吟詠旅譚

太陽の謡 第一章 // 忘却の風土

007 : Exsisto vobis.

「ラト。急に予定を変えるだなんて、丘の家で何かあったの?」
 鐘楼へ向かう坂道で、不安そうにハティアが言った。白いサテンのローブをなびかせ、小走りにラトの後を追ってきていた彼女の頬は、熱をもってうっすら赤らんでいる。
 いつの間にやら、歩調を早めていたらしい。ラトは徐々に速度を落としながら、ハティアに気取られないよう、そっと辺りを見回した。
「なんでもないよ。夜の祭も、趣があるかと思っただけだ」
 けっして焦っているわけではなかった。しかし心が急いていることも確かである。こうして話す間にも、そこかしこから禍人に監視されているような気がしてならなかったのだ。
「ラトは何か、隠しているわ」
 ハティアが言った。
「隠してなんかないよ。その必要がないもの」
「私は、ラトが心配だから聞いているのに」
 肩越しに振り返ると、ハティアは子供じみた膨れっ面でラトのことを睨んでいる。
 ラトは思わず微笑んで、しかし一方、心の中では溜め息をついた。こうして平静を装いながら話をしていても、頭の中ではわかっていたのだ。
――均衡は既に崩れてしまった。
 少し前までのマカオの町に、変化という言葉は存在しなかった。毎日変わらぬ天気、進歩のない人々の会話、ラトの知識を繰り返すだけの授業。禍人が姿を見せることもなければ、住人が病に倒れることもなかった。
 ならその日常は、一体いつ崩れたのだろう。きっかけは何だったのだろうか。答えはいつでも、ラトの脳裏へ疾く過ぎる。
 ラトの知るものしか存在しないはずのこの世界へ、異質なそれが紛れ込んだ。
 見知らぬ顔。ラトが切望した『色彩』を、当たり前のように身にまとった者が。
「――ねえ、ハティア。僕が元々この世界の住人じゃないっていうことは、前にも話してあったよね」
 唐突な言葉に、ハティアが「ええ」と怪訝そうに頷いた。
「聞いたわ。だけど何かの事件をきっかけに、この世界へ閉じこめられたんでしょう?」
 聞いてラトは苦笑する。『何かの事件をきっかけに』という言い回しがやけに簡潔で、それが何やら自分の身に起こった事ではなく、他人事のように思えたからだ。
 だが、確かにその通りだ。それで閉じ込められたのだ。そしていまだ、諦め悪く足掻いている。
「僕は今まで元の世界に帰るために、思い付く限りの事を試してきた。町を色づけたいと言ったのも、そうすることで、元の世界へ帰る糸口が見つかるんじゃないかと思ったからだ。――そして実は、今度こそ、何か成果があるんじゃないかと思ってる。元の世界へ、帰れるんじゃないかって」
 ハティアは答えなかった。じっと、ラトの言葉に耳を傾けていた。そうして続く言葉を聞くや否や、はっとした様子で目を伏せる。
「もし本当にそうなったら、僕が元の世界へ帰れる事になったら、……ハティア、君はどうする?」
 立ち止まり、再びハティアを振り返る。彼女は困惑したように眉を寄せ、顔を上げようとはしなかった。
 冷たい夜風が吹いていた。祭巫女の白いローブは、月明りの下に小さく煌めいている。
「あの、でも、……どうするもなにも」
「ハティア。僕と、一緒に行こう」
 歯切れ悪く口ごもるハティアの言葉を待ちもせず、ラトは畳み込むようにそう言った。
「君は明らかに、この世界の他の住人達とは違う。君は忘れてしまったと言ったけど、僕は、君も元々は現実の世界の人間なんじゃないかと思っているんだ」
「でも」
 不安げにハティアが言うのを聞くと、何やら、胸が疼いたような気がした。否定の言葉は聞きたくなかった。
 初めてこの旅人と出会ったときのことを思い出す。あの時は、禍人の時と同じようにとんでもないものを引き入れてしまったのかもと思っていた。――今もそうだ。ラトの心はこうしてして親しげに話す一方で、実情、迷いに揺れている。けれど。
「でも、何?」
 強い口調で聞き返す。するとハティアは心底困った様子で、「今日はどうして、そんなにせっかちなの」と文句を言った。
「善は急げと言うから」
「本当にそれだけ? ――きっと違うわ」
「ハティアこそ、今日はやけに疑り深いね」
「全ての物事に理由があるって教えてくれたのは、ラトでしょう」
 言って、ハティアがむくれた顔でラトを見る。ラトはそれに苦笑すると、しかし簡潔に、声音を落としてこう言った。
「それなら本当のことを言おう。――急がなくちゃならないんだ。邪魔が入るかもしれないからね」
 
