吟詠旅譚

太陽の謡 第一章 // 忘却の風土

006 : Tumulosus "desiderium"

 息を弾ませ、丘をのぼる。斑に色付いた草花は、ラトの足下で乾いた音をたてた。
 この丘にのぼるのも久しぶりだ。しかし十二年間ラトを育んだこの丘は、ラトの記憶から一寸の狂いもなくそこにある。
 肩で息をしながら、途中で一度足を止める。汗を拭おうと腕を上げると、額に巻いた布がほどけた。だがハティアがいないここでなら、額を隠す必要もない。ラトはそれを握り締めると、再び丘を駆け始める。
(母さんが、――血を吐いて、倒れただって?)
 こうして急ぎ走りながらも、ラトは至って冷静であった。
 吐血に効く薬草は何であったろうと、そんな事を考える。なんとしてでも治ってもらわねば。偽りの世界の、偽りの町の住人達。その彼らに病があるのだとしたら、それは一体何を示唆しているのだろう。考えても見当がつかないそのことが、ラトの腹の内をぞっと冷たく凍り付かせる。
 白々しい太陽の光の下に、見知った家が見えてきた。古くつましい丘の家。ラトは緊張に高鳴る胸の鼓動を押し殺し、急ぎ扉へ手をかける。
 一瞬、空気がざわめいた。その感覚に、ラトは小さく息をのむ。
(精霊の、声――?)
 この世界に来てからというもの、精霊達はラトの前に微塵も姿を現わさなくなっていた。もうすっかり、見捨てられたものと思っていたのに。
 しかしそれきり、彼らの声らしきさざめきが聞こえてくることはなかった。もしかすると今し方の声も、ラトの勘違いであったのかもしれない。久しぶりに丘の家へ帰ったものだから、彼らと話す感覚を取り戻したかのような、そんな錯覚を覚えただけであったのだろう。
 ――精霊と話すなんて、その程度のこと、母さんやばあさまだってやってたじゃないか!
 あの時の言葉は、本心からの叫びであったのに。思い出して、苦笑する。
「――母さん?」
 恐る恐る、声をかける。扉をゆっくり押し開ければ、キィと、蝶番の錆び付いた音が耳のうちをひっかいた。
 カーテンの閉じた室内は、どこか陰気で薄暗い。ラトは質素なテーブルが置かれた室内を見回して、それから縋るような思いでカーテンを左右へ寄せた。
 温度のない光が差し込む。しかし、室内にはやはり誰もいない。ならばタシャが倒れたというのは、ここではなく寝室なのだろうか。
 ごくりと小さく唾を飲んだ。そうして狭い廊下へ向かおうとして、ラトは思わず足を止める。
 竈のそばに、赤黒い闇が落ちていた。血溜まりだ。恐らくタシャは、ここで血を吐いたのだろう。だが、――
 恐る恐る近付き、そして、拳を握り締める。
「……何故、赤いの」
 モノクロの世界に、ぽつり呟く。
 色のないはずの部屋の中、ただ小さな血溜まりだけが、赤黒く病んで見えていた。よくよく見れば木の壁にも、血がこすった跡がある。血に濡れた手で、壁にもたれかかりでもしたのだろうか。
 得体の知れない、しかし不吉な思いが脳裏を過ぎる。そうしてラトは、急ぎ狭い廊下へと向かった。その時だ。
「お帰り、――ラト」
 恬淡とした、声がする。
「あなたが帰って来るなんて、久しぶりね」
 入口の扉が開いていた。そこに一つ、黒々とした人影がある。ラトは一度息を呑んで、しかし漏れかかった声を押し殺すように、強く奥歯を噛み締めた。
 タシャだ。そう気付くまでに時間があった。何故ってその時の彼女は、――まるで初めて出会った時の禍人のように、朧気な影と見えたのだ。
「もう時期ニナも帰って来るわ。せっかくだから、今日はお夕飯を食べていったらどうかしら」
 『タシャ』がそう言い、手にした籠を側へ置く。
 占い師の長い指が、籠にかぶせた布をつまむ。占い師の白い腕が、麻の布を畳んでいく。そうしてようやく、――この母の顔が形を成した。
 ラトの記憶と寸分も違わない、人の心の奥底まで見通すような、深く鋭い占い師の顔。ニナが訴えたように、青ざめたふうなど微塵もない。血を吐いたような形跡もない。
