言った。
「仕方がないさ。あの娘は、既に悪魔に魅入られてる」
「そうは言っても、毎日これじゃあ」
 人々が話す間にも、ニナは、泣いて、泣いて、町の人々へ叫び続ける。
 ああ、タシャは何をしているのだろう。麻痺したようにじんと痺れる頭の奥で、そんなことを考える。こうして泣き散らすニナをなだめられるのは、母さんだけであったのに。
 しかしそれでもやっとの事で歩みを進め、泣きじゃくるニナに手を伸ばし、――ラトはそのまま、凍り付いた。背筋に怖気が走っていた。
 ラトの手が、空を掴むようにニナの体をすり抜ける。ニナ本人も、目の前にいるラトに気づく様子は少しもなかった。
 ニナは今、確かに目の前で泣いているはずなのに。
 何故ふれられないのだ。何故抱きしめてやれないのだ。
「――やっぱり地盤が軟化してる。このままこの町にいたんじゃ、いつ、地崩れで町ごと流されるかわからんぞ」
「じゃあ、このマカオの町を捨てろというの?」
「諦めろ。ここじゃ、もう作物だって作れやしない。バーバオへいけば、もう少しましな生活ができるはずだ」
「ねえ、でもニナは? いったい誰が、あんな子を養うっていうのさ」
 町の人々の無感情な声が、耳に入るそばから抜けていく。ラトはただ立ちすくんだまま、彼らの会話を聞いていた。
「いやぁ……。あの様子じゃ、私たちとは暮らせないだろ。都へやるのがいいんじゃないか? ほら、もう数ヶ月もしたら、都で占い師になるための試験があるだろう」
「ああ、母親だって占い師だったものね。ちょうどいいんじゃないかしら」
 都と言えば、レシスタルビアの首都、暁の都のことだ。噂にしか聞いたことのない町を思うと、鳥肌が立つ。
 この国レシスタルビアは、現存国家の中でも藍天梁に次ぐ大国家だ。国土も広い。だからこそ、この辺境のマカオからでは、都へ行くのも命がけなのだ。森を抜け、広大な砂漠を越え、月が三度満ちる間旅を続けなくては、都へは辿り着けないのだと聞いている。
 そんな所へ、ニナを遣る気なのか。だが何故。タシャは、いったいどうしたのだ。
「体のいい厄介払いだね」
 町の人間の、誰かが言った。
「仕方ないさ。ニナだってどうにか、生きる術を身につけなきゃならない。――タシャも死んで、一人になっちまったんだしね」

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