「僕が戻って来るまで、梯子を下に降ろしちゃいけない。誰もこの鐘楼に登らせちゃ駄目だ。それに、誰が何を言っても、ここから降りてついて行ったりしないと約束して」
 鐘楼の上でラトが言うと、ハティアは神妙な顔で一度頷いた。禍人の事も丘の家での事も何も知らないこの旅人は、しかしそれでも、何者かに祭を妨害されるかもしれないという事に、なにがしかの危機感を抱いたらしい。
「一通り回って町を色付けたら、最後に一度、ここへ来るよ。さっきの返事、その時に聞かせてくれる?」
 ハティアはすぐには答えなかった。しかしラトに背を向け、町を見下ろすと、こくりと小さく頷いてみせる。
「このお祭を成功させたら、ラトの願いは叶うかも知れないのね」
「確かな事ではないけど」
「ううん、きっと上手くいく。理由はないけど、そんな気がするの」
 そう言って、ラトの歌姫はにこりと笑った。そうして彼女は唐突にラトの手を取ると、そこに何かを握らせる。手を開くと、聞き覚えのある音がした。初めてハティアと出会ったとき、ラトを引き留めたあの音だ。
「……これ、鈴?」
「そう、お守り! ここへ帰って来た時に、下でこの鈴を鳴らして。そうしたら私、すぐに梯子を降ろすから」
 言ってハティアは、「いってらっしゃい」とラトを見送った。
 