 はっとなって足下を見る。気付けばたった今までそこに在ったはずの血溜まりが、幻のように消え失せている。
「今日はあなたの好きなイエミスタよ。甘くて美味しいトマトをいただいたの」
「……。夕飯には、まだ早いよ」
 ぽつり、答える。するとタシャは小さく笑い、明るい室内で何故だか、カンテラの綿糸に灯を点けた。そうしてラトはタシャの視線を目で追い、瞠目する。
 一瞬のうちに、とっぷりと日が暮れていた。
(たった今まで、確かに昼間だったのに――)
 一体、何が起こっているのだ。ラトは今にも思考を放棄しようとする自分自身を奮い立たせながら、外への扉へ後退った。すると追い打ちをかけるように、今度は「お兄ちゃん?」と、先程までは人の気配のなかった室内から、妹の明るい声がする。
「お兄ちゃん、今日は一緒にいられるの?」
 にこやかに笑ってニナが言った。町で会った時にはあんなに息を切らして、涙まで浮かべていたのに。訳がわからないまま、ラトは問うた。
「……。ニナ、ハティアはどうしたの」
「ハティア? 誰のこと?」
「さっき、町で会っただろう」
「町で? ……私が?」
 あどけない顔で妹が言う。同時にラトの背は空虚な音を立て、救いの扉へ行き当たった。
 とにかく、今は一刻も早くここを去ろう。冷静であろうとするラトの心が、強くラトに呼びかけた。一度自分の頭の中を、整理する時間が必要だ。
「もう行っちゃうの?」
 ニナの言葉に苦笑する。そうしてラトは無言のまま、丘の家を飛び出した。
「均衡はすでに崩れてしまった」
 どこからか、そんな声がする。ラトはそれを振り払うように丘をくだろうとして、しかし途中で足を止めた。否、立ち止まる気などさらさら無かったのに、聞き覚えのある叫び声に、思わず足が捕らわれたのだ。
「出して! ――出してよ! どうしてこんな、意地悪をするんだ!」
 幼く、不安げな叫び声。追って戸を叩きつける音も聞こえて来る。
「開けて! 今日は北の牧草地まで行くって、ばあさまと約束したんだ! 僕……僕、もう行かなきゃいけないのに」
 そうして声がしゃくり上げる。聞いてラトの表情は、一瞬のうちに凍り付いた。
 反射的に家の脇へ建てられた古い物置に視線をやれば、ドン、ドン、と音がする度、扉に付いた錠前が揺れている。声の主がその物置の中で、戸を叩きながら叫んでいるのだと、ラトは確かに知っている。
 あれはいつの事だったろう。ラトがまだ、この丘にばあさまと二人で住んでいた頃の事だ。食料を運んで来た町の人間達に、ラトは――ただ悪戯に、あの物置の中に閉じ込められた。
「開けて! 開けてよ……、ひどい……どうして」
 あの時のラトは為す術もないまま、夕方にばあさまが家へ戻るまで、ただ戸を叩き続けていた。ラトを閉じ込めた人間達は既に町へ帰ってしまっただろうと、本心ではわかりきっていたのだが、それでも、訴える手を止める事はできなかったのだ。もし諦めてしまったら、それこそ嫌がらせをした人間達の思うつぼだと思えて悔しかった。
 町の人間が憎らしかった。何故こんな事をするのかと、ラトは何度も虚しく問うた。そんな昔を思い出す。
「お兄ちゃん。本当にもう、行っちゃうの?」
 聞き慣れた声がした。ニナだ。振り返れば斑に色付いた野原に、ぽつりと妹が佇んでいる。それを見てラトは、小さく笑った。
 ああ、この汚いやり口には覚えがある。
「ねえ、だけどどこへ行くの? 元の世界? そこへ行ったら、お兄ちゃんの求めているものは見つかるの?」
 五月蠅いな、お前に関係ないだろう。ラトの心に、昏い怒りが湧いて出る。
 そんなことを問うために、あんなつまらない物を見せたのか。こんなくだらない思いをさせるのか。
「今も見たでしょう。元の世界の何がいいの? 帰ったって辛いだけよ。忘れたの? あの雨の中、町の人達はお兄ちゃんのこと――」
 わかっている。覚えている。
 とぐろを巻いたタネット川、ラトへ向いた戦慄の視線。
――だから、先代の婆様が育てると言った時、俺は反対したんだ!
――川へ連れて行け、あそこの被害が一番大きい。
 ラトの声は届かなかった。誰もが、恐怖と怒りで我を忘れていた。
――おまえが何もできないなら。
――このまま川へ落としちまうっていうのも良いかもしれねえな。
 覚えている。
 彼らに、殺されかけたことくらい。
 握り締めた拳を押しとどめるように、左の腕で利き手を掴む。怒りで体が震えていた。怒りの理由は、明白だ。
「ねえ、思い出した? だったら……」
「っ……ニナの姿で話すな、卑怯者! ――禍人、おまえなんだろう!」
 叫ぶと同時に、震えが走る。しかしどうやら、それは相手も同じことであったらしい。妹の姿をしたそれははっとした様子で口をつぐみ、それからラトを睨み付けた。その額にキラリと、一瞬、輝くものがある。
「……。はじめから、疑ってかかっていたような口振りだね」
 そう話す声は、既にニナのものではない。そうしてラトが凝視している内に、姿も妹とはかけ離れた影へと変わった。それは昏い、昏い、朧気な姿の影であった。今も憎くてたまらない、見覚えのある、三つ目の少年の影だ――。
「けど、ばれてしまったのなら仕方ないね。丁度お前に問いたいこともあったんだ。ねえラト。あの鐘に、どうやって色を取り戻したの」
 口の端をつり上げて、禍人がそう、ラトに問う。
「そんなこと、お前に教えてやるもんか」
「一瞬だけど、町も全てが色付いた。……あの女の力なの」
 聞いて、ラトははっとした。『あの女』とは恐らくハティアのことだろう。禍人と町で再会したとき、彼がじっと息を殺して、ハティアを凝視していたことを思い出す。
 ラトは胸に浮かんだ不安を押し殺し、毅然とした態度でこう返した。
「素直に答えると思うのか」
「相変わらず、私の事が嫌いなんだ」
「……っ、当たり前だ!」
 叫ぶ。同時に丘へ、強い一陣の風が吹く。
 巻き上がる青草に思わず目を細めると、一瞬のうちに禍人の姿がかき消えた。風に乗って逃げたのだ。しかしその陰鬱とした声だけは、丘の野原に響き渡る。
――馬鹿だな、何故抗うの。この世界にいれば、いくらだって思う通りになるのに。こんなに都合の良い場所なんて、他のどこにもありはしないのに。
 ラトはそれに答えなかった。そうしてその声を背に、ただ町への道を急いだ。
 禍人が、確かにハティアの事を問うた。いまだ確信に至っていないとはいえ、色付きの理由には見当をつけているのだろう。禍人の真意は知れないが、こうして彼女を一人にしておくのは、得策ではなさそうだ。
(禍人は、元の世界へ帰るのかと僕に尋ねた)
 裏を返せばつまり、やはり町を色付ける事は何かしら、この世界から抜け出す方法に関わっているということだろうか。だからこそ禍人は、現状からの突破口を見いだそうとしたラトを、牽制しようとしたのだろうか。
 だがもしそうなのだとしたら。ラトをこの世界に引きとどめて、禍人になんの利益があるというのだろう。
――母さんが。
――母さんが、倒れたの。 顔を真っ青にして、口から、たくさん血を吐いた……!