 薄闇の町に、白けた灯がともってゆく。
 ラトの号令に叩き起こされた人々が、中央の広場に果物を運ぶ。大通りに篝火を打ち立てる。そうして一言の文句もなく、彼らが黙々と己の作業に従事する姿を見ながら、ラトは昏い笑みを浮かべた。
 意思を持たぬ木偶の坊達。ラトの意のままに動く、人の形をした何か。
 彼らは知らないのだ。こうして自分の為した仕事のために、このモノクロの世界になにがしかの変化が訪れるかもしれない事を。この町の秩序が失われるかもしれない事を。
(そうなったら、このマカオの町の人達はどうなるんだろう)
 そんな思いが脳裏を過ぎり、しかしその不思議さに、ラトはいささか首を傾げた。偽者の町の偽者の住人達がどうなろうと、ラトには少しも関係ない。――そのはずだ。
(そんなことより、今は)
 ふと振り仰いで鐘楼を見る。すると丁度、祭の始まりを告げる鐘が鳴り響いた。
 次いで、町の人々が奏でる伴奏が。そうしてハティアの歌が加わると、ふわりと町に命が吹き込まれたかのように、ラトの周囲に無数の色彩が生まれ出た。
   はじまり告げるは鳥の声
   花舞う彼方 約束の場所
 何度か鐘楼で試した時も同じであったが、この色付きの瞬間、ラトはいつも鳥肌が立つのを感じていた。
 不安と期待に胸が踊る。さもすれば憶病風に吹かれそうになる心を、ハティアの歌が奮い立たせる。
「マカオの広場!」
 大きな声でその名を呼ぶ。すると風もないのに、篝火の紅い灯りが大きく揺れた。ラトの言葉に応えたのだ。
「雑貨屋、リャカの木、中央井戸……」
 ラトの心が火照ってゆく。興奮に胸が熱くなる。
   あかつきの朝 夜は去り
   今は ほら 光の町よ
   熟れた果実がのどを潤し
   我らは今日も喜びあう
 どのように行けば効率が良いか、漏れがないか、一年間この世界を彷徨い続けたラトは既に知り尽くしている。そうしてがむしゃらに町を進みながら、ラトはふと、視界に入った物に微笑んだ。ある家の玄関に、逆立ちした猫の置物を見つけたのだ。
「ねえラト、あれは何のおまじないなの?」
 そう問うハティアの声が、今にも聞こえて来るかのようだ。
   救いの声
   赦しの歌
   涙の粒が木の実に変わる
(ハティアは、小動物が好きみたいだったもの。教えてあげたら、喜ぶかな)
 他には何が好きなのだろう。何を見せたら喜ぶだろう。そんなことを考える。
 好きな食べ物は? 好きな歌は? 自分の事だ。流石に覚えているだろうか。
(もしも、それすら覚えていないのなら)
 これから見つけてあげたらいいのだ。
 他人に対してそんなことを思うのは、ラトにとって初めてのことであった。しかし悪い気はしない。それどころか考えれば考えるほど、ラトの心はまた暖かく灯っていくのだ。
 しかし、その時だ。
   暁の王 我らが父よ
   ここは ほら 砂と灯の国
 ふとすれ違った少年を見て、ラトは思わず足を止めた。そうして振り返り、息を飲む。
 マカオの町の少年が、嬉しそうに駆けていく。懐かしい顔だ。見覚えがある。
(あれは――)
――その札さえあれば、ようく見知った人間達の目すら欺くことが出来るだろうよ。
 以前聞いたその声が、唐突に脳裏へ蘇る。ラトは小さく震えた自らの肩へ手をやって、走り去る少年へじっと目をこらす。
――良い方法を知っているよ。町の人間からはその目が見えないようにする、秘密のおまじないだ。
――この目を、隠す方法があるの?
――あるとも! ああ、ようやくお前が聞いてくれた!
 この目を隠すことができたなら。他の町の子供達のような、当たり前の日常を手にすることができたなら。そう思って禍人と『契約』した日のことが、昨日の出来事のように思い出される。
 あの時ラトは、札を使うたび別人になれた。そうして町を見て回った姿は確か、まさしく、あの少年のようではなかったか。
「ねえ、聞いてよ。うちの子がね」
 唐突に聞こえて来た声に、はっとそちらを振り返る。すると道端に何人か、タシャと同じ年頃の女達が集まっているのが目についた。
「昨日会っちゃったらしいのよ、あの『化け物』に」
 ラトの心が、鈍く疼いた。「やめろ」と小さく命令する。しかし女達は気にとめた様子もない。
   さざめく風が果実を揺らす
   その喜びを 今日も歌おう
「ええ? どうして。あの子が丘を降りて来たっていうの」
「違うのよ。馬鹿なのはうちの子の方。学校帰りに、ニナを家まで送っていったらしいの。それで」
「でも実際、怖いわよねぇ。あんなのが丘一つ越えたところに住んでるなんて。タシャはよく我慢できるわ」
「きっと今頃、後悔してるわよ。ほら、ばあさまの跡取りを決める話になった時、ちょうどロダが亡くなったでしょう。娘と二人で遺されて、自棄になってたんじゃないかしら。だって、そうでもなきゃ……」
「――やめろ!」
 耐えきれずに、叫ぶ。すると女達は、霞のように姿を消した。
 なんのつもりだ。そう当たり散らしたかった。何故あんなものを見せるのだ。何故こんな思いをさせるのだ。
 こんな卑怯な真似をするのは、きっと禍人に違いない。こうしてラトに嫌がらせして、祭りの邪魔をしようというのだ。
 ラトはたちまち振り返ると、今し方擦れ違った少年を追った。追いつくのは簡単だ。少年は何もかもを物珍しそうに観察していて、少しも先へ進まないのだ。
「どうして僕の邪魔をするんだ」
 呟く。そうしてすぐに、追いついた。
 力任せに少年の肩を掴むと、ラトは抵抗する様子も見せない相手を手近な建物の壁に押さえつけた。体中に迸る怒りを、抑圧することが出来なかった。
「こんな事をして何が楽しいんだ。……禍人! 丘でのことも、さっきの会話も、全てお前が見せているんだろう!」
 少年は答えない。怯えもしない。しかし無感情な表情でラトを見据えると、こんな事を言う。
「残念。『ラト』が探すべきなのは、僕じゃない」
 少年の顔に、昏い笑顔がじわりと浮かんだ。

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