 泣きじゃくりながら、町を駆けてきたニナのことを思い出す。あれもラトをおびき出すために、禍人が仕組んだことだったのだろうか。
――均衡はすでに崩れてしまった。
 あの時誰かの声がした。誰の声かはわからない。しかしそれを思い出す度、緊張に胸が締め付けられる。
 ラトの暮らしたあの家に、赤黒い血溜まりが落ちていた。それが、視界にちらつき離れない――。
 奥歯を噛みしめ、小さく拳を握り締める。そうしているうちに、町の中心近くにあるパン屋の看板が見えて来た。その角を曲がれば、すぐ目の前がラトの家、更に隣が数日前からのハティアの仮暮らしの家だ。
 だがそこまで来てラトは、不意に辺りを見回した。どこからか、優しい歌声が聞えてきたからだ。
   夢を見ていた気がするの
   今もまどろむあなたのとなりで
   私はあなたの髪を撫で
   そっと微かに耳打ちする
 しかし初めて聴く歌だ。ハティアだろうか。ラトはパン屋の角を曲がり、そのままそこへ立ち止まる。
 ラトの家の玄関先に、膝を丸めて小さく座る人影がある。明るい色をしたその人影は、静かに、どこか寂しげに、一人で歌を紡いでいた。
   私の夢は幸せでした
   あなたのとなりにおりました
   どうか目覚めず聞いていて
   私の最後の幻想を
 言葉が、歌が、この暗闇に散って行く。
 声をかける事ができなかった。胸が締め付けられるように痛かった。
 その歌にはどこか、独り彷徨い続けた旅人の、孤独が滲んでいるように思えたのだ。
 人影がはっと顔を上げ、それから即座に立ち上がる。「ラト!」と呼びかけたその顔は、花が咲いたように晴れやかだ。
 ああ、このどうしようもない侘びしさを、飢えにも似た人恋しさを、ラトも確かに知っている。
「おかえりなさい! よかった、帰ってきてくれて……。あの、あのね、ラトがいなくなったすぐ後に、あの女の子、どこかに行ってしまったの。私、ラトの言っていた丘の家の場所もわからないし、仕方がないからここで待っていたんだけど……」
 ラトへ駆け寄り、一息にそう言い募る。思わずラトがくすりと笑うと、彼女もつられて笑みを浮かべた。それだけで、たった今まで頑なに張り詰めていたラトの心が、柔らかく解きほぐされていく。
「寒くない? 家の中で待っていたらよかったのに」
「歌の練習をして待っていようと思ったの。外で歌った方が、なんだか気分がいいから……。それに、ついさっきまでお昼だったのよ。瞬きする間に、すっかり夜になっていたけど」
 やはり時の流れの異常さは、ラトだけでなくハティアも感じていたらしい。彼女がそれを『異常』だと認識したかどうかは、また別の話だが。
「さっきの歌は、また新しく思い出したの?」
「ううん。あの歌だけは、ずっと前から歌えたの。……ああ、ラト。ちょっと待って」
 言ってハティアが唐突に、ラトの額に手を伸ばした。ラトはぎょっとして、無意識に数歩後ずさる。
「バンダナ、はずれかけてる」
 言われてラトは曖昧な笑みを浮かべ、「ありがとう」とだけ短く言った。そうして慌てて、「自分で直すから」とも。
――その目さえなければ、おまえと町の子供とどこが違う?
「ラトは、いつも額に何か巻いているのね」
 ハティアが言った。「そうだね」と、ラトはそれだけただ答えた。
「それよりハティア、予定が変わったんだ。今すぐ、出かけられる?」
「私は大丈夫だけど……。一体、どこへ行くの?」
 問われてラトはにこりと笑い、恭しく手を差し出した。そうしてはっきりとした口調で、ハティアに向かってこう告げる。
「祭巫女。一足早く今晩から、マカオの祭を始めます」